第17話 「 厚化粧 」
彼女は古風な女だとよく言われた。自分ではそんな風に思ったことはないし、言われて嬉しいとも正直思わない。
〝古風〟の謂れはまず名前だ。彼女は思う。康子。父親が「健康に育つように」と付けてくれたらしいが、今時の流行からするといささか地味に感じられるのは致し方ない。お陰で風邪ひとつ引いたことがないが、クラスの意地悪な男子からは、「ナントカは風邪引かない」などとよく茶化された。そう、彼女は〝勉強はさっぱり〟の女の子でもあったから。成績なんてどうでもいい。学校に通っているうちのかなり早い段階で、彼女はそう開き直っていた。ふた親も特に何も言わなかった(諦めていたのか、それとも女の子があまり出来ても仕方ないと思っていたのか)。高校を決める時でさえも、将来への野心よりも家からの距離の短さで決めてしまうほど、彼女は実に〝さっぱり〟していた。そんな康子は今、19歳。
彼女の目下の悩みは、自分に個性がないこと。それと云うのも康子は今、服飾の学校に入ってデザインの勉強をしているが、担当教官から事あるごとに言われるのは、「古風なのは結構だけど、個性がもうちょっと欲しいよね」と云う、婉曲な才能欠如通告なのだ。
「思い切ってさ、やっちゃんも化粧とかしてみなさいよ」
教室でそう横から声を掛けるのは、ほとんどまん丸体型でありながら、頭のてっぺんから足の先まで四六時中ばっちりキメている、同期生の美保ちゃんだ。
「う~ん」
康子もその気が全くないわけではないが、美保ちゃんのキメ具合を見ていると、かえって臆病風に吹かれてしまう。
「ほら。作品って、結局その人そのものが出るって云うじゃない。やっちゃんの場合はさ冒険もありなんじゃない?誰かも言ってたけど、やっちゃん元は結構良いんだから」
尚も美保ちゃんの攻勢は続く。確かに。自分でも分かっている。これまでも、この学校に入ってからも、言い寄ってくる男子がいなかったわけではない(それもどちらかと云うと、カルトな人気が自分にはあると云うことを、康子はそれとなく自覚していた)。古風な印象と適度な頭のレベルが、皮肉にもここでは上手く機能しているのかも知れない。
「そうねえ。でも私、化粧とかよく分からないし」
康子がそう言った途端、美保ちゃんの目にあやしくも鋭い光が走った。
「それは任せといて。もうやっちゃんは大船に乗ったも同然よ」
康子はその勢いにただ頷くしかない。
「ひゃあ、これが私?」
学校帰りに立ち寄った美保ちゃんのアパートで、康子は思わず声を上げた。美保ちゃんの手慣れた作業がひと段落着いた頃、鏡に映った自分の顔は、まるで自分ではなかった。
「見違えたでしょう?」
そう言う美保ちゃんの鼻は、それだけが独立した小動物のようにヒクヒク動いている。
「でもこれじゃ、誰も私だなんて分からないんじゃない?」
「馬鹿ねえ、だからいいんじゃない。私がやっちゃんに化粧を薦めるのは、別にチャラけた恋愛の為じゃないのよ。やっちゃんがもう一人の自分になって、今までやったこともないことに〝ジャンプ〟する為じゃない」
「ジャンプ?」
康子は内心「私はただ、個性がもう少し欲しいだけなんだけど」と思ったが、美保ちゃんの思わぬ真摯さに押されて、やはりそれ以上は何も言えなくなる。
「だから化粧は〝化ける〟って云うのよ」
美保ちゃんの化粧哲学は分かったが、康子には正直戸惑いを隠せなかった。
そこからの帰宅途中、康子は路上で思いがけず知り合いの男の子数人と出くわした。咄嗟に身を隠すこともできず、そのまま目をつぶって通り過ぎようとする。半ばバレるのを覚悟したが、誰一人それが康子だと云うことに気付かなかった。そして次に自宅近くのスーパーで今度は母親と出会いがしらにぶつかりそうになったが、母親もそれが自分の娘だとは全く分からないようだった。
康子は不意に、今まで感じたことのない可笑しさが込み上げてくる。
「これなら私、本当に今までと違うデザインが描けるかも」
康子の勘は当たった。その日以来康子が仕上げていくデザインは以前より目に見えて評価されるようになった。それにつれて学校ではひかえていた化粧も少しずつ重ねるようになった。まるでそれは、康子にとって自信そのものであるかのように。
ある時、康子は駅のホームで男の子に呼び止められた。学校で何度か見かけたことのある彼は、単刀直入「付き合って欲しい」、そう言った。康子は相手の名前すらよく知らなかったが、思わず「いいわよ」、そう返事をした。先のことはあえて考えなかった。目の前で乗るはずだった電車が、素知らぬ振りで行き過ぎていった。
果たして初めての恋愛は夢のように楽しかった。男の子は優しかったし、何より康子は今の自分が好きだった。今から考えれば、以前の自分は暗い井戸の底のように、何も分かっていなかったと思った。
家ではあえてこれまで通りに振舞った。両親に気取られるのが億劫だったせいもあるが、それ以上に化粧する前と後のギャップをより楽しみたかった。康子の化粧部屋は自然と、電車の中や学校の洗面所、あるいは公園のベンチと、あらゆる戸外の場所へと広がっていった。そして化粧の腕前も、以前とは較べようもないくらい卒なくなった。
そんなある日曜日、街の交差点で偶然父親を見かけた康子は、彼氏とのデート中と云うこともあってひどく慌てた。父親の方は一瞬目が合いそうになりながらも、まだそれが自分の娘だとは気付かないふうで、それでも半分怪訝そうな表情を浮かべている。康子はその場を無言でやり過ごす。気付かれない自信はあった。信号が変わり、交差点の誘導メロディーが、雑踏の中ひどく歪んで聞こえた。
「さっきの人誰?何で無視したの?」
近くの喫茶店に入ってしばらくしてから彼氏が漏らした言葉に、康子は人知れずハッとする。父親を無視した?この私が?康子は今や、自分が表面だけではなく内面まで変わってしまったことに思い至った。彼氏はすでに次の休みの計画を楽しそうに話している。その表情には一点の曇りも見えない。そうよ、戸惑いは一時のこと。康子はそう自分に言い聞かせる。それに化粧は落とせば元に戻れるのだから…。
その日の夕刻、彼氏の部屋にいた康子の携帯が震えた。母親からだった。父親が用の帰りに事故に遭い、意識不明の重体と云う。病院に駆けつける康子。医者は今晩が峠だと告げた。康子は思わず昼間のことを思い返す。
あの時、父親に声を掛けていれば、こんなことにはならなかったのかも…。
康子の目から堰を切ったかのように泪が溢れだす。母親に促され手洗い場に向かう康子。そこの鏡に映っていたのは、自分でも眉を顰めたくなるほどの醜女(しこめ)だった。迷いもなく化粧を洗い落とす康子。その時病室の方が騒がしくなり駆けつけると、父親の容態が急変し、もう一刻の猶予もないと云う。
「父さん、しっかりして。私、康子よ。分かる?」
康子はそう言いながら父親の手をずっと握り続けた。
夜が明け、康子は自分がいつの間にか眠っていたことに気がついた。何かやわらかい感触がするので見ると、父親が自分の方をうっすらと見ているのが分かった。
「父さん!」
「…康ちゃんか。父さん、長いこと変な夢を見ていたよ」
父親は弱々しくも笑った。
「そう。どんな?」
「山姥のような大女が、父さんと康子を追っかけてくるんだ。逃げても逃げても延々とね。それがいつの間にか追っかけてくるのが、大女に噛まれた康子になっているんだ。父さん怖くて怖くて、すまないとは思うんだがその康子からも逃げ回るんだ」
それを聞いて、康子は何やら無性に可笑しくなった。そして今度は本当に声を出して笑った。夢ではない。彼女は思う。きっとそれは、本当の話なのだ。
父親はどうやら峠を越えたらしい。しばらく康子は学校を休み、母親と交代で病院に通うことにした。そして手が空くと病室の様子をスケッチするようになった。寝ている父親、看護婦の後ろ姿、飾ってある花瓶、点滴の支柱まで。気づくと、その何の変哲もない病室にもデザインは溢れていた。さりげなく、それでいてちゃんと意味を持って。康子は家族と共に居ること。それから自分がいろいろなものに囲まれて暮らしていることを改めて思い、そして感謝した。
もう康子に化粧は必要なさそうだった。
「やっちゃん!」
不意に病室のドアが開き、あの美保ちゃんが見舞いにやってきた。
「あ」
その姿を見て声を上げたのは、すっかり元気を取り戻した父親ばかりではなかった。
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