第2話 「 CHORD 」

 10年程前、私がまだ学生で街で飲み屋のバイトをしていた頃、近くの店々にフラリと現れてはピアノを弾いて流している初老のおじさんがいた。その昔は専属でラウンジピアニストをやっていたらしいが、偏屈な性格が災いして、その頃には半ばホームレス同然の様相だった。

 おじさんのレパートリーは彼の性格と同じくかなり偏っており、客のリクエストもほとんど無視する始末。それでも店の方で特に嫌がりはしなかったのは、おじさんの朴訥とした物腰と純粋なピアノの腕に因るものだろう。

 ところがある時、たまたま店に来てピアノをさらっていたおじさんに、酔った客が昔の軍歌を弾くように言った。最初おじさんは普通に断っていたのだが、客の方もムシの居所が悪かったのかだんだんしつこく絡むようになって、遂におじさんはピアノから立ち上がりその客の胸倉をつかんた。そしておじさんは一言、「軍歌は趣味じゃない」と言ったきり店を出ていった。その場にいた誰もが、おじさんのいつものと違う様子に驚いて、ただ立ち竦んでいた。

 私が最後におじさんに会ったのはそれから2、3日した後のこと。カギを預かって最初に店に来ていた私は、しばらくしてから誰かが中に入ってくるのを感じた。おじさんだった。

「どうも」おじさんは一対一だと相手の顔さえ見れないくらいシャイだった。

「この前は大変でしたね。でもやっぱり、ピアノで軍歌は嫌ですよね」私は言った。

「軍歌が嫌というより、私は先の戦争のことがあるので…」おじさんは言った。

「はあ…」私は少し緊張していた。

「全く、人間ってのはおかしなもんです。いつまでたっても世界中のどこかで戦ばかりやってる。おまけに戦地で戦うのはいつも貧乏人だ。金持ちは高嶺の見物を決め込んでね」おじさんは冷ややかに笑った。「私はまだあの頃はほんの子どもで、それでも日本の為に何かできることがあればって、いつも死ぬ覚悟だけは持ってましたよ。純粋に。でもね、戦争は所詮殺し合いです。それからは何も美しいものは生まれてこない」

「でも、おじさんにはピアノがあったんでしょう?」私は言った。

「…そうだね。不思議だな、今までそんな風に考えたことはなかった。私にとって、ピアノはあまりにも近いものだったから」

「きっとおじさんはピアノに救われたんですよ」私は言った。「羨ましいです。私には何もないから」

「お嬢さんはアルバイトの人でしょう?」

「はい」

その時、おじさんは初めて私の目を見た。

「何んでもいいんです。焦らなくていい。いつか貴女にもそんな大事なものが見つかる。そう信じてさえいれば。こんな私にだって道づれはあったんですから。御覧なさい」

 そう言うとおじさんはさっき私が点けたテレビのニュースを指差した。

「また中東辺りで戦争をやってる。ああなったらもう政治では止められない。無能な政治家たちの起こした不協和音が、名もない人間(もの)たちの心までかき乱していくんです。美しいもの、大事なものまで…」


「年寄りのつまらない話をしました。今日はこの前のおわびをしようと思っただけだったんだけど。でも、お嬢さんと話せただけでも良かった。普段はいつも話し相手がいないものでね。おまけに最近じゃ、ピアノの指も回らなくなった」

 そう言うとおじさんは踵を返した。

「おじさんのピアノ、私好きですよ」

 私は何か不安な気持ちがして、ただそれだけをやっと言った。おじさんは入口のところで一度私の方を振り返ると、「有難う」と丁寧に頭を下げ店を後にした。

 あれから10年。おじさんには結局会えずじまいだった。でも時々私はおじさんのピアノを思い出す事がある。それは決まってテレビのニュースとかで世界の争いごとを映している時だ。私にとって、所詮それはTV画面の向こう側のこと。でもあのおじさんにとってはまぎれもない現実の光景だったのだろう。私はふと思う。ひょっとしたらおじさんは、あの店のあったビルの片隅で、今でも「月光」の曲を弾いているのかも知れない。 

 私には、そんな気がする。 

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