第24話 「 芙蓉図書館 」
僕は本が好きだ。ひと月に二十冊以上読む月もあるくらい。そんな僕のお気に入りの場所は、当然のごとく市内の公立図書館。そこは建物こそいささか古くさいが、何より蔵書の数が他所より断トツで多い。その本棚の立ち並ぶ中にいると、僕の精神は高揚と沈静の絶妙のバランスの中を浮遊する。そして気になる本を見つけ出し、そのページをめくり始めると、僕はその場に居ながらにして異世界の旅行者に早変わりするのだ。
僕には友だちも知り合いも要らない。と云っても対人関係がとりわけ苦手と云うわけではない。ただ欲しいと思わないだけだ。必要な時はその状況に合わせて関与する。時に断固として、時にさりげなく。僕にとって対人関係とは、生きていく上で欠くべからざるものであると同時に、取り立ててのめり込むほどの価値は見い出せないものなのだ。
そんな僕にもかつては恋人がいた。同じ読書好きの、僕が当時行きつけだった喫茶店のウエイトレスだった。彼女はカフェ・オレ一杯で数時間居座る僕に、だまっておかわりを注いでくれた。僕はその都度断ったが、彼女は優しく微笑んで「コーヒーも本も同じ、味わってくれる人がいることが何より大事なのよ」そう言った。僕らはやがて外で会うようになり、僕は彼女と、読書以外のことにも時間を費やすようになった。そしてその時はそれがごく自然なことのように思われた。このまま僕の読書熱はそっくり彼女の方へと移行していくのか。そう思うこともないわけではなかったが、その時の僕にはそれはそれで致し方のないことのように感じられた。
その流れが突然打ち切られたのは彼女と付き合い始めてから半年を過ぎた頃だった。僕がいつものように読みかけの本を鞄に入れ、彼女の勤める喫茶店に足を向けると、約束の時間になっても彼女は現れなかった。仕方なく口数が極端に少ないマスターに彼女のことを聞いてみると、彼は「先週末に突然辞めた」とだけ言った。僕はそれからも毎日喫茶店に行って彼女のことを待った。そのうちマスターは、それは自分にとって煙草の煙と同じとでも言わんばかりに、すぐに若い、何の引っかかりも感じない女の子を店に雇い入れた。彼女との連絡は結局取れず、また僕がその喫茶店を訪れることもやがてなくなった。
哀しくなかったと言えば嘘になる。でも正直、心の中でどこかホッとしていたのも事実だった。彼女は僕にとって出来すぎなほど優しかったし、僕自身彼女の存在に、それまでの人生で味わったことのないくらいの安心感を覚えていた。現にふとした瞬間、僕は彼女の居ない世界を想像して居た堪れない気持ちにさえなった。しかし同時に、僕はそのことに拭いきれない違和感を覚えていた。自分は踏み込んではいけない領域にいつの間にか立ち入ってしまったのではないか、と。そしてそんな時、僕はしばらく彼女と会わない時間をあえて作った。彼女は「どうしたの?」といぶかしんだが、僕は「仕事が忙しいんだ」とさらりと交わすことにしていた。
僕は再び本との毎日に舞い戻ってきた。そして本のページをめくるたび、自分がどれだけ本に飢えていたかを思い知った。それはもう獰猛なほど、僕の存在全部が本を求めて彷徨っていた。その欲望の前にジャンルの枠はすでに存在せず、僕はただもう目の前にあるそれが正真正銘の本であるというだけで、めくらめっぽうに手を伸ばし、そして貪り読んだ。中身は小説、評論、科学記事、予備校の参考書にまで到り、本の形は単行本、文庫本、新書、雑誌は言うに及ばず、しまいには仕事先の会社の社史にまで及んだ。そして今、僕は昼に夕なに、図書館で自分の静かな欲望を満喫させている。
そう、世界はいつも読み物で溢れているのだ。
「御熱心ですな」
そう言ってある老人が話しかけてきたのは、日曜日の夕方近い午後のことだった。時折図書館で時間を費やしていると、こうやって不意に話しかけてくる人がいる。僕はそんな時、失礼にならない程度に応対して、あとは目の前の本に逃げ込むことにしている。そうすると大抵の人は察していつの間にか消えていなくなる。冷たいかもしれないが、ここは友だちを探す場所ではない。むしろ孤独に心身を浸すべきところなのだ。僕はそう思う。
「ええ。ようやく探していた本が見つかりまして」
「ほう、それは結構」
「あなたも、何かお探し物ですか?」
「いえ、そう云うわけでは。ただ、熱心に何かに取り組む人を見るのは、年寄には不思議と楽しいものなんですよ」
僕は何だかその老人の訳知ったもの言いにだんだん落ち着かなくなってくる。こういうのは珍しい。
「失礼ですが、今日はこの本をここで読んでしまいたいもので」
僕は相手に配慮を要求する。
「ああ、これは失礼しました。ところであなたは『芙蓉図書館』をご存じですかな?」
「え、フヨウ…?」
「『芙蓉図書館』。この近くに昔住んでいた読書好きの資産家が、死ぬ間際に私財を擲って作った、謂わばプライベートの図書館ですよ。あなたならご存知かと思いましたが」
「いえ、全く」
「そうですか。是非一度足を運んでみられるといい。建物の雰囲気もなかなかなんですが、何より蔵書の数が私設図書館としては群を抜いてますから」
老人はそう言ってにこりと笑顔を見せると、いささか難儀そうに身体を反転させ本棚の向こうに歩いていった。僕はその後ろ姿を見送りながら自分の中にもくもくと湧きあがってくるものを感じた。芙蓉図書館?何だ、それは。今まで名前すら聞いたことがなかった。
そう思ってはみたが、自分の中の一旦膨らんだ欲望に僕はもう目を背けることはできなくなっていた。
僕は図書館の帰り、窓口の馴染みの係員に『芙蓉図書館』なる場所の住所を尋ね、そして簡略ながら明瞭な地図まで描いてもらった。
次の休日、僕は早速『芙蓉図書館』へと向かった。しかし本を読みにと云うより、あの老人が言った、その建物の雰囲気だけでも見ておこうと思ったからだ。正直僕は私設○○というものを端から信用していない。そこにはどんなに客観性を意識していても、結局はプライベートの枠を越える力は存在しないのだ。そして思い入れの強い分、入ってくる者に自分の世界観を必要以上にアピールしてくる。陰に、陽に。表から、裏から。
はたして、『芙蓉図書館』はスポーツ特待で有名な私立高校の裏手にあった。実際足を向けて驚いたことに、そこいら一帯はまるで昭和の初期にタイムスリップしたかのような趣きが残っており、現にまだそこに自宅を構えている人もあることだった。
僕は地元でありながらの自分の無知を感じながら、やがて目的の『芙蓉図書館』の前に立った。
どうやら『芙蓉図書館』は文字通りの私設図書館であるらしく、その建物の横には平屋ではあるが、一見して名のある職人の仕事らしい母屋がさりげなく鎮在していた。僕は最初、どちらの方に行けばいいのか迷ったが、見ると敷地の隅に小さな看板があり、『図書館へ御用の方は、どうぞそのまま中をお通り下さい』とあった。僕は合点して図書館の入口まで来ると、不意に宮澤賢治の『注文の多い料理店』を思い出し北叟笑んだ。『まさかここで、化け物に食われることはないだろうがな…』
僕はドアのノブを回した。驚いたのは建物の外見からしては広すぎる奥行き、そして木造建築としては珍しい吹き抜けの作りと、二階へ上がる豪華な螺旋階段だった。
「いっらっしゃいませ」
中央の受付から声がかかった。見るとそこには白いシャツ姿の中年女性が真っ直ぐに僕を見据えていた。「こんにちは」
「こんにちは。あの…」と、僕は来館者の少ない観光スポットに足を踏み入れた時のような独特の居心地の悪さを感じながら、自分の目的があくまで見学であることを告げようとすると、「こちらにご利用カードをご提示ください」と、小学校の図書館を思わせるような木製のカード入れを前に差し出された。そこには左にア行からワ行まで、右側にAからZまでのスリットが入れてあり、そのそれぞれに何枚かのカードがすでに鎮座していた。この静けさの中、他に先客がいることに一瞬戸惑いを覚えたが、考えてみれば特別不思議なことではないので、僕は「初めて来たのですが」と云って窓口の女性に微笑みかけた。
「そうですか」僕は新しい来客を喜んでくれるかと期待したのだが、女性の応対はどちらかというとそっけなく、僕はいささか消沈した。
指示された通りの記入を済ませ、持ってきた鞄を鍵付きロッカーに預けると、僕はようやく解放された気分になって先ずは一階の書棚を回り始めた。どうやら一階は自然科学系の本が多いようだった。しかもこの数十年の歴史の中で、記録に残るような名著がまるで博物館並みに、そして無防備に貸与されていた(実際この図書館には貸出制限という規律は存在しないようだった)。僕は政治・法律の分野へ進んだ。そこにはいささか格式ばった書名の本が続いていたが、それは言うまでもなく異文化同志がぶつかり合い、妥協と支配の交錯の末、生まれた遺産に他ならなかった。僕はそこに人間の血の匂いすら感じるほどだった。
不意に長い本棚が途切れ、目の前に大きな丸テーブルが三つ並ぶスペースが現れた。そこには初老の男が一人本を読んでおり、僕はその姿恰好に、あの図書館の老人かと思い一瞬どきりとした。しかしよく見ると顔は似ても似つかない人で、彼は僕のことにも気づかないくらい自分の読むものに集中していた。僕はその時、あの老人が僕に言った意味がなんとなく分かるような気がした。確かに人が熱心に取り組む姿は見ているだけでも心を打たれるものがある。僕は全くこれまでスポーツというものをしてこなかった人間だが、幾多のプロスポーツが成立する由縁も分かるような気がした。
さて、自分は何を探しにきたんだっけ?僕は三つあるうちの一番端のテーブルに腰掛け、自問した。そうか、僕は特別読みたい、探したい本があったわけではない。あの老人の話す、『芙蓉図書館』なるものの存在に何故か興味が惹かれたまでだ。ただそれだけ。考えてみればミーハーなノリだけでここまで来たようなものなのだ。
僕はあらためてそのテーブルから図書館の内部を眺めてみる。全体がまるでビロードのように赤く鈍い光沢がある。そしてすべての音がその色に輪郭を奪われたかのように、静かにところどころを彷徨っている感じだ。だからだろう。中にはすでに何人かの先客がいるはずだが、必要以上にその存在を意識することはない。
せっかく来たのだから何か読んでいこう。僕がそう思ったのはきっとこの図書館の内なる力に因るものだろう。僕は立ち上がり、受付の前を通ると、今度は螺旋階段から二階へ上がっていった。その頃になると僕はあの老人に言い知れない感謝の念を抱くようになっていた。よくぞ僕にこの『芙蓉図書館』を教えてくれた。あの老人があの時教えてくれなかったら、多分僕は永久にこの場所を知ることはなかったのではないだろうか。僕は階段の一つ一つのステップを踏みしめながらそう思った。そして二階に昇り切った時、僕は思わず小さな歓声を上げた。多分この施工主と建築家は、生活と読書のバランスを光と闇に託していたに違いない。そう思うほど、二階は階下とは対照的に窓ガラスからの陽光を受け、全てが朗らかに明るかった。それも適度に直射日光を避けるようにできており、あくまで主役は本とそれを探し読む来館者であることを強調するかのようだった。
二階は全体が文学・哲学の本で占めてあるようだった。僕は思わず喉が鳴った。ここだ。僕はここに来るために本を読み続けてきたのかもしれない。そうとさえ思えた。僕は半ば涙ぐみそうになりながらゆっくり、噛み締めるように本棚を周り始めた。どの本も僕をひっそりと歓迎してくれているようだった。ゲーテも、ドストエフスキーも、トーマス・マンでさえ、僕に気軽に会釈してくれているような気分になった。夏目漱石も、鴎外も、松尾芭蕉だって、僕に流愁の茶をすすめてくれているかのようだった。ふと僕は窓ガラスからこぼれる陽光に目を向けた。世界はやはり光り輝いていた。いろいろなことが日常では発生し、僕らはそのひとつひとつに心をかき乱されながら生きているが、やはり人生は生きるに値するのだ。僕はそう思うに至った。
僕は本棚の方に向き直り、一冊の本を手に取った。外見からするとずいぶん古そうな本だったが、書名は聞いたことがなかった。どうやら隠れた名作、あるいはその作家の代表作の脇にひっそりと控える、“佳作”とでも云ったところだろう。僕は階段横の通路に並ぶ丸テーブルに座り、その本のページをめくり始めた。
その時だった。僕のすぐ近くで空間が鼓動を打った気がした。僕は一度周りを見回して、そしてもう一度本に注意を向けようとした。気がつくとその本には何も書かれていなかった。全くの白紙だった。僕は混乱した。確かにさっきまでこの分厚い本には細かい文字がびっしり印刷されてあった。来し方の物語がそこに焼き付けてあったのだ。この僅かな間に一体何が起きたと云うのか?
そして僕は自分の身体が図書館の本棚の中に浮遊しているのを悟る。いや、正確に表現するならば、僕の周りを図書館が、本棚が取り囲んでいると言った方がいいかもしれない。さらに驚いたことに、その図書館はわずかに、暗黒のなか時間と共に膨張しているのだ。そしてそれに伴って本棚が増え、さらにそこに収まるべき本が世界のありとあらゆるところで先を競って生まれていた。そう、僕は本の宇宙の真っただ中にいた。
僕は手に持っていた白紙の本を投げ捨て、片っぱしから本を掴み、読み始める。僕が読んでいる間は本たちの増え続けるスピードは一定の秩序を保っているようだった。僕は半ば絶望的な気持ちでページをめくり続ける。世界のありとあらゆる見解が僕の中を通過していく。僕はそれを心に留める間もなく、次の本に取り掛からなければならない。
「これは一体何なんだ?!」
僕は図書館という暗闇の中でいつしか叫ぶ。が、もちろんその声は外には届かない。もう僕のいかなる声も届かない。誰にも。
僕は絶望的な無音の中で、一瞬元恋人のカフェ・オレの香りを思い出す。そしてもう一度彼女に会いたい、そう思う。
僕の思いはおそらく、当分みじんの狂いもない等速直進運動に委ねられることだろう。
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