第10話 「 ネガポジ 」
僕は自分が「二つの世界」を生きているのを知っている。いや、正確に云えば他の皆も同様で、普通は或る事をきっかけに記憶諸共切り替わるのだが、僕と僕の親兄弟だけが何故かそうならないのだ。
僕は結婚している。もう五年目だ。子どもがいないせいもあってお互いまだ新婚気分だが、妻は「もう一つの世界」ではホステス嬢だ。理由は分からない。確かめようもない。「もう一つの世界」では妻にとって僕は赤の他人そのものなのだから(もちろん同居する僕の母親=姑など云わずもがなだ)。
どうやら僕ら人間はそれぞれに「二つの世界」を抱えている。そしてその時々の切り替えを経ながら、この世知辛い世界を共有しているのだ。
僕は或る日の日曜に近くの田園を散歩していた。するとその途中の広場で数人が楽器を弾き、小さなコンサートを開いていた(中には知った顔もあったが、その彼は切り替わっていた)。僕は何気なくそこに近づき、その瞬間僕にも切り替わりのスイッチが入るのが分かった。
僕はしばらくそこで彼らの演奏を座って聞いていた。それはお世辞にも上手い演奏は思えなかったが、それでもきちんと心がこもっていた。途中からゲストの女性がその演奏に加わった。彼女はギターを弾き、時折コーラスを担当した。それは澄んだ、とても美しい声だった。
彼女は僕を見つけた。そして僕も。僕らは以前僅かな間だけ恋人同士だったことがあるのだ。彼女は自分の演奏が終わると、僕のすぐ脇までやってきて座った。
「元気だった?」
「うん、君も」
彼女は一度席を立って、ギターをケースに入れてからまた戻ってきた。
「ねえ、帰る前に少し歩かない?」
僕らは広場を出て歩き始めた。彼女のギターは僕が代わりに背負った。僕は久し振りに見る彼女の横顔を見つめた。愛嬌のある、それでいて哀しみを讃えた目。すると彼女が不意に僕の左手を取った。昔よくそうして歩いていた時のように。
「そう云えば、本を借りたままだったよね?」彼女が言った。
「そうだったっけ?」
「面白い本だったわ」
僕らは大きな池の周りを手を繋いだまま歩いた。池には藻が浮かんでおり、中の様子までは見えなかったが、ここには昔から大きな鯰が棲むと言われていたのだ。
途中で僕らは或る農家に立ち寄り、水を飲ませてもらった。そこも僕の知り合いの家だったが、今の僕はただのヒッピーな若者としてしか思われていなかった。そこに小型のトラックが入ってきて、僕らの近くに停まった。中から出てきたのは何と僕の母親だった。お互いに「あれ」と云う顔になったが、それ以上言葉を交わすこともなく、それから僕と彼女はその家を後にした。
彼女は相変わらずキュートだった。そしてそのことが僕を一層切なくさせた。彼女は「もう一つの世界」では確かバリバリの歯科医だった。一度だけ僕は彼女の治療を受けたことがある。それは有能だが何とも有無を言わさぬ施術で、僕はそれきり彼女の勤め先には出向かなかった(お陰で僕は後日他所の歯医者で奥歯を一本抜歯する羽目になった)。僕は彼女の繊細で、なおかつ筋肉のついた腕と指に自分の手を触れさせる。そうすると何だかすごく安心できるのだ。まるで世界はもうずっと前から一つであるかのように。
彼女は夕方には駅から列車に乗って帰らなければいけないと言った。僕はそんな彼女をバス停まで送り届け、そして「本は今度でいいよ」と言った。彼女は「有難う」と言い、それから「もし良かったら」と僕にキスをねだった。僕は一瞬妻の顔が過ったが、彼女の唇に軽くキスをした。「また君のギターが聞きたいな。ビートルズのバラードとか」
「用意しとくわ」
それから彼女は間もなくやってきたバスに吸い込まれ、やがて見えなくなった。「もう一つの世界」も悪くはない。僕は帰り道そう思った。多分、家に戻ってスイッチが切り替われば、母親が僕に言うだろう。「お前も私に似て、因果な身体だ」と。そして夜は更けて行き、明日からまた仕事だ。
僕は切り替わる前の夕日が沈む風景を眺めながら、一人家に向かって歩き続ける。
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