第21話 「 店の隅 」
「最近また、たばこの匂い、しだしちゃったね」
客に言われ、私は思わず苦笑いを返す。犯人は分かっている。例の客……。
故あって全席を禁煙にして久しい私の喫茶店『地下牢』。その一番隅の席をまるで指定席のように陣取るその初老の男からは、今日も異様なほどのたばこの匂いが立ちのぼっている。
「あの、たばこはご遠慮してもらってるんですが」
「吸ってはいないだろ」
「ええ、それはそうなんですが……」
一応引き下がってはみるものの、私の中ではまだ逡巡がくすぶっている。衣服はもちろん、身体全体に纏わりつくそのニコチンの匂い。きっと外ではかなり吸うほうなのだろう。今その場で吸っているかどうかはともかく、現に彼の匂いはたばこ以外の何ものでもないのだから……。
私はふと父親のことを思い出す。そういえば父親もこんなだった。そばにいるだけでまずたばこの匂いから近づいてくるようなヘビースモーカー。そのせいというわけではないが私と父親はどうもそりが合わず、開業医だった父親から「跡を継げ」と命令された事がきっかけで家を飛び出したきり二十年帰らなかった。そして放蕩無頼の末私はこの場末の店のマスターに収まったが、父親との関係はそれ以来浮いたままだった。
その父親も三年前がんで亡くなった。結局彼は死ぬ間際までたばこの煙に包まれていた。医者の不養生とは云え、その姿はあまりにも幸福そうで、家族の誰もが遂に諦めざるを得なかった。父親の死後、主のいなくなった病室兼書斎にはしばし、たばこの匂いがまるで面影のように漂っていた。私にはそれがたまらなく淋しかった。一度でもいい。父親を自分の店に呼んで、手製のコーヒーをゆっくりと味わってもらいたかった……。
ここ数日、あの客が来ない。どうかしたのだろうか?
そう思っていた矢先、ふとたばこの匂いがして見ると、いつの間にかあの客が指定席に座り、背中を向けて煙を吹かしている。それも辺り一帯が真っ白くけぶるほどに。
「ちょっとお客さん、ここは禁煙ですってば……」今度こそと詰め寄った時、私は客がやはりたばこを吸ってはいないことに気づく。
でも匂いはともかく、この煙は……?
とりあえず換気の為に入口のドアを開け、振りかえるともう店の隅に男の姿はなかった。
「どういうこと?」私が怪訝そうに突っ立っていると、常連の一人がやってきて私の話をあらかた聞いてくれ、そしておもむろに言った。
「あー、あんたにも見えるんだ。実は彼、友人の知り合いでさ。五年前死んだんだけど、肺がんで強制禁煙させられちゃって、そのせいで成仏できなかったんだよ」
俄かに私の身体から脂汗がにじむ。だってもう随分前から通って来てるじゃないか、あの客……。
「それにしても、今日はまるで煙のように現れては消えたんですよ」私は明らかに動揺していた。
「あんた、何かたばこに纏わる思い出とか、ある?」
「え?ええ。亡くなった父親がそれはもうヘビースモーカーでしたから」
「それだ。ほら」
言われて例の席の方を見ると、そこには楽しそうに語らい合い、たばこを吹かすあの客と私の父親の姿があった。
「今日の客は私だけみたいだし、いいんじゃない?」常連客がそう言うので、私はカウンターの奥からもう使われなくなった父親の形見=舶来のガラスの灰皿を取り出し、そっと彼らの前に置く。そして淹れたてのコーヒーも。
父さん、もういい加減にしとけよ。
その言葉が届いたかどうか、そのうち彼らの姿は白い煙と湯気の中にゆっくりと吸い込まれていった。
それから後、不思議と店の中からたばこの匂いは消えた。しかしガラスの灰皿は片づけのタイミングを失って、今もそのままそこに残っている。
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