第23話 「 飛んでくる小石 」

 妻がいなくなった。よくできた妻。時折一人思い悩むことはあっても、程なく自力で這い上がってくる。そして毎朝決まった用事を片づけると、彼女は颯爽と仕事に向かう。それに引き換え僕はひと月前にやむにやまれぬ事情から会社を辞め、今は家に引きこもりひたすら時間を持て余している。

「あなた、一日じゅうそこに立ってない?」

 妻の帰りを三階の自宅ベランダから出迎えた日、僕は妻に言われた。「せっかくの時間なんだから、好きなことやればいいのに」

 僕は曖昧に返事をしたが、妻はそれ以上何も言わず、ましてやそんな僕に何かを当てつけるわけでもない。さっさと着替えを済ますと、やはり黙々と一人日常をこなしていく。その背中を見ながら僕はほとんど感動する。

 とてもマネできないな…。

「え、何か言った?」

 手を休めるでもなく軽快な声が浴室の方から返ってくる。それが妻だ。

 土曜の朝、目覚めるとすでに妻はいなかった。置き手紙には「あなたは何も分かっていない。でも…」とだけ書かれてあった。僕はその手紙を何度も読み返す。そしてそのあまりにも短い文章に何ともやりきれない思いになる。その時、水槽の金魚がポチャッと跳ねた。失業以来とりあえず僕の日課となった餌やりの時間。妻からはその要領を細かく事づけられている。僕は仕方なく居間の隅の、いささか大きすぎる水槽の前に向かう。

 飛んでくる小石。ふと僕は、小学校の頃自分がいじめられていたことを思い出す。相手は僕の顔を見るたびに、足元の小さな石を拾い、繰り返し投げつけてきた。登下校の時、掃除中の校舎の中庭、時には体育の授業中でも。最初僕はクラスメートの彼がからかっているのだと思った。だが、その目は決して笑ってはおらず、暗い光で僕を見据えるだけだった。一体僕が何をしたと云うのか?当時、僕には皆目分からなかった。そのうち僕をいじめていた彼は担任からこっぴどく注意され、それ以来今度は別の者から手ひどいいじめを受けるようになった。そしてそれから一年ほど経った頃、春から入学する私立中学の真新しい制服を着て、彼は自宅マンションの屋上からダイブした。

 妻の置き手紙の文句。「あなたは何も分かっていない。でも…」

 確かに妻の云う通り、僕は何も分かっていないのかも知れない。この不況の中、ほとんど人に相談することもなく仕事を辞めた。おそらく彼女は現状に気づいていたと思う。その上でお互いに何も言わなかった。

「なるようになるわよ」

 暇になった途端生来のクヨクヨ癖が出始めた僕に彼女はそれ以上構わなかった。そして僕はかえってその配慮に、人知れず感謝した。

 妻の行く先にあてがあるとは思えない。元々知り合いは少ない方だし、それも仕事を介してがほとんどだ。出身は北海道で、若い頃半ば家出同然で上京していた(僕は東京下町の生まれだが、高校を出てからずっと実家の老舗家業から逃げ回っている)。四年前関係が険悪だった父親が病気になり、彼女を説き伏せて一度見舞いに行ったが、その二年後義父は亡くなった。それ以来、僕らはそれぞれの故郷から距離を置くように、東京の片隅で暮らし続けている。

 彼女は最後に付け加えていた。「でも…」。彼女はその後に何を言おうとしたのだろう?僕は今、そちらの方が気になっている。強いはずの彼女がまさか早まったことをするわけがないとは思いながら、やはり胸の鼓動は落ち着かない。僕は彼女の携帯番号を幾度となくダイヤルする。

 ひょっとしたら彼が投げつけてきた小石は、僕に対しての何らかのメッセージだったのかも知れない。僕の中で遠い記憶が甦る。あのいじめっ子が学級花壇で作業をしていた僕に最後に投げた小石は、偶然僕がしゃがんだせいで後ろにあった窓ガラスを直撃し、その大きく破損したガラス片は、僕の頬を深く切りつけ瓦解した。物音に気づいた用務員がそばにやってきた時、彼が発見したのは、顔面を血だらけにして蹲る僕と、ただ茫然と立ち竦んだままの同級生だった。

 僕は仕方なく頬の古傷に指を沿わせながら、リビングのソファーに座ってみる。それは妻が二年前に突然見知らぬ輸入家具業者から購入した、我が家には不似合いなほど高価な代物。疲れた時、妻は決まってそこに深く身を委ねていた。そして傍らのラックにある婦人雑誌を適当に手に取り、飽きるまでそのページをめくり続ける。僕はいつも少し離れた食卓のテーブルから、その妻の手から鳴る音にそこはかとない無力感を感じていた。


 一人で夕食を済ませた頃、突然携帯が鳴り、咄嗟に僕は身を乗り出す。着信画面を見るまでもなく電話に出た。

「もしもし…」

 しばらくの間。それが僕を永遠であるかのような不安に陥れる。「瑤子か?」

 僕は闇の向こうの相手に呼び掛ける。瑤子であってくれ。その思いは半ば自暴自棄になりながら僕の中を駆け巡る。

「あの、賢治さん?」

 意外にもその声は低かった。僕は虚を突かれたように頭が真っ白になる。

「私。函館の…」

 相手が遠慮がちにそう言った瞬間、僕は思い当った。

「あ、お義母さん」

 電話の向こうから、ふっと空気が緩むのが感じられた。

 義母の話のあらましはこうだった。突然函館の実家に里帰りしてきた瑤子を不審に思った義母は、一晩明けて後、娘に本当の訳を話すよう詰め寄ったらしい。そして最初は固辞していた瑤子も遂には母親の押しの強さに折れ、事の成り行きを告白したとのこと。

「あの子も私に似て、何でも自分でやらないと気が済まなくて。そのくせ心のどこかでは、誰かにそんな自分を見ていて欲しいのよ。まったくいい歳をして子どもの頃そのまんまなんだから」

「いえ。僕の方も仕事や何やで、つい気が回らなくて」

 僕は半分嘘をつく。

「とんでもありませんよ。目の前の生活が大変なのは誰も同じ。でも一緒にいるんだもの、助け合いたい時はやっぱりあるでしょう?そんな時は『ああ、もう何とかして~』って素直に助けを呼べばいいのよ。それすらしないで相手に分かってもらおうなんて、いい大人がすることではないわ。そう思わない?」

「まあ、そうですね」

 僕は義母の気風の良さに思わず同意する。

「だから賢治さん、瑤子ね…」

 するとそこで突然電話にノイズが走る。そして、

「もしもし」

 聞き慣れた相手の声がした。「瑤子です」

 それから彼女が遥か北の港町から何を喋ったのか、よくは覚えていない。ただ、あと二、三日泊ってから戻ってくると云うことは分かった。そして何のかんの云っても久々の娘の帰郷に喜ぶ、一人暮らしの気丈な義母のはっきりしすぎる声が最後まで僕の耳に木霊していた。

 電話を再びテーブルに置いてから、僕はまた妻のソファーに倒れ込む。その時ソファーのマットの隅に何か触る物があるのを僕は発見した。それは小さく折りたたまれた手紙。開いてみるとどうやらそれは、妻が以前仕事で一緒に働いていた部下からの久々の音信のようだった。「その節はお世話になりました。いろいろ苦しんだこともありましたが、今は新しい土地で頑張ってみよう、そういう気持ちになれた自分にホッとしています」

 そう書かれてあった。僕はその手紙を丁寧に折り直すと、また元にあった位置に戻す。妻は雑誌に目を通す振りをしながら、この手紙をその折々に読み返していたのだろうか?僕は雑誌に隠れて見えなかった妻の顔を、改めて想像する。

「これからボクは新しい世界へ旅立ちます。今はもうボクの目の前には、希望だけが溢れています。皆さん、有難う。そしてまた会う日まで」

 あの同級生は最期の手紙をそう締めくくっていた。僕は瞬間、たまらない思いになり、一人部屋の中で小さく叫ぶ。

「なんで、最期まで格好つけなきゃいけないんだ。あんな惨い死に方をするまで意地を張るなんて、そんなのどうかしてるよ」

 気がついたら僕の頬を一筋の涙が伝っていた。それはあの頃、結局流せなかったもの。僕はテーブルのティッシュで鼻をかみ、立ち上がってベランダに出る。外で声がするので見ると、家族連れが戸外で花火セットを興じていた。僕はそのささやかな明るい光を眺めながら、小さい声で「おかえり」と呟いてみる。

 ポチャン、とすぐそばで、水の跳ねる音が聞こえた。

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