第26話 「 野ばら 」

 ハンドルを握ったまま目の前を通り過ぎていく水色の電車を眺めていた寿明は、やがて遮断機が上がるとやおら自分の軽自動車を発進させた。さあ、これからまた一日の仕事だ。少々うんざりしながらも、もうそんな気分の紛わせ方にも慣れた。知らず知らずのうちに三十路の坂もとうに過ぎていた。

 少し前はまだまだ自分なんて子どもだと思っていた。学生だったし、いろいろ人並みに遊びもした。恋もした。みっともない恋。そう云えば晴美は今頃どうしているのだろう?もう連絡が途絶えて5年近くになる。不意に切なさが胸に迫った。


 晴美とは一緒になるつもりだった。確かにケンカもしょっちゅうだったが、それでもこの女と一生を共にしてもおそらく自分は悔いはしないだろう。そう本気で思っていた。

 結局別れを切り出したのは晴美の方だった。「もう待てない」これが彼女の言い分だった。

 もう待てない…。寿明には彼女を強引にでも引き止めておく何ものも持ち合わせていなかった。学生を卒業して数年間のバイト暮らし。寿明は役者を目指していた。いや、正確に云うと、役者になることで自分にとっての何かが見つかる気がしていた。しかしその何かが何なのかは結局分からず終いだった。

 それでも寿明はとにかく芝居に打ち込んだ。もともと生真面目な性格ではある。晴美にも何度か公演を見に来てもらった。日頃淋しい思いをさせている、そのほんの罪滅ぼしの気持ちだった。芝居が終わって彼女に会うと彼女はいつも涙ぐんでいた。それで寿明は少しだけ救われた気分になった。今になってみれば、あの晴美の涙にはもっと複雑なものが含まれていたに違いない。そう思うと今更ながら苦い思いが皮肉な笑いとなって、無精面の頬に浮んではすぐに消えた。

 要するに寿明は自分が何をしたいのか分からなかったのだ。あれだけ打ち込んだ芝居も晴美と別れた後で止めてしまった。何もなくなった寿明は一時期荒んだ生活をしていた。最低限の生活費を稼ぐ他はとにかく家に籠っていた。そして本ばかり読んでいた。うつろな現実の世界と早く決別したかった。

 車を走らせながら寿明は思う。俺はこれから一体どこまで走っていくのだろう、と。そもそも走り続けることに何の意味があるのか、とも。

 次の瞬間寿明は思いを振り払うかのようにアクセルを踏んだ。まただ。また同じ迷路に俺は踏み込んでいる。このところいつもそうだ。

 ここ数年来、俺は同じ問いかけばかり繰り返している。その問いかけに答えがあるのかどうかさえ分からないのに。全く子どもなんだよ、俺は…。ふとXJAPANの『Last Sоng』の歌の文句が思い出された。「傷つくだけ傷ついて分かったはずの答えを、どうしてまた問いかけてる?」本当にその通り。寿明は思った。

 …でも今はそんな自分にもなんとなく上手く付き合えるようになった。悩みだって意味が全くないわけじゃない。自分はそうやって悩むことで豊かに、幸福に…生きようと…して…いるのだ…。

 寿明は今、小さなCM制作会社で働いている。ADをやっている。毎日一から十まで気を遣う仕事だ。楽しくないわけではないが、このところ現場に出るのがとても億劫に感じられる。特に新しい人間関係にはエネルギーを消耗する。それに昔は一つ一つの仕事についていくだけで精一杯だった自分が、今はなんとなく要領も分かって、かえってそのことで仕事から新鮮さを感じなくなっている。そんな気がする。

 どうしたものだろう。俺はそれでも仕事に向かう。仕事に特に意味を見い出せなくても、仕事は仕事だ。辞めようとは思わない。でも俺はこうやって一生をやり過ごしていくのだろうか?

 鈍い迷い。車のシートが奇妙に居心地悪い。俺は本当にこのままでいいのか。人生ってそんなものなのか。生きるって、そうなのか…。

 寿明にはフロントガラスの向こうがだんだん虚ろに、そして見えなくなっていくようだった。


 気がついた時にはもう遅かった。寿明は一旦車を脇に停めて、その相手の車の方に向かった。仕方がない。悪いのは自分だ。ただ、無暗に謝るのは止そう。タチの悪い奴とも限らない。一瞬自分の車のフロントバンパーを見た。傷は大したことはない。相手の方もおそらく大丈夫だろう。寿明はもう一度相手の車の方を見た。

 相手は意外に女性だった。まあ考えてみればセドリックに女性が乗っていても別におかしくはない。

「大丈夫ですか?」寿明は先に声を掛けた。女性は車の後方を途方が暮れたように眺めている。

「どうしてくれるんです?」その声はかなり不機嫌そうだった。寿明はあらためて相手の顔を見た。どこかで見たような顔だと思った。でもこの状況ではすぐに思い出すことはできない。

「あの、僕こういう者です」

 寿明は名刺を出した。「もしよければ警察を呼んで、きちんと処理したいと思うんですけど」

 そこで女性もはじめて寿明の方をはっきりと見た。

「困るんですよね。急いでるんです。仕事が…、あら?」

 そう言うと女性は表情を変えた。「原澤さん?」

「え?」

 今度は寿明の方が素っ頓狂な声を出した。

「私ですよ。ほら、覚えてません?大学のサークルで」

「…あ、えーと、白濱さんだ!」

「そう。良かった、覚えてくれてたんだ」

 寿明も同感だった。彼女とは大学時代、所属こそ違ったものの演劇繋がりで顔を合わせていたことがあったのだ。

「何だ、誰かと思ったよ」こんな時の寿明の口癖。

「ヤバいネエちゃんにぶつかったとでも思ったんでしょう」

「ははは、そうそう」

 気がつくと、さっきまでの緊張感が嘘のように雲散霧消していた。


 事故処理の間じゅう、担当の警察官は訝しげに二人を見ていた。それほど二人は親しげにお互いのことを話していた。

「ね、今何してるの?」しばらくした後で寿明は白濱千恵に聞いた。

「うん。今、バイトしながら時々コマーシャル出てるの」

「え、本当?」寿明は驚いた。「僕も今、小さな制作会社にいるんだよ。全然知らなかったなあ」

「そうなの?へえ、じゃあ私たち同じ業界の人だったんだ」

「奇遇だねえ」と寿明。

「そう?」千恵は応えた。

 事故処理が終わると二人は一旦別れることにした。千恵は今日はバイトの日らしかった。聞くと手芸品店で働いているという。

 寿明は車を走らせながら、ふと自分が少し前の自分に舞い戻った気がした。こんな気分になるのは久し振りだ。

 寿明はすっかり元気を取り戻していた。


 事故から二日後、寿明と白濱千恵は何とはなしに街で待ち合わせることになった。事故の件は保険のことも含めて処理は終わっていた。警察の方もやはり担当の巡査は気になっていたのか二人のことを聞くとなるほどと納得した。

 もう十年以上も前からある喫茶店は平日の昼ともあって客はまばらだった。

「よく時間空いたね」彼女は店に入ってきた寿明にそう言った。

「ようやくCM一本納入できたんでね」

「本当。私はこのところ入ってこないなあ、CMの仕事」

「どこも不景気だもん。パチンコ屋ぐらいのもんだよ」

 寿明はそう言うと千恵の向かいに座った。

「全く。久し振りなのに何で景気の悪い話してるんだか」千恵はそう言って笑った。

「今日はどうしたの?急に会おうなんてさ。俺、あんまり人からメールなんてもらわないからびっくりしたよ」

「そうなの?」と千恵。

「仕事以外ではね」

「ふーん」

 千恵の学生の頃と変わらない、いたずらっ子のような目が光っていた。

「昔話したいと思ってね」

「え?」

「芝居やってた頃、よくみんなで稽古終わってからでも話してたよね」

「うん。夜が明けることもあった」

「もう何話してたのか中身は忘れちゃったけど、でも楽しかったんだよね」

 そう言う千恵は何だか少し淋しそうに寿明には思えた。

 それからあれこれ二人で昔の話をした。千恵は仲間の誰彼のことをよく覚えていた。当時寿明の知らなかった人間関係の話もあった。そして話せば話すほど二人の思いはひとつの事実に集約されるようだった。

 とにかくいろいろあった。そして今、ここに寿明と千恵がいる。

「私、結婚するんだ」少し黙っていた千恵が言った。

「誰と?」

「望月君」千恵はさらりと言った。

「望月って、あのずっと君にアプローチしてた?」

「そう」

「へー、すごいね」寿明には次の言葉が見つからなった。

 当時、千恵が同じ劇団仲間の望月からいろいろ誘われているのは知っていた。望月はそういうことを全く隠さない男だった。

「彼、今何してるの?」

「会社の事務」千恵は笑った。

「不思議だね」

「どうして?」

「だってさ。あの頃俺たち、何だか世界の吹き溜まりに居るみたいだったじゃない?もう他に行き場所がないみたいに。不思議だよ」

 千恵はそう言う寿明をじっと見ていた。その目からはもう無邪気な光は失せていた。

「あなたも私と同じね」

「どこが?」寿明は聞いた。

「本当に吹き溜まりの住民だったもん、私たち」

「うん」

 それはとても輝かしい青春なんてものではなかった。未熟で残酷で、何よりみっともなかった。それが俺たちの青春…。


 それからしばらく話をして、寿明と千恵は別れた。喫茶店の階段を上がりながら不意に千恵が歌い出した。彼女のボーイッシュな声が狭いレンガの通路に木霊した。

「あ、それ『野ばら』じゃん。ウェルナーの」

「よく歌ってたよね。発声の稽古の時」

 童は見たり、野なかのばら。清らに咲いた、その色愛でつ…。

「寿明君」

「え?」名前を呼ばれて寿明は思わず緊張した。

「私たち、良かったよね」

「ん」

「結構イケてたよね」

「ん、イケてた」

「野ばらには叶わないかも知れないけど」

 千恵は笑った。「今日会えて本当に良かった。寿明君、元気でね」

「ああ」寿明は何故かその時「また会おう」と言えなかった。

 彼女の背中が人通りの中に紛れていく。寿明は自分も背を向けて別方向に歩いていく。

 童は見たり、野なかのばら。清らに咲いた、その花愛でつ…。

 その時誰かが「サヨナラ!」そう言った気がして、寿明ははっと振り向き、そして自分の耳を疑った。

 街はいつものざわめきの中にあった。

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超短編シリーズ② 桂英太郎 @0348

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