第14話 「 火柱 」
夜、住宅街の暗闇にうずくまる男。その横顔はまだ幼さすら残るほど。他人の敷地内に忍び込み、納屋に火をかけようとマッチを擦る刹那、彼の脳裏に或る光景が甦ってくる。
まだ小学生の頃、父親によく百姓仕事の手伝いをやらされた。晩秋の夕刻、寒空のなか二人でかき集めた藁の束に父親が火をつけ、その炎が夕闇に立ち上がった時、幼い彼の中で何とも言いようのない魂の高揚が芽生えた。そして彼の躯は火柱に煽られ、その頬は薄暮れのなかでも分かるほど紅潮していた。
数回、マッチの擦れる音。火は容易には点きそうもない。
それから数年後、高校を卒業した彼は将来を夢見て都会に出てきた。しかしそこには彼の心を震わせるものは無かった。それでも彼には若さがあり、都会では目新しいものが次々に現れては彼を煽り、そして消えていった。いつしか彼もそのうねりの中に身を任せた。
突然、故郷の父親が亡くなった。気がつくと二十代も後半に差しかかっていた。彼は孤独になった。まるで自分が手すりのない階上の縁に上げられた気持ちになった。
家族が欲しい。いつしか彼はそう思うようになった。その頃彼には好きな人がいた。バイト先の二歳年上の女性。不器用な彼に何かと気を遣ってくれ、それへの感謝の気持ちがいつしか淡い気持ちへと変わっていった。
彼は仕事を探した。女性と暮らし始めるため。そしてもう一度自分を仕切り直すため。しかしこの不景気の中、そうそう仕事は見つからなかった。三十路手前まで、本業を持たずにきた人間に対してこの国では否応もない不信感がある。彼はその典型だった。
「俺だってこの国の一員じゃないのか?」彼の手に力が入る。
決定的だったのは、彼女の結婚だった。もちろん相手は彼ではなかった。それでも彼は彼女と会えなくなる前に何度か自分の思いを伝えようとした。しかしその度、彼女のその無防備な笑顔を前にすると何も言えなくなった。そして彼女は彼の前からいなくなった。
その晩秋、一人で閑静な住宅街を歩いていて彼は何とも言いようのない肌寒さを感じた。辺りはもう日が暮れていて、おまけに風もあった。家々には明かりが点き、近づくと夕飯の香りすら漂ってくるようだった。
木枯らしが一瞬吹き抜けた。思わず彼は身を縮め、ポケットに両の手を入れた。するとバイト先で拾ったマッチの小箱が指に触れた。目の前には袋小路のブロック塀があり、そこには行き場を失くした枯葉がまるで彼を待ちかねたように吹き溜まっていた。
近くに人の気配がした。直感で彼はその場から駆け出した。後ろから誰かの声が聞こえた気がした。構わず彼は走る。止まるわけにはいかない。いや、本当は立ち止まって、誰かに捕まってしまった方が楽なのかも知れない。走りながら彼は、このところ自分がそのことばかり考えていたことに気づく。立ち止まろうか?いや、やはりそれはできない。彼は持ってきたマッチに気づき、思わず脇道に投げ捨てる。
角を曲がったところで出会いがしらに誰かにぶつかる。一瞬彼の記憶が飛ぶ。
浮かんでくるのは炎の前で呆然と佇む幼い自分。そして傍らに誰か大きい人が立っている。その人がやがて自分を促す。「仕事は終わった。家に帰ろう」と。もう一度その人の顔を見る。それはまぎれもない自分だった。
気がつくと中年の男が彼の顔を覗いていた。「大丈夫、かい?」
彼は思わず立ち上がり、「あ、はい。大丈夫です」そう言って小走りに歩き出す。
「あ、君」後ろの男が声をかける。彼の躯が瞬間固まる。…気づかれたのか?何を言われる?とうとう捕まるのか?…彼の中で目いっぱいの疑問肢が浮かぶ。
そして彼は悟る。「ああ、もうあの火は消えてしまったのだ」と。
彼はゆっくりと振り返る。「何か?」
「いや、気をつけて帰ってね。今夜は冷え込むよ。明日は霜が降りるかも知れない」
男はにっこり笑うように言って、それから角の奥に消えていった。
彼はその人の背中を見えなくなるまで見送った。そしてゆっくりと踵を返すと、ぽつぽつと歩き始め、しばらくして夜空を見上げる。まばらだがちゃんと幾多の星々が見えた。丘まで来ると今度は眼下に街の夜景が広がった。
「雪の女王…」しばらくしてふと彼の口からその言葉が漏れた。
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