春日遅遅(しゅんじつちち) (1)

―――ジリリリリリ

――――カチ

―――ジリリ

――カチ


 嫌気が差すほど鋭い日差しが、部屋の一角を照らしていた。

 その日差しから逃げながら、部屋中に轟音を響かせる機械のスイッチを切る。

 さながらその動きは、今世紀最大の重大なミッションをこなしているようだった。


猫丸ねこまるー、起きなさい朝よ。高校今日からでしょ」


 扉が開く音と共に、母の優しさのこもった声が響く。

 彼女はいつだって自分のことを第一に考えてくれている。だからこそ、このモーニングコールはより一層、猫丸の憂鬱を誘った。


「いや、まだだよ。来週からだよ、高校は」

「そうなの? でもそれ先週も言ってなかった?」

「先週間違えたんだよ、僕が一週間早く勘違いしてて―――」


 布団にくるまりながら部屋の入り口に立つ母にそう告げると、遠くのリビングから更に大きな声が響く。


「おい、ダメだろ猫丸。お母さんをだますんじゃない。母さんもしっかりしてくれ、詐欺とかに引っかからないか心配になる」

「え、そうなの? どっちが本当なのよ、わからないわ」

「どうせ猫丸が新学期が嫌で、なんとかして行かないようにしてるだけだ。諦めて準備しろー」

「ズバズバ言わないでくれよ―――」


 猫丸はため息をつきながらも無理矢理身体を起こし、フラフラと幽霊のように食卓へと向かった。こういうときに限って身体は心と反比例しているかのようにピンピンしている。

 自分の身体ながら、全く思い通りにならないものだ。


 食卓には目玉焼きと食パン、野菜ジュースが並んでいた。いつもと同じメニューなはずなのに、今日だけは全く美味しそうにみえない。

 先に食卓についていた父が、目玉焼きを食パンに乗せて、ソースをかけて食べている。


「ちゃんと準備はできてるのか、なんか色々とあるんだろ、初日は」

 横目にテレビを見ながら適当に聞いてくる。


「準備はしてる。けど今日は特に何もないんじゃないかな。いってもちょっとした説明と自己紹介程度だと思う、部活紹介とかはまた後日らしいし」

 猫丸は野菜ジュースをかきこみながらそう答えた。


「でもね猫丸、そういう自己紹介とかだけの初日が結構大事だったりするのよ。そこで友達ができる子はできちゃうらしいんだから」

「そうだなあ、俺も昔は初日から周りの奴らと話してた覚えあるなあ」


 二人は優しく警告したが、それが一番、猫丸に憂鬱を思い起こさせるトリガーとなるのだった。


 その"初めて"ってのが、僕にとってはなによりも高い壁だというのに―――口から漏れそうになった言葉をパンと一緒に飲み込んだ。


「あー―――きっと大丈夫だよ。中学同じだった子もいるかもしれないしさ」


     


「えーと、名前は伏見ふしみ猫丸って言います―――好きなことは剣道で、見たりするのが特に好きなんですけど、時々素振りしたりなんかしてます―――とはいっても、中学では途中で辞めちゃったんですけどね、あはは」


 猫丸の精一杯の苦笑いが周囲の笑いを誘うことは一切なく、教室は嫌というほどシンと静まりかえっていた。

 生き地獄とはこのことを言うのだろう。


 気を紛らわすためにも周りを何度も見渡したが、中学が同じだった子は見当たらなかった。


「あー、一年間よろしくお願いします、終わります―――」


 終わったことだけを褒め称えているかのようなまばらな拍手が、教室中に鳴り響いた。


 こんなことなら両親の警告を聞いてきちんと自己紹介の準備とやらをしておくんだった。そんなことしても意味があったかはわからないけど―――猫丸はそう思いながら、ひたすら机の端を見つめていた。


 自己紹介、というただ自分を表現するだけの場にも得意不得意は十分存在しているようで、その結果は今後の人間関係の築きやすさに直結するものなのだと、改めて感じさせられた。

 

 これからサッカー部に入ろうとしているカラオケが趣味の彼、他校に中学から付き合っている彼氏がいて化粧などにとても詳しいらしい彼女、アニメや漫画にはめっぽう強く、それ関連のことなら何でも聞いてくれと胸を張って告げた彼。

 彼らは一日目の今日にして、既にとても輝いてみえた。

 

「はい、じゃあ一通り自己紹介は終わりましたかね」


 猫丸がそんなことをぼーっと考えていると、いつの間にか最後の拍手も終わり、教壇では担任の先生が締めの挨拶を行おうとしていた。

 全員の視線が彼に集中する。


「いろんな人がいたと思いますが、このクラスで一年いろんなことを乗り越えていくんです。皆仲良く、とは言いませんが、一緒に頑張っていきましょう。では―――」

「せんせー、まだせんせーの自己紹介が終わってませーん」


 先生が軽くまとめて書類を配ろうとしていたとき、クラスの真ん中ら辺に座っている女子が鶴の一声をあげた。


 うちの担任は、まだ数時間しか見ていないがだいぶサバサバした人間のように見えた。


 教室に入ってきて浮き足立っている猫丸たちを静かにさせるときも、入学式のために体育館に案内するときも、教室に帰ってきてから連絡事項を伝えるときも。

 彼はいつだって、必要最低限の言葉数で済ましているような印象だった。

 

「ああ、そうでしたか。君たちの自己紹介を聞いていたら、自分が既に伝え終えていると錯覚してしまいました。私も案外、緊張しているのかもしれませんね」


 少し微笑みながらプリントをもう一度教壇に戻し、ふらふらとチョークを探し出して黒板に自分の名前を大きく書き始めた。

 教室を包み込む静寂から、皆が先生の手先に注目しているのがわかる。


―浪―川――渚。


 最後の文字を書き終えた瞬間、ふり返りながら先生は話し始めた。


「私の名前はこう書いて、浪川なみかわ なぎさと読みます。まあ浪川先生でも渚先生でも好きに呼んでください。今までは―――そうですね、浪川先生が多かったかな」

 渚先生、という言葉に、即座に何人かの女子が反応したのが聞こえた。


 「渚先生ってなんか響きカッコよくない?」「ちょっと待って、先生普通にカッコいいのに名前までカッコいいのずるい」「これ、担任ガチャ当たりだわ」

 猫丸が聞き取れただけでもこんな会話が繰り広げられていた。


 しかし猫丸にもそんな女子達の気持ちがわかるほど、浪川先生の容姿は整っているようにみえた。


 全体的に細身だったが肩幅だけは少し広く、高身長の丸眼鏡といった風貌で、その中でも腕が少し長いのと、目の奥に不思議な覇気のようなものが宿っているようにみえたのが印象的だった。


 今は一体多数で話をしているから気にならないけど、一対一で話をしたら自分の心まで覗かれている気がして落ち着かないのだろうと思う。


「年齢は二十六歳なので、皆さんから見たら一回り年上ということになりますね。担当する教科は国語ですので、週に三回ほどは授業に来ることになると思います。

 高校の国語は古典と現代文、どちらもコツをつかむのが難しくなります。できる限りわかりやすく教えられるように頑張りますので、一緒に乗り越えましょうね」


 落ち着き払った声で基本的な説明だけを終えた後、浪川は「なにか、質問などはございますか」と全体を見回しながら尋ねた。


「はい! 先生は彼女はいますか!」

 後ろのほうから大きな声で男子が尋ねた。


 それに呼応するように、教室内は小さなざわめきで埋め尽くされた。


「彼女、ですか。いませんね、残念ながら」


 その返答に、教室中が更に盛り上がりを増した。

 そんなことよりも猫丸は聞きたいことがあったが、こんな空気で聞けるような心臓は持ち合わせていなかった。


「まあ、それ以外のことは今後少しずつお話ししていくこととしましょう。今日は皆さん、慣れない環境でお疲れ様でした。明日からは早速、それぞれの授業でレクリエーションが始まります」


 再び浪川先生がプリントを迅速に配り、全員に資料が行き渡ったことを確認すると、もう一度全体をゆっくりと見渡し、空気を締めた。


「それでは、改めて今年一年、よろしくお願いします」




 先生に聞きたかったことがまだ喉の奥に詰まったまま、猫丸は騒がしい教室の中一人立ち上がり、荷物を持った。

 

 そうだ―――行きの時は緊張で見れなかった通学路の景色でも見て、ゆっくり帰ろう。なんなら学校の中を探検でもしてみようか。

 思い立った瞬間、もう一人の自分がそれを否定した。


 ―――いや、それはやめておこう。きっと人が一杯いるだろうから。


  猫丸はただまっすぐ家を目指すことにした。

 これが高校初日―――その事実からはできる限り目を逸らし続けることにした。


 猫丸の予想は当たり、下駄箱から校門までは部活動の集まりで祭のようになっていた。

 猫丸は運動部の巨漢や文化部の集団の間を縫うように抜け出し、校門に急いだ。

 

 小走りで学校から離れ、住宅街の方へと逃げる。そんな情けない猫丸の門出を祝うように、目の前には桜並木が広がった。自分がどれだけ情けなくても、この植物だけは差別することなく誰も彼もの門出を祝福してくれる。


 猫丸はそんな桜の白い花びらを見ながらあのお祭り騒ぎを思い返す。

 しかし何度その景色を頭に思い浮かべても、その中に"剣道部"は見当たらなかった。


 内心がっかりしたような自分を叱って、改めて猫丸は頭を振った。

 これでいいんだ、僕は高校で剣道部に入るつもりは無いんだから。

 そのつもりで、部活動が強制じゃないこの高校を選んだんだから。


 愛知県に位置する、翔蛉しょうれい高校。

 猫丸が家が近いというのと、部活動が強制でないという二つの理由で選んだ高校だった。


 たとえ何かの部活に入らなくてはいけない、と言われても、どこかに名前だけ登録してすぐにでも幽霊部員になってやろうと思っていたけど―――

 元から入らなくても良いなら、そんな気まずいやりとりもなくていいのだから、猫丸からしたら万々歳だった。


 僕は帰宅部として三年間を過ごすんだ。そうだ、なにか趣味でも見つけて極めてみようか。皆が部活をやっている時間、その時間にコツコツ何かを続ければ、卒業するときには大きな成果になっているかもしれない。


 そう考えると、なんだかワクワクしてきたかもしれない。そうだ、青春の形は一つじゃないんだから。

 

 そんなことを考えながら、猫丸はただひたすらに家までの道のりを歩いていた。

 しかし、前を向こうとしているはずの猫丸の足取りは、決して軽くなることはなかったのだった。


     


「あら、おかえり」

 靴を丁寧に整えている猫丸の背を見て、母が一声かける。

「どうだった? 初日は楽しめた?」


 楽しむ―――猫丸の記憶の中にそれに該当するものは見当たらなかった。だが、母に余計な心配はかけたくない。猫丸は自然とふり返った。


「うん、すごい桜が綺麗だったよ」

 猫丸の諦めたような表情を見て、母もまた苦笑いを浮かべていた。


 

 

 

 

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