孤影悄然(こえいしょうぜん)(1)

 二人で部室まで歩いて行く道は、普段よりも一層酸素が薄く感じた。世界が色をなくしたようにモノクロの景色では、音さえも鮮明に聞こえなくなっていた。


「あの、さ、剣道はいつから―――」

「小学校低学年」

「ああ―――そうなんだ、僕も小学校からなんだよ」

「そう」

「―――うん」


 猫丸は何度かこんな具合にコンタクトを図ろうとしていたが、露峰はこちらに一切の興味がないようで、どうにも話が続かない―――というよりも、露峰の方から話を断絶しているようだった。

 

 このまま部室まで行くのはなんだかなあ、先輩とか熱田君にも気を遣わせちゃうし―――うん、やっぱりここで少しは親交を深めておかないと、皆に迷惑がかかるよね。間違いない。

 猫丸はめげそうになっていた自分を何度も鼓舞していた。


 一方の露峰は、まっすぐ前を向きながら無表情のまま歩いていた。


―――うちの剣道部来たら、剣道やりたくなっちゃうかもだから


 この言葉が頭から離れない。それは露峰にとって、心が動かされたから、というよりも、しつこいカビや錆のようにどれだけ拭っても取れないいやらしさのようなものだった。

 学生の剣道なんて、どうせ目指すのは試合ばっかりでしょ。そんなの―――ああ、考えるだけで自分が否定されているような気がしてくる。本当に、嫌だ。


 露峰は表情を変えないまま、歯を食いしばっていた。


「そうだ、露峰君はどうして高校では剣道をしないって決めたの? 実を言うと僕も、高校で剣道部に入るつもりなかったんだ。それで、なんだか境遇が似てるなって思ってさ」


 猫丸は良い話題を思いついた自分を内心褒めていた。どこかの誰かが言っていた気がする、仲良くなるにはまずは共通点からだって。

 しかもこの話題に関しては純粋に気になっていたのもあって、猫丸は内心目を輝かせていた。


 しかしその回答は非常に淡泊で、猫丸が期待していたようにはならなかった。

 露峰は猫丸の方を向くことも、声の調子も変えることもなく答えた。


「合わないから。ただそれだけ。学生のする剣道と、僕の剣道は水と油みたいなものなの。どうしたって合わないものは、合わないんだよ」

「あ、合わないってのはどういう―――」猫丸はよく分からず渋い顔をしていた。

「見たら分かるよ―――ああでも、今日は受け手だけで良いんだっけ。それなら分からないかもね。でも別にいいでしょ、関わるのもこれで最後なんだしさ」

「ああ、そっか―――」


 最後―――か。その言葉に猫丸は行き場のない寂しさを感じていた。

 彼の言葉や仕草から、本当に剣道に未練がないことがひしひしと伝わってくる。それが猫丸にはとても辛くて、それ以上なにも言えずにうつむいてしまっていた。


 彼と自分は似ている。そう思っていた猫丸だったが、今ではその思いすら揺らぎ始めていた。それはひとえに、彼と自分では剣道に対しての愛情が大きく違っているような気がしていたからだ。


 猫丸は剣道から離れたとしても、心はいつも剣道と一緒だった。剣道の試合を見たりすることはずっと好きだったし、家でできる素振りだって欠かしたことはない。

 剣道に申し訳なさを感じていたのだって、剣道への愛故のことだった。


 しかし目の前の人間はどうだろう。彼は剣道が好きじゃないんじゃないか。いや、それ以前に、剣道というものが好きだった時期があるのかすら怪しいほどだ。


 しかし彼が背負っている防具袋も竹刀袋も、材質や作りがしっかりしている。これは長期間使うことを見越して買うほどの、少し高価なものに違いなかった。


「君も剣道部に入るつもりはなかったんだよね」

「え、ああ、うん」話しかけられると思っていなかった猫丸はわざとらしく慌てた。


「君はどうして戻ったの。誰にも咎められることもなく剣道を辞められるチャンスじゃん。それなのにまた部活なんてものに属して。これでまた剣道から逃げづらくなるんだよ」


 猫丸は過去の自分に問いを投げた。お前はどうして部活に戻ったんだ。その理由を、彼も納得するように説明してくれよ。

 しかしどれだけ自分の返答を待っても、返ってくるのは単調な答えだけだった。


「僕が嫌いで、逃げたかったのは―――複数人で剣道をやる"部活"ってものそのものだったんだ。だから最初は入ろうと思ってなかった。

 けど同級生を初めとしてさ、うちの剣道部はいい人達ばかりなんだ。皆剣道に本気でさ。だから僕は嫌ってた部活も、もう一度信じることができたんだ。

 それに、僕はなにより剣道が好きだったから。戻ったのはそれが全てかな」


「好き―――ね」


 露峰は大きくため息をつくようにそう言うと、適当に路駐されている自転車の方に目を向けた。


「思ったことないや、そんなこと。しかもここの剣道部がそんな空気感なら、俺は一層近付かない方が良さそうだね」


 猫丸は全てを諦めたような声色と微笑みに対して、ただゆっくり目を逸らすことしかできずにいた。

 



「お疲れ様です―――」


 猫丸が死んだ魚のような目で部室の扉を開けると、中では熱田と先輩二人が正座で向き合って、一つのケータイの画面を三人で睨み付けていた。

 何やらなにかの動画を三人で見ていたようだった。


「おお、伏見ちゃんと―――噂の助っ人外国人!」加藤は露峰を見て目を輝かせていた。

「野球みたいな言い方しやがって、それにどっから見ても外国人じゃねえだろあれ―――ってお前ら、初っ端からなんちゅう空気だよ」

 

 野上の心配そうな目を前に、猫丸は苦笑いを浮かべることしかできずにいた。隣の露峰は部室の至る所を虚ろな目で適当に眺めている。


「そうだ、お前、経験者なんだろ。伏見ちゃんから聞いたぜ。名前は」

「―――露峰 いつき。伏見には言ったけど、俺は助っ人じゃなくてただの受け役だから。しかも今日限定の。そういうつもりでよろしく」


 露峰の冷たい言葉は部室の空気を一気にしんと静まりかえらせた。

 それをはねのけるかのように抵抗したのは名前を聞いた加藤だった。

 少しうつむきながら、身体にはわなわなとしたオーラを纏って顔をしかめている。


「そうかそうか。じゃあ次は俺の自己紹介な。俺は二年の加藤 将弘だ。、な」

「ああ、先輩―――」露峰は小さくのけぞった。

「やっぱり、てめえ俺を一年だと思ってやがったなあ! 上級生と下級生で違いがないうちの制服のせいでこんなことになるんだ、今からでもネクタイの色とか変えるべきだぜ、なあ、野上」


 暴れんばかりの勢いで不満を全身で表現していると、そう問われた野上がある一言で更にその火に油を注いだ。

 

「いや、今のは主にお前の外見が生んだ悲劇だろ。身長とかさ」

「はは、あー、言っちゃいけないこと言ったよ。ライン越えたよね、それ。これは露峰と野上、二人の責任だからな。許さねえからなこんにゃろお」


 座りながら野上と加藤が取っ組み合いになっていると、それを差し置いて熱田が立ち上がり、露峰の前に立ち塞がって先輩二人を親指で指した。


「加藤先輩の隣にいるのが野上先輩だ。あの二人が二年で、俺は一年の熱田。まあ、なんだ。俺たちはお前に感謝してるんだ。一人増えるだけで練習量も、効率も、内容だって大きく跳ね上がるからな。よろしく頼むぜ」


 そう言って差し出した手を露峰は数秒見つめ、その後で力なく手を取った。

 そして目線を上げ、少し見上げるようにして熱田をじとっとした目で睨んだ。二人は猫丸よりも身長が高かったが、露峰は熱田に比べると少し身長は低かったのだった。


「強いんだね、熱田は。なんとなく分かるよ。これからも頑張ってね、応援してるよ。今日は、よろしく」


 露峰の言葉に対してか、熱田は目を見開いた。猫丸は二人の相性を慎重に見定めていたからこそ、熱田のその表情の変化を見逃さなかった。

 それはまるで面白くないと思っていたおもちゃが、思っていた以上の性能を誇っていたときの高揚感のような、そんな良い裏切りを受けた人間の顔のように見えた。




 一通り準備運動と素振りを終え、一通り防具を着け終わると、五人は道場の正面側に野上と加藤、そのすぐ隣に猫丸と露峰が竹刀を帯刀した状態で立っており、熱田は猫丸と露峰のすぐ隣で四人を視界に入れていた。


 全員が挨拶と共に構えて蹲踞を終え、いざ切り返しから稽古を始めようとしたとき、熱田が道場全体に響き渡るような声で四人に声をかけた。


「じゃあいつも通り、切り返しから打ち込みまでのメニューを順番にやっていきましょう。今回も五人全員が反時計回りで回る感じで。それで抜けてる一人は一回一回、四人を見て気付いたことをローテーションが変わるときに言ってあげてください。

 言いづらかったり、特に感じることがなかったりしたら無理に言わなくても大丈夫です。でも見るのもめちゃ良い稽古になるんで、とにかく皆必死になって他の人の剣道を見てください。奪えるものは全部奪ってやるぞって感じで。いいっすね」


「「「はい!」」」


 露峰以外の三人が威勢よく返事すると、熱田は手前側にいた露峰の方を向いて付け足した。


「勿論、露峰も気付いたことあれば言ってくれな。俺たちの為になるから」

「俺が言えることなんて特にないと思うけど―――」

「ここでは上手い下手、先輩後輩は関係ねえんだ。なんでも良いから、頼むな」


 まっすぐな目で期待され、露峰は少しやりにくそうに顔を歪めた。


 もう隣では切り返しが始まっている。猫丸と露峰も熱田の視線を感じながら竹刀を構え、猫丸は即座に露峰の面に竹刀を打ち込んだ。


「ヤアアアア、メエェン―――」


 猫丸が露峰の面を打ち、抜けることなく露峰と鍔迫り合いの形を取る。露峰は流れるように猫丸から離れ、すっと竹刀を面の横に立てた。

 それを確認して猫丸は自分のフォームが崩れない最速で竹刀を振り、左右交互に竹刀に竹刀をぶつけた。


「メンメンメンメンメンメンメンメンメエエエン―――メエエエン!」


 九本打ち込んだ後でその間合いから離れ、猫丸は最後の一本を面に打ち込んだ。

 隣を抜けていく猫丸を露峰は最小限の動きで避け、猫丸がふり返るのに合わせて竹刀を合わせた。そのまま露峰は竹刀を帯刀し、小さな声で「ありがとうございました」と言って猫丸の方へと歩いて行った。


 今は猫丸が面を打って抜けたことで、元々の位置と立ち位置が逆になっている。その状態で帯刀して猫丸の方に来る、ということは、それは露峰が切り返しをしないことを示しているようなものだった。


「え、切り返し―――」猫丸はつい声を漏らした。

「受け役は打たないから受け役なんでしょ。ほら、場所入れ替わって―――ああ、どうせならもう一回面打って場所交代する? それならもう一回構えるけど」

「ああ―――そう、だね。ならお願いしようかな」


 猫丸は彼にも切り返しを打ってみてほしくなっていた。それはひとえに、彼の一挙手一投足が美しかったからに他ならなかった。


 先ほどの猫丸の切り返しの際。

 竹刀を構え、その竹刀をすっと横に逸らす。竹刀で猫丸の打ちを受け止めながら、姿勢を一切崩すことなく前後へ移動する。

 そして再び構えられるその構えは初めの構えと寸分違わず、剣先の延長線には猫丸の喉元がある。


 なにより特徴的なのは、露峰の全ての動きが必要最低限だったことだった。無駄な動きがなく、洗練された身のこなしで猫丸の打ち込みを受けている。

 猫丸はまるでなにかの機械が自分の相手をしているのではと錯覚するほどだった。


 しかし猫丸は、自分が彼を半ば強引にここまで連れてきてしまっていることもあり、それ以上を求めるのはなんだか酷である気がしていた。

 それに"受け役しかやらない"というのは二人で交わした約束だ。これは彼との信頼関係に関わる問題であり、もし今後なにか彼と関わりがあったときに影響してしまうかもしれない。


 そう思った猫丸が目の前で構えている露峰に対して面を打とうとしていたとき、隣にいた熱田が待ったをかけた。


「一旦待ち。露峰、悪いけどこれだけは打ってやってくんねえかな」

「なんで。俺は受け役としてここにいるんだけど」

 露峰はこれ以上ないくらいに納得のいっていなさそうな目で熱田を見ていた。


 加藤と野上も既に切り返しを終え、三人の会話を傍から見ていた。

 野上はその状況を見て一瞬部長の自分が間に入ろうとしたが、途中で思いとどまった。なんでもかんでも先輩がどうにかすれば良いってものでもないだろう。しかもこれは後輩らのことだ。


 そう考えた野上は二人がこれ以上の熱量になるまでは傍観することに決めた。


「そ、そう、これは僕と露峰君が約束したことだからさ。ね、熱田君、ここはなんとか―――」

 猫丸もこれ以上のトラブルに発展しないように露峰の助太刀に入る。しかし熱田は全く引くつもりはなさそうだった。


「切り返しは相手との実力の歩幅を合わせる練習でもある。それに、これは受ける側も相手の打ちを全身で感じてそれに合わせる、という点で大きな練習になるんだ。だから受ける側もさせてやってほしい、お前なら分かるだろ」

「そんなことを言い出したら全部の練習がそうでしょ。受ける側も練習になるなんて当たり前のこと、今更言われたって了承するわけにはいかないね。だってこれを良しとしたら―――」


 熱田は目を細め、力を込めて反論する露峰を見下げて言葉を遮った。


「切り返しと応じ技だけでいい。打ち込みは受けだけで良いから。それならいいだろ」

「―――まあ、それならいいけど」露峰は少し時間をおいて目を逸らした。

「「いいんかい!」」


 熱田の提案に少し答えづらそうにした後で意外にもその提案をさらっと飲んだ露峰に対して、先輩二人は声を合わせてツッコミを入れていた。


「お前、やっぱりちゃっかりしてる系の奴だな」

「今日はしんどい思いするつもりで来てないからね、当然でしょ」


 呆れる熱田に対して、露峰は鼻を鳴らして猫丸と向き合った。 


「じゃあ、俺も打つから。普通に受けてくれれば良いよ」

「あ、うん。わかった」


 二人は再び竹刀を合わせ、お互いがお互いのリズムで深呼吸した。

 二人を見守る三人は、まだ見ぬ剣士の打ちに心を躍らせ、加藤と熱田においては少し口角が上がってしまっていた。


「ヤアアアア―――メエエエン、メンメンメンメン―――」


 落ち着きを持ちながらも覇気のあるかけ声と共に、露峰の竹刀は猫丸の面に向かった。全員が予想していたとおり、その打ちは右手に引っ張られることもなく、まっすぐな軌道で猫丸の面の中心を捉えていた。


 最初の面打ちに続く切り返しでもその精巧さは失われず、ただただ綺麗な打ちがその場で続いている。特別速くも遅くもないその打ちには覇気が宿っていなかったが、だからといって露峰が適当にやっているというわけでもなさそうだった。

 

 野上と加藤がぽかんと眺めている中、熱田は露峰に切り返しをさせた自分を内心褒めちぎっていた。

 やっぱりそうだった。もしやと思ったんだ。熱田は予め勘付いていたことが確信に変わっていくのが分かった。

 

 あいつは手首が異常に柔らかいんだ。そしてその特徴は切り返しにて面を左右に打ち分けるとき、如実に表れていた。

 途中まではまっすぐな軌道を描いていた竹刀が、途中から彼の手首によって上手い具合に左右へと振り分けられている。

 これは中々やろうと思ってできるものじゃない。大前提として手首自体が柔らかくなくてはいけないし、手首を柔らかくするのだって一朝一夕でなんとかなるものじゃない。


 しかし―――なんだろう。このつかみ所の無さは。

 多分こいつは長年剣道をしてきている人間だ。それ故の手首だろうし、それがこいつの強みであることは間違いない。

 だが打突全体を見れば、そこに突出したものは見られなかった。至って普通。伏見とトントン、と言ったところだ。


 もっと強いんじゃないか、と思っていた熱田は、それだけで心をヤスリで削られているような気味の悪さを感じていたのだった。

 

 熱田の感心も他二人の視線も余所に、露峰はさらっと最後の面を打って切り返しを終えた。

 互いに竹刀を収めて挨拶を交わしている間も呆けていた部員に対して、露峰は淡泊な表情で言い放った。


「なにしてるの、ローテでしょ。そんな見事なものでもないんだから、魅入ってないでとっとと終わらせてくれないかな、練習」


 その言葉で目を覚ました三人は、ネジ巻きを巻かれたブリキのおもちゃのようにちゃかちゃかとその場で動き出し、練習を再開した。



 未知の存在が混ざって行われた練習は一層増した熱量と共に、効率よく全員の弱みなどが分析されながら行われた。


 猫丸は数年剣道から離れていたために生まれた雑さなどを徹底して直し、野上は自分の打ちを改めて第三者に改造されながらもフットワークを軽くするような足運びを学ぶ、加藤は打突の基礎をもう一度丁寧に作り上げる―――といった具合で、それぞれがそれぞれの課題に第三者と共に取り組んでいた。

 

 それらが効率的に行われたのは他でもなく人数あわせで来てくれた露峰のおかげであり、その打突の丁寧さがより周囲の練習効率の上昇に繋がっていたのだった。


 特に応じ技などの相手の打突に応じて自分が打突を返す、といった練習に関しては、露峰の綺麗な打ち方が全員にその応じ技の本質を教えてくれていたようだった。


「熱田、今日の練習は後なにが残ってるの」


 基礎練を一時間半、丁寧に終わらせた後で全員は面を外して休憩を取っていた。

 その間にも鏡で自分の構えを確認していた熱田に、露峰はボサボサになった髪の毛のまま話しかけていたのだった。


「この後は打ち込み、その後は地稽古で終わりかな」

「ああそう、じゃあ俺は打ち込みが終わったのと同時に帰るから。地稽古は各々で頑張ってね」


 露峰はそう言うと熱田に背を向けて、自分の荷物が置かれているロッカーまで向かった。その姿は依然として部活が始まる前のようであり、この部活と関わるのは今日で最後、といった態度を変えるつもりはなさそうだった。

 

 その時、熱田は気付くと彼の後ろ姿に手を伸ばし、彼の肩に手をかけていた。大きな手で掴まれたことにより、露峰もがくんとその場に足を止める。

 露峰は首だけを回して熱田を見た。その目は普段より細く、光を失っていた。


「なあ、地稽古までやってってくれねえか」

「話が違う。これ以上、俺がなにか言う必要ある?」


 熱田はその場で立ち尽くしていた。

 こういうのは苦手だが―――熱田は肩から手を離しながら、なんとか小さな脳みそを回していた。

 

「分かった、取引をしよう」

「なんで、そっちが取引を提案してくるわけ? それを俺が受ける理由ないよね」

 露峰は熱田の方をふり返り、呆れた表情で首をかしげた。 


「打ち込み、わざわざやりたくなくねえか。自分が打つわけじゃねえのによ」

「それはその通りだけど、地稽古やらされるよりはいいかな」

「―――まあ、そりゃそうだわな。そこでお前、担任の浪川先生の経歴知ってるか」


 浪川、という名前が出た途端、露峰は少し表情を曇らせた。

 これは知ってる顔だな―――それは察しの悪い熱田でも分かるほどの露骨な変化だった。


「今から浪川先生を呼んでくる。そこで俺からお前に提案がある」

「それはおかしいな。彼がこの部活の顧問をやるとは思えない。あっても彼は名前を貸す程度で、部活に顔を出すことはないと思うけど」

「頭が回る奴だなほんとに―――でもまあ、数分くらいなら来てくれるだろ。断ってた理由も、主に忙しい、が原因だったわけだしな」


 露峰は顎を引いた。それは一つの覚悟であり、徹底抗戦の表れだった。


「てなわけで、俺と試合しようぜ、露峰。もし、お前が俺に勝てば、お前は一生この部活に顔を出さなくて良いし、それに加えて一つ、ここにいる四人にできることならなんでも言うこと聞いてやる」

「それ、交換条件になってないよ。俺は元々今日一日限りの"受け役"っていう約束なんだけど」

 

 二人の会話に吸い寄せられるように他の部員が集まりつつある中で提案された内容に、他の三人立ちは「さらっと巻き込まれた―――?」と棒立ちになっていた。


 露峰はどこまでも熱田の条件を飲むつもりは無い様子だったが、猫丸の目には露峰の表情が先ほどとは少し変わって、どこか焦っているように見えていた。


「そりゃあお前、伏見との約束だろ。俺と約束したわけじゃねえ。俺はお前がこの条件を飲まない以上、どこまでもお前に付きまとうぜ。それが嫌なら、俺に勝てばいいんだ。単純な話だろうが」


 露峰は猫丸と約束したときのことを思い出した。こんなことなら勧誘するのをやめて、じゃなくて、入らないことを約束にしておくんだった。


「―――確かにそうだけど。でも俺が負けたらどうするのさ。そのデメリットがある以上、試合を受ける意味を感じないんだけど」

「うーん、そうだなあ―――」


 やってくれたな、と猫丸を睨んでいる露峰の横で、熱田は首を捻った。猫丸は「そんなつもりじゃなかったんだって―――」と小声で言いながら身振り手振りで必死に弁明していた。


 俺はこいつと試合がしてみたい。どんな剣道をするのかが気になる。だから正直こいつが勝とうが負けようがどうでも良いんだよな―――

 そう思ったとき、熱田は今日の練習を思い出した。


「週一、ここに来てくれればいいや。勿論打ち込みとかはなしで。それならもし負けたときでも大したデメリットじゃないだろ」

「ダメだ。二週間に一回だ。週一は多すぎる」

「ならそれでいいぜ。じゃあ決定な」

「えっ―――」


 思ったよりもすんなり提案が通ったことに動揺を隠しきれず、露峰は黙って熱田の背中を見つめることしかできずにいた。

 既に熱田は道着と袴のまま職員室に向かって歩き始めている。


 くそ、調子を狂わされた。露峰はうつむきながら、その原因ともなった浪川という名前に舌打ちしていたのだった。

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