超短編シリーズ②
桂英太郎
第1話 「 2017/5/2 」
実家から、母親の小言を逃れるようにして小旅行に出る。旅行とは云ってもつい二年前までのべ三十年近く住んでいた、二〇〇キロほど離れたK市までの比較的短い距離だ。今回は数少ない遊び友だちとの待ち合わせ、そして女房の実家での所用がある。
昨年来のいくつかの突発的な災難で、それこそ数え切れないほどこの片道三時間余りの道のりを往復した。行きは切羽詰まった、そしていささか暗欝とした気分で。帰りは疲労で頭に鈍痛を抱えながら。時に女房と二人、あるいは喪服姿の母親と、そしてある時は一人きりで。
今回はこれまでになく気楽な旅のはず。しかし俺の気分は最悪のレベルと云っていい。ほとんど打ちひしがれている。ここ二週間ほどはそれがずっと続いている。そのことを思い出すたびに両のこめかみから奥が疼き始め、そして正(まさ)しく「この先真っ暗」な心持ちになる。女房が「あんたにもしものことがあったら、それが一番困ることだから」と、最近ネットで借り物件をまめに探している。つまり二年前に越してきた実家から出ていこうと云うことだ。俺にも異論はない。いや、むしろ俺の方が老いた母親と云う存在に耐えられなくなっている。そして女房には実際少なくない迷惑を掛けているのだ。
今朝家を出た時、母親はもちろん女房も熟睡していた。朝の六時台。普段夜遅くまで家事をしている彼女は、ひと息つくと酒を飲みながらネットのアニメ番組を見るのが日課になっている。それが唯一の気晴らしなのだ。今から出発することを知らせていこうとしたが、その瞬間彼女の意味不明な短い寝言と、横で寝ていた飼い猫がやおら起きて女房の傍らの毛布を憑かれたように両手で揉み始めるのを見て止めた。そして逃げるように荷物をまとめ車に乗り込んた。五月になったばかりの周りの田園風景は、まだ眠ったように白い霞に包まれている。いっそこのまま、この乳箔の中に溶けてしまえたら…。俺は本気でそんな馬鹿げたことを願っていた。
カーステレオからはインストゥルメンタルの曲が流れている。アーティスト名は言っても知らないだろう。とにかく地味で、控え目な音楽がいい。今の俺の精神には刺激物はNGなのだ。そして出来れば感情を程良く発散させてくれたら申し分ない。このところの俺は女房とさえ碌に口を利いていない。気持ちが言葉へと解(ほど)けてゆかないのだ。ある朝など、出がけに「すまないが…」と言いかけてそのまま絶句、途方に暮れてしまった(その姿に女房も何も言わなかったが)。そんな俺たち夫婦は、子どももいないまま今年で結婚丸十年を迎えることになった。
さて、予定としては遅くとも十一時頃にはK市に着く。途中休憩の時間もちゃんと想定してある。元々車の運転が好きな俺は、若い頃は三時間くらい休憩なしでハンドルを握ることも苦にならなかった(もちろんトイレは別として)。しかし最近はどうもいけない。体力と云うより気力がもたなくなった。集中力と云ってもいい。時折老いと云うことを考える。四十半ばと云う自分の歳。ひどくなる一方の老母の偏狭さ。そして女房とのこれから先。今更若さを羨む気持ちは毛頭ないが、変質していく自分たちにどう向かい合えばいいのか、今の自分にはその柔軟さが失われている気がしてならない。そう云えばつい先日職場で思わず声を荒げてしまうことがあった。状況としては何てことはない。俺のデスクの近くで若手の社員たちが別の社員の要領の悪さを噂していた。元来俺はその手のことに一切興味がない。要は聞き流していればよかったのだ(事実普段はそうしているのだから)。しかしその日はどうも違っていた。彼らの話が次第に盛り上がっていくにつれ、俺の中で何か押さえようのないものが捻じくれていった。「ちょっとうるさいよ」気づくと俺は彼らを振り返りそう口火を切っていた。「そんなにヒマなら、向こうに行ってやってくれ」連中は一瞬固まったが、そのうちそそくさと自分のデスクに戻っていった。普段は温厚さだけが取り柄の俺だ。そんな奴がいきなり激昂したので彼らも驚いたのだろう。その日は帰りまで誰も俺に話し掛けてくる者はなかった。
いかん。また頭痛がぶり返してきた。頭の奥が鈍く、それでいて荒い呼吸を繰り返すようにズキズキと何かを俺に強要する。たまらず俺は干拓地を抜ける沿岸道からコンビニの駐車場に車を滑り込ませる。きな臭い悪寒が上半身から口元に湧き立ち漏れ出ている。それを自力で押し留めようとして余計に咽かえしてしまう。俺は車のガラス戸を開けせめて風に当たろうとするが、生憎今日は期待するほどのそよぎがない。その代わりまだ午前中のひんやりとした空気が車内に入ってきて、俺の空吹かす身体を幾分宥めてくれる。「何か飲み物でも買うか」俺はひとり事を言いながらそのまま車内から出ようとする。別に盗られて困るようなものは今回持ち合わせていない。衣類と毛布、それから何枚かの音楽CDくらいのもの。
いつものゼロカロリー・コーラを買って戻ってきた俺は、それでも幾分調子が戻っている(ついでにトイレも済ますことができた)。すると鼻先でほのかに潮の香りがする。ここから直接海は臨めないが、もしかしたら先程のきな臭さはそのせいもあるのかも知れない。友人に電話を架けてみる。相手はすぐに出た。「今、どの辺ですか?」付き合いはもう二十年近くになるが、彼はいまだに俺に敬語を使う。歳も二つしか違わないのだが、お互いにそう云うところはきちんとしておきたい性格(タイプ)なのだ。「あと一時間くらいで着くと思うよ。朝食(あさごはん)は食べた?」「いや、まだです」「じゃあ、一緒にどこぞで食べようか」「了解です」早速朝食兼昼食の予定が決まった。場所はおそらく彼のアパート近くのファミレスとかになるだろう。俺は車のエンジンをかけ、再びK市に向かって進み始める。
友人Yは漫画家だ。もちろん「売れない~」が頭に付く。しかし俺は彼のマンガが嫌いではない。確かに一般ウケはしなさそうだが、かと云ってシュール一辺倒と云うわけでもない。要は作風が優し過ぎるのだ。登場人物も善良なら、ストーリーは日常から10センチも浮いていかない。ある時「君の理想とする作品ってどんなの?」と質問したことがある。すると帰ってきた答えは「身の回りで起きる、童話・昔話ですね」と云うものだった。俺はなんと返したらいいか分からなかったが、しかし考えようによっては所謂童話・昔話でも奇想天外、摩訶不思議な物語に溢れているではないか。ひょっとしたらYも何かのきっかけでそんなマンガを描き始めるかも知れない。俺は人知れずそれを楽しみにしている。
数ヶ月ぶりのK市はすっかり春めいていた。風に軽みがあって、そしてしっかり躍動している。俺はYのアパートのドアをノックした。「少し歩きませんか」顔を出したYは前会った時よりまた少し太ったようだった。彼は狭いアパート暮らしを長年続け、今は大きな動物病院の駐車場整理で生計を立てている。「部屋、少しは片付いたかい?」俺は訊いたがYは笑って「全然です」と返す。「ちょっと待ってて下さいね」俺はアパートの廊下で彼が出てくるのを待つ。去年の大地震でK市はこれまでにない被害を受けた。局所的には町全体の家屋が倒壊した地域もある。Yのアパートは倒壊こそ免れたが、部屋の物(漫画本、ビデオDVD、プラモ・フィギュア等)が床一面に瓦解し、仕事に行ってなかったら生き埋めになっていたろうとのことだった。それ以来約一年、彼も少しずつ掃除と整理整頓を続けてきたが、やはり気ままな独り暮らし。ようやく普段の生活に困らない程度で落ち着いてしまっているようだ。「歩くなんて珍しいな。どこ行くの?」仕度して出てきたYに訊くと彼は「近くに美味いラーメン屋ができたんですよ。行ってみましょう」と言った。麺類に目がない俺は一も二もなく同意する。ぶらぶら歩く俺たちの横を五月の風が小気味良く吹き抜けていく。「今日はどこ行きましょうかね」Yが言うので俺は「は?ラーメン屋だろ」と一瞬ツッコミを入れようとするが、すぐに彼がその後のことを言っていることに気がつく。「そうだなあ、山はどうだ。地震以来まだ一度も行ってなかったから」俺が応えるとYも「久し振りですね。僕も結局ここ数年行ってないですからね。ドライブか、いいな」と賛同し、余計に俺たちの足取りは軽くなる。
Yが連れて行ってくれたラーメン屋は想像以上に美味かった。ストレートな醤油ベースだが、とんこつ好きの俺でも程良く満足感が得られた。「いいなあ。こうやってのんびり歩いてラーメン食べるなんて、結構な贅沢なんじゃないか」俺は今朝からの憂鬱はどこ吹く風で言った。「でしょう」Yも満足そうだ。アパートへの帰り道、学校帰りの小学生を何人か見掛けた。中には見るからに新一年生の姿もある。俺は頼りなげでしかし溌剌としたそのランドセルの集団を眺めながら、急に胸が締め付けられる思いがする。「どうかしました?」Yも俺の異変に気づいたのか訊いてくる。「いや。ああ云う幼げな姿を見てると、最近なんだかな」俺は応えた。
いよいよドライブに出発だ。夜までには戻るつもりだから大した準備は要らない。結果的には観光スポットを何ヶ所か回るだけになるだろう(それでなくても地震でそこかしこの道が依然通行止めになっている)。メインの楽しみはやはり車の中でのYとの他愛ない駄弁りだ。「まあまあの天気で良かったですね」Yが言う。確かに今日は曇りに近い晴れ模様で、それほど日差しも強くはない。「向こうは寒いかな」「いや、それはないと思いますよ。雨さえ降らなければ」車は俺の車。運転も俺。Yが自分のを出すとも言ったが、結局いつものように俺がドライバーになる(Yも俺の運転好きは了解済み)。「それにしてもさ、ここんとこ仕事はどう?」「警備の方ですか?」「うん」「そうですね、先月は猫の予防接種キャンペーンがあったんで忙しかったですね。ホラ、うちの病院はイチゲンさんも多いんで」「ああ、そうか」Yの勤める動物病院はK市でも昔から一風変わってて有名だ。まず街の大通りに院長の顔写真が大写しにされた看板がこれ見よがしに飾ってある。それに個人病院の割に二十四時間の診療体制を取っており、おまけに病院と併設して後進の為の専門学校まで開設しているのだ。「お陰でマンガの方はちっとも進みませんね。ま、いつものことなんですけど」Yは笑う。「今どんなの描いてるの?」「そうですねえ…」Yはいつものように語尾を濁し、俺もそれ以上問い詰めるつもりはない。以前からYは製作途中のマンガの中身を話したがらない。彼の流儀は描きながら同時にストーリーを練っていくもので、途中で人に話してしまうとそこで作品の自由さが損なわれると考えているらしい。「大体でいいですか?例によって短い話なんですけど」珍しくYがそう応えたので俺は大きく頷く。「男が朝目覚めると部屋が真っ暗なんです。まだ夜明け前かと思うとそうじゃない。窓のカーテンを開けますが外も真っ暗。男は寝室の電気を点けようとしますが何故か点きません。仕方なく男はしばらくの間窓際に立って外の様子を眺めます。そして気づくんです。昨夜あんなに星で輝いていた空がまるで墨汁で塗りつぶしたかのように真っ黒になっていることに。つまり世界は、完全な闇に包(くる)まれてしまったんです」「ふうん、それで?」「今はここまでです」「題名は?」「仮称ですけど『黒夜』にしています」「そのまんまか」「はい、まんまです」そこで二人共苦笑いするが、俺は密かにこれまでにない傑作の予感を感じている。理由は分からない。無闇に抒情に偏らず、設定もシンプルなのが良い。物語の可能性と云うか、広がりが感じられるではないか。「まあ、いいんじゃないか」それでも俺はそれくらいのコメントに留めておく。
俺たちの車は市街地を抜け、整備されたバイパスを駆け、やがて山肌が見え隠れする国道に入っていく。途中からYが、事前にスマホにダウンロードしていた曲を俺のオーディオに繋いで流し始める。聴き慣れないのはほとんど最近のJポップで、その他多くは俺も小さい頃観ていた時代の所謂「アニソン」だ。二人で思わず口ずさむ。「おっさん二人でアニソンなんてなあ」ひとしきり歌った後で急に鼻白む俺に「いいじゃないですか、たまには」Yは何食わぬ顔で笑う。「まあな。しかし、どうにも大人の羞恥心が邪魔をする」俺はぶつくさ言いながらハンドルを切る。「おい見ろよ、この景色」俺たちの前にはいつの間にか、雄大としか云いようのない火山のカルデラ地形が広がっている。天気が曇りな分、その眺望(ながめ)にはすごみすら感じられる。「ホント、久し振りっすねえ」Yも思わず声に出す。今日は平日だがゴールデンウィークのなか日ともあって車の通行量もそれなりにある。俺たちはその浮足立った連中に紛れるようにして、自分たちが昔仕事でよく通った山村の国道をしばし無言で通過する(単に喋り疲れたのもあるが)。
俺たちはその昔、同じ子供向けの人形劇団にいた(一応プロの)。そこでも俺がYより数年先輩で、俺たちは大概三人ひと組となって方々の幼稚園・保育園を公演して回っていた。今通っているこの道も、その仕事で一体何回往復したか数知れない。Yがそのことをどれだけ覚えているか分からないが、お互いにとって濃密な時間であったことは間違いないだろう。一緒の班で回ることはあまり多くはなかったし、その頃は外見(そとみ)と違って心身共に疲労するその仕事の大変さの方に気を取られていたとは思うが(まあ、仕事と云うものは普通どれもそうだ)。本当にいろんなところを巡った。街なかの保育園から、車一台入るのがやっとの場所にある修道院内の幼稚園まで。そして場所によっては少子化のあおりで園児の数が極端に少ないところもあった。しかし俺たちは行く先々の子どもたちの屈託のない笑顔に励まされ(あるいはのせられ)、毎日の公演に文字通り心血を注いでいたのだ。
「どうかしました?」不意に声を掛けられ俺は驚く。見るとYが不思議そうな顔でこちらを見ている。その時俺は自分の頬を何か濡れたものがつつうーと流れ落ちるのを感じた。一筋の涙。俺は片手ですぐにそれを拭いとり、「ああ、何だかな」と言い訳にもならない応えをする。「ちょっとAさん、懐かし過ぎでしょう」Yはそう言って朗らかに笑う。それが周りの通い慣れた景色のことを言っているのか、あるいはちょうど車内に流れている定番アニソンのことかは、うろたえた俺には分からない。車はまもなく国道を右にカーブして、活火山の火口を一路目指すことになった。
山の裾野を這うように続く原野の車道には、うっすらと靄が掛かっているように見える。その周りには草を食む牛や馬の群れが以前と変わらずそこにある。観光客も時折車を停め、そこで思い思いに記念撮影をしているようだ(驚いたことに今年はまだ桜が残っている)。「あれ、この斜面ってこんなでしたっけ?」Yが訊くので見ると、その切り立った斜面は異様に黒ずんだ山肌と無数の亀裂に覆われている。「いや、多分去年からの影響だろう」俺は何の根拠もなくそう応える。その間にも車はずんずんアスファルトの傾斜を上っていく。やがて最近舗修されたばかりらしい道を大きく左に回り込むと、一気に視界は開け、手前にはだだっ広い駐車場、奥には更に火口へと続く道、そして右手には草原と小ぶりの池が広がった、パノラマの景観が目に飛び込んでくる。「おおう、着いたなあ」俺が声を上げると、「あそこの売店でアイス食いましょうよ」Yが言う。「いいね」俺は早速車を売店前の駐車スペースに向け加速させる。そして半ドリフト停車。「Aさん、どうします。降りますか?」「いや、待ってるよ。俺、バニラとチョコのミックスね」「ラジャー」Yは颯爽と駆けていく。その背中を見送ってから俺は正面の草原の方に目を向ける。以前と同じく乗馬での遊覧観光も健在らしい。観光客は程々に多く、中には外国人のカップルもいる。良かったなあ、何とか復興しているじゃないか。俺は我が事のように嬉しくなる。周りに停まる車のナンバープレートにも目が行く。近場はもちろん関東近辺のものまである。ああ、今日はゴールデンウィークなんだよな。ここは観光地なんだよな。そう思う。横の窓からYが髭の剃りあとが浮かぶ童顔をひょいと覗かせる。その両手はソフトアイスで賑やかに塞がっている。
俺たちはお互いにフロントガラスの向こうに目をやりながら無心にアイスを舐める。牛乳入りの濃厚な甘さが舌先を痺れさせ、やがて身体全体に広がっていく。窓を開けていると時折ひんやりとした風が頬にそよいでくる。俺はアイスのコーンまでしっかりと食うことができた。「少し外、歩くか?」俺はYに訊く。するとYは「いや…、いいでしょう。何だかここでこうしているだけで十分な気がします」そう応える。「あと、どこ行きますか?」今度はYが訊いてくるが、「そうだな…」俺の中にももう具体的なプランは浮かんでこない。
ほどなく俺たちはその場を離れる。山には噴煙か霞か区別できないものが揺蕩(たゆと)うように浮んでいる。Yは引き続き音楽を流しながらしばし黙っている。「さっきのカーブ、新しく舗装してあったけど、まだ脇に崩落した前のアスファルトが残ってたな」「あ、そうでした?気がつかなかった」「突貫工事、大変だったろうな」「そうですね。この辺の地域は観光が一大産業ですから、道路はそれこそ生命線ですよ」俺たちは途中いくつかの通行止めの看板をかすめていく。「パワースポットの神社までが倒れちゃいましたからねえ」「確かに」俺は頷く。神社ばかりではない。通学路。温泉の源泉。鉄道。湧水源。田畑、そして身近な者との交流(かたらい)。
「あのさ、大橋の近くまで行っていいか」ふと思いついて俺は提案する。「いいですよ。でもどこまで行けるかなあ。多分だいぶ手前で通行止めですよ」それでも俺たちは火口の山から降り、ひたすら車を走らせる。夕方が近いので国道にはすでに若干の渋滞が生まれている。しばらくその列に並んでいると、前の車が次々とファミレスの角から右に曲がってくのが見えた。「ああ、やっぱり先はだめなんですね」Yが言う。「でもそのまま行ってる車もあるぜ」「多分、地元車かな」俺たちの番が来た。寸間(ちょっと)迷ってから俺はやはり直進する。ここからはしばらく真っ直ぐな道だ。やはり対向車線からの車は少ない。「一度、見ておきたかったんだよな」「大橋ですか?」「うん。て云うか、その跡」「見たら何か変わりますかね、僕たち」Yが言う。「何も変わらんさ」俺は応える。実際自分たちも、この国もほとんど変わってはいない。それが良いことなのか、仕方がないことなのか、今の俺には分別つける才覚はない。周りを見ると、以前と変わらずコンビニやホームセンター、それにホテルも営業しているようだ。辺りには時報代わりのコミュニティー放送がやけに大音量で鳴り渡っている(云わずと知れた童謡のメロディー)。俺はホッとするの半分、そしてやり切れなさ半分。「さて、どこまで行けるか…」俺はアクセルを少し踏み込む。国道のすぐ傍らに整然とした仮設住宅の棟々が現れた。「こんな道端にあるんですね」Yが囁く。「一年もな」俺は応える。傾いた陽の光に人気(ひとけ)の見えない舎屋が煌々と照らされている。
俺たちは真っ直ぐ前を見続けるしかない。
「本当に、来てよかったよ」
最後に俺は、大橋の崩落現場の手前で誰に言うでもなくそう呟いた。
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