孤影悄然(こえいしょうぜん) (2)

 浪川を呼びに行った熱田を待つ道場は、嫌な静けさに包まれていた。

 

 もしこの場で露峰が「帰る」と言って防具をまとめて部室に消えたとしても、他の三人は待ったをかけられない自信があった。それだけ俯いた露峰が纏う雰囲気には、ピリピリとした触れづらいものが漂っていたのだろう。


 しかし当の露峰は根が生えたように熱田と話していた場所から動こうとしなかった。うっすらと下唇を噛んでいるようだったが、それ以外には特に声を上げたり誰かを見るといったことはなかった。


 その側で立ち尽くしているのに耐えきれなくなった三人はそれぞれゆっくりと露峰から離れ、示し合わせたように三人で道場の角に集まっていた。


「ねえ、これってホントに試合することになるのかなあ」加藤が小声で呟く。

「そりゃあ―――熱田はそのつもりだろうよ」野上も小声で加藤に応じた。

「なら俺たちは準備でもしとくか、試合の。伏見ちゃん、前俺たちにしたみたいに準備頼める? 俺たちも手伝うからさ」

「は、はい、分かりました。じゃあ先輩達は―――ストップウォッチをお願いします。僕はタスキと旗持ってきますから」

「「ガッテン承知」」


 拳を握る先輩二人に合わせて、猫丸もその場からちゃかちゃかと音を立てずに動き出した。

 何かと理由を付けて動いていないとその場から弾かれてしまいそうだった三人は、加藤のおかげで理由を掲げて道場内に居場所を見つけることができたのだった。


 しかしそんな簡単な準備で稼げる時間など雀の涙程度のもので、結局すぐに三人は手持ち無沙汰になってしまったのだった。

 その中でも特に立場が悪化してしまったのは猫丸だった。


 まずいな、前試合したせいでタスキも旗も綺麗だ。これなら埃を払う必要も無いじゃんか――そういや先輩達はもう終わったのかな。

 猫丸が首を回した先には、既にストップウォッチを手にしてそれぞれの面の前に座りながら談笑している二人がいた。


「はえー、最近のはすごいのねえ。ここを押すと―――あら、時間が動き出したわ」加藤が謎のオネエ口調で野上にすり寄る。

「まったく、加藤さんはなにも知らないのね。ここを押すとその時々の時間が記録されるのよ。これをラップというの」

「あら、ラップ? あのすぐくしゃってなってイラッとする―――」

「それはサランラップね。もう、ボケが始まったのかしら」


 なにしてんだあの人達―――猫丸は先輩らの夫婦漫才ならぬおばさま漫才に対して眉間に皺を寄せていた。


「ねえ、伏見」

「うわお、な、なに―――?」猫丸は目をぱちくりさせながらふり返った。


 後ろから突然聞こえた自分の名前に、猫丸はその場で肩を上げてびくついた。

 先輩達が馬鹿をやっているのを見ていて完全に油断していた。まさか露峰君の方から話しかけてくるなんて。

 

 一方の露峰はどこか腑抜けた顔をしており、猫丸を少し首をかしげて見つめていた。


「熱田ってやつ、あいつも伏見と同じで剣道が好きなタチ?」

「え、ああ、うん。そうだね、彼はこの部活の中でも特に剣道が好きな人かな」猫丸はその疑問の意図が分からずに顔をしかめていた。

「やっぱりね。そんな感じしたよ」


 露峰はもどかしそうに鼻で笑うと、熱田を認めるように窓の外を見つめた。


「そりゃあ、あんな強さがあれば楽しいだろうね。苦労してきたこともなさそうな無邪気な剣道って感じだし、なによりあれは試合に勝てる強さだ」


 彼は一体なにを言っているんだろう。熱田君が羨ましいってこと―――なのかな? 猫丸は露峰の本意に気付かないまま、熱田の言っていたことを頭に浮かべた。


「そうだね、本当に強かったよ。でも彼だって、苦労してないことはないんじゃないかな。初めてあったとき、彼も剣道をやめたくなったことがあるって言ってたし。こんなしんどい武道、どれだけ好きでも苦労は絶えないと思うけどな」

「ふうん、彼でもそんなときがね。まあ誰にだって初心者の時はある訳だし、そういうこともあるか。それでも―――」


 露峰は猫丸を見つめながら、落ち着いた声で言い放った。


「彼が恵まれているってことに変わりはないよ。絶対に。それをこれからみせてあげるから、そのついでに俺の無様な姿も見ておいてよ。それで俺のことは綺麗さっぱり、諦めて」


 猫丸が返事を返せずに黙っていると、露峰の後ろではガラガラと重たい扉が開く音と共に、二人分の足音が道場に加わった。


 熱田は浪川よりも先行して道場内を闊歩し、まっすぐ自分の面が置いてあるところまで向かった。


「露峰、お前も面付けろよ」


 露峰に向かってそれだけ言うと、熱田は早速正座して手ぬぐいをはたき、その手ぬぐいを頭に巻き始めた。

 露峰はため息をついて猫丸の隣をすり抜けた。その顔はまるで戦地に赴く兵士のような面持ちだった。


 浪川は道場に入ったきり、床や壁、天井などを目で追いながらゆっくりと部員の元まで歩いていた。その姿は久々に田舎に帰省してきた都会の人間のようで、彼の目には懐かしさのようなものと同時に苦い思い出も浮かんでいるようにみえた。


「うおおお、あの時の!」

「イケメン眼鏡―――」


 テンションをそのままにその場で立ち上がる加藤の隣で、野上は口を開けて放心状態になっていた。

 それを見て浪川は数回瞬きをして、少し間を置いて「あぁ」と微笑んだ。


「久しぶりですね、問題児二人。私と最後に会った後も、ずっとここでコツコツ練習していたらしいじゃないですか」そう言って浪川は二人に元に歩み寄った。

「勿論ですよ、俺たち生活指導になんて負けないっす!」

「ははは、今のは別に褒めてないですけどね。でもその姿勢は素晴らしいものだと思いますよ、何事においても継続が命ですからね」


 拳を握り締める加藤を、浪川は表情を変えることなく冷静に対処していた。

 そのとき、野上は立ち上がって、浪川に向かって小さく頭を下げた。


「それよりも、顧問の件やら熱田とか伏見の件。何から何までありがとうございました。こうして剣道部員として部活に勤しめること、心から感謝してます」


 面食らっている浪川の隣で、加藤はぽかんと「え、なに。何のこと?」と二人を交互に目で追っていた。


「ああ、気付いてましたか。私もまだまだですね。いいんですよ、こちらとしてもメリットがあってしたことですから。

 それに、本番はこれからですよ。去年の一年間、こそこそと研いできた刃をようやく日の目に当てることができるんです。君たちは確かに去年の一年で信じられない成長を遂げました。今年は去年以上に大きく飛躍してくださいね」


 はい、そのたった一言が野上の口からは出てこなかった。今はとにかく、目頭が熱くなっているのを抑えるのに必死だった。

 自分たちの頑張りを見てくれていた人がいる。そしてそれを高く評価してくれる人がいる。この喜びは、なににも代えがたいものだった。


 うつむいて首を縦に振っていた野上を横目に、浪川は辺りを見回していた。


「さて、今日は特例として私が審判をすることになっているのですが―――旗はどちらに?」

「あ、旗はこれです。お願いします」猫丸は姿勢を低くして浪川に旗を届けた。

「ありがとうございます、伏見君―――様になってますね、胴着姿」

「いやそんな―――普通ですよ」


 目を背けていた猫丸を見て、浪川はふっと笑った。

 確かにこの部活は"良い"部活かもしれない。生徒同士の相性も良さそうだし、なによりそれぞれが剣道に対する飽くなき探究心を持っている。上達するのも早かろう。

 

 しかし露峰君。彼はどうだろうか。熱田君は彼も部員だと言い張っていたが、多分それは嘘だろう。この場で、明らかに彼だけが浮いている。

 その原因は―――これからみせて貰えるのだろうな。浪川は深呼吸と共に己の集中力を高めた。


 試合を控える二人はどちらも面を付け終わり、竹刀を帯刀した状態で立ち上がり、それぞれが肩を回したり構えを確認したりして身体を温めていた。


 先輩らが試合を観戦する三人の防具を下げたりして場所づくりをしている中、猫丸は二人の側に向かってタスキを付けていた。


「ありがとうな」


 そう一言添える熱田に対して、露峰は猫丸がタスキを付けている最中もただ前だけ向いてなにも口にしなかった。



 浪川がコートに入るのを確認した二人は、熱田が上座、露峰が下座といった具合でコートを挟んだ。きっと立ち位置を決めるときに露峰が「俺が下座でいいでしょ、部員じゃないんだし」とでも言ったんだろう。

 その光景が猫丸には容易に想像できた。


 猫丸と先輩らは三人並んで正座しており、コートの外から二人のことをまじまじと見つめていた。

 露峰の実力はまだ推し量れないが、三人とも先ほどの練習での露峰を見てから、この戦いがハイレベルなものになることはなんとなく分かっていた。


 一挙手一投足、どれも見逃してたまるものか。三人はこの戦いで得られるものに心を弾ませていた。


 浪川がストップウォッチを持っていた猫丸の方を振り向く。猫丸が頷くと、浪川はそれに頷きで応え、正面を向きながら熱田と露峰に入場を促した。


 熱田と露峰の礼式は、猫丸と熱田の時よりも更に洗練されたもののように感じられた。それはまるで何かの神事のようでもあり、剣道という武道の美しい部分を詰め合わせたような景色だった。


 しかしそんな二人の礼式にも多少個人差があり、熱田の威圧的な力強さに反して、露峰の礼式はどこまでもしなやかでどこか巫女を感じさせるような滑らかさを纏っていた。

 

 柔と剛、とはこの二人を言い表している言葉なのではないか、と思えるほどに、二人の空気は相反していた。

 竹刀を付き合わせて中央で蹲踞している二人の間には、どれほどの違いや差があるのだろうか。その竹刀と竹刀の間の数センチが縮まる瞬間を、観戦組は待ちに待っていた。


「試合―――初め!」


 浪川のハキハキとした声が道場内に響き渡ると、それと同時に立ち上がった熱田の咆哮が露峰に襲いかかった。しかし露峰は立ち上がっても特に何も動きを見せず、声出しも熱田に少し遅れる形で短く行われただけだった。


 熱田はいつも通り小刻みに前後に動いたり竹刀を震わせたりしており、いつでも攻撃の隙をうかがっているようだった。

 一方の露峰は、竹刀の動きも本人の動きも古時計の振り子のようであり、何かの催眠術なのではないかと思えるほどにゆったりとしたものだった。


 熱田がその露峰の動きに惑わされてか、試合は始まってからすぐにしばらくにらみ合いが続くことになった。

 観戦組も最初の一本が出ないことに違和感を覚えはじめ、猫丸はとうとうストップウォッチを確認して時間を確認してしまっていた。


「もう二十秒経ってる―――」


 猫丸がそう呟いたとき、試合はようやく動いた。何度か露峰の竹刀を払ったりしていた熱田がとうとう大きく竹刀を下から上に突き上げたのだった。


「オメエエン―――」


 そのままの勢いで竹刀は露峰の面をめがけて伸びていったが、竹刀の型が崩れていた露峰が半歩後ろに下がったことによりその面はあっけなく空振りに終わった。

 応じ技を恐れた熱田は声を途中で止めながらも、足は止めずに露峰にぶつかりにいった。

 

 二人は鍔迫り合いの間合いになり、熱田はすぐに次の展開を考えながらも足を使って自分の立ち位置を頻繁に変えていた。


「あのスピードの面を―――すごいな」


 猫丸は垣間見えた露峰の技量に舌を巻いていた。熱田の面、あれは僕も初見で受けられなかった高速の打突だ。それをあれだけの小さな動きで躱してみせるなんて―――まるで受けが最適化されてるみたいだ。


 そして困惑していたのは猫丸だけではなく、当の面を打った熱田も落ち着き払った相手に振り回されていた。鍔迫り合いをしながらも、露峰の物怖じしていない目を威圧を込めて睨み付ける。


 まだ一本だ、こいつの本領を知るためにはもっと打ち込む必要がある。

 熱田は全体重を使って露峰の姿勢を崩し、すぐに後ろに下がる体勢を整えた。

 露峰は熱田の攻撃に身体をのけぞらせながらも、竹刀はいつでも熱田の面を捉えられる位置に立てていた。


「メエエエエン!!」


 そんな状態で熱田が打った面が有効打突になるはずもなく、周りからは熱田はただ露峰から離れる為だけに面を打ったように映っていた。


 一連の攻防の間にも、露峰は一切自分から動くようなことはしなかった。

 熱田が引き面で離れた後も、露峰はただ構えを戻すだけで無理に熱田を追ったりしようとはしない。


「なんか―――静かだな、あいつ」加藤はきょとんとしながら言葉を漏らした。

「ああ、単に攻めないからとかじゃなくて、なんだかやる気がないみたいだ。やっぱり無理矢理試合させるのは良くなかったのかもな」


 野上の心配には猫丸も同意だったが、あれだけ構えがしっかりしている所を見ると、猫丸はどうも彼がこの試合にやる気がないだけだとは思えなかったのだった。


―――彼が恵まれているってことに変わりはないよ。絶対に。それをこれからみせてあげるから、そのついでに俺の無様な姿も見ておいてよ。


 猫丸の脳裏に露峰の言葉がよぎる。あれはどういう意味だったんだろう。

 無様な姿、というのは、ただ自分がやる気がない姿、という意味ではない気がする。まるで自分の力では彼に及ばないところを見ていてくれ、と言っているようで、それは自分が精一杯やるという一種の宣言に聞こえたのだ。


 猫丸は目を凝らした。僕は、僕だけは、彼の思いを受け取らなければならない。彼の戦いからそれを見極めろ。

 気付くと猫丸は歯を食いしばっており、ギリギリという音と共に頬を汗が伝っていた。


 熱田は二本目すらもまともに攻められずにいた。それは普段攻めっけに溢れた剣道をする人間にとってとてもストレスがかかる展開であり、現に熱田の剣道は若干の焦りを含んだ落ち着きのないものになっていた。


 構えが固い。まるで植物か何かを相手にしているみたいだ。

 それはひとえに構えがまっすぐというだけではなく、中心を取らせてくれない力強さがある。こんな細身なのに、どこにそんな力があるんだよ―――熱田は舌打ちしたくなっていた。


 構えが崩れないとなれば、こちらからアクションを加えて崩すしかない。熱田はその場で竹刀を払いながら足を地面に叩きつけた。所謂フェイントだ。

 

 露峰の竹刀は面を開ける形で少し弾かれたが、露峰は焦ることなく竹刀を中心に戻した。しかしそれを熱田が許してくれるはずもなく、熱田は中心に戻ろうとしていた竹刀を同じ方向に弾いて、次は小手を開ける形を作った。


「コテ―――」熱田の小手は弾き切れていない竹刀の鍔に当たる。しかし熱田の竹刀はそれだけでは止まらなかった。


「メエエエン!!」


 目にも留まらぬ速さで小手に続いた面は、露峰の面を捉えんとしていた。実際あの小手面を受けられる人間など、この場においては露峰くらいのものだったのだろう。

 熱田の小手面の完成度に感動していた三人を除いて、露峰だけはその打突に反応していたのだった。


「ドウゥッッ」


 熱田の面を竹刀で受けると、露峰はそのままの軌道で熱田の胴を捉えた。その打突は物打ちで打てているわけでもなく、距離が近くて抜けることもできずにいたことから一本になることはなかった。

 それでも、あの打ちに反応して面返し胴を打てたという事実は、その場にいた全員に衝撃を与えたのだった。


 急いで鍔迫り合いに持ち込んだ熱田によって、露峰は竹刀が下段にいるまま熱田と密着していた。

 露峰が竹刀を縦に戻している最中にも、熱田は露峰に対する印象を大きく塗り替えていた。


 こいつは多分、強い。しかもこの感じ、試合慣れしてやがる。

 相手が強かろうが弱かろうが、俺は態度ややる気を帰るつもりは一切ない。だが、こういう相手には初見殺しを警戒しなくちゃならないのも事実だ。

 

 熱田は今一度自分の立ち回りを見直していた。大きく息を吐き、全身の焦燥と動揺を鎮める。力強く握りしめている竹刀を一瞬全力で握り、その後で力を抜く。

 それだけで熱田のパフォーマンスは"いつも通り"を取り戻し始めていた。


「すんげえ、よく打ったよなーあれ。狙ってたんかな」

 加藤はそう言って猫丸の顔を覗いた。

「多分、狙ってたのは間違いないと思います。でもあんな形で攻めてくるとは初見では予想できなかっただろうし―――小手を打たれた後であの判断ができるのは訳分からないですね―――」

「でも伏見ちゃんも相手の打ちを予想してたりしてたじゃない。同じようなもんじゃないの?」


 猫丸は加藤の問いに小さく首を振り、ストップウォッチを見つめた。


「勿論、二分くらい竹刀を交えたら色々と見えてくることもあると思います。でも試合時間はまだ一分しか経ってませんし、この試合は睨み合いが多くて打突がほとんどありません。

 そんな中で相手の姿勢とかから打ちを予測するなんて、正直昔からその人を知っていた、とかじゃない限り考えられないと思います」


「まさかあの二人、幼少期はライバルだったとか―――? これもしかしてエモい展開?」

「それであの態度はねえだろ。真面目に試合見ろ」


 わたわたする加藤の頭を野上がはたき、加藤は「すいません」と一言添えて再び試合に目を向けた。

 

 二人は既に鍔迫り合いから離れており、今回はどちらかが何かの打突を重ねるでもなく、ただ二人で竹刀を合わせながら距離をとっただけだった。


 それからも試合展開は大きく動くことはなかった。

 熱田が技ありの打突を露峰に浴びせる度、露峰はそれを最低限の動きで避けたり時々応じ技を重ねる、といった程度で、どちらも有効打突を生み出すことはできずにいた。


 試合時間にして一分半。あの面返し胴から三十秒とちょっとが経ち、熱田が四、五本露峰に打突を浴びせた位のタイミングで、試合は動いた。


「やめっ」


 浪川が旗を持った両手をあげ、試合の中止を宣告した。

 露峰と熱田は浪川に従い、元の立ち位置へと戻る。

 

 そして浪川は向かって熱田側の左手に旗をまとめ、露峰に向かって指を立てた。


「時間空費。反則、一回」


 浪川はそう言うと再び旗を両手に持ち、赤色の旗を斜め下に降ろした。


 その宣告は加藤や野上にとっては思いがけないものだったが、それ以外の三人にとってはある意味納得できるものだった。そしてそれは露峰も例外ではなく、なんなら誰よりもその結果を受け入れているようだった。


 露峰は竹刀を下段に構えて浪川に向かって頭を小さく下げ、再び熱田に竹刀を構えた。


「はじめっ!」


 何事もなかったかのように二人は互いに声を上げていたが、加藤と野上はまだその結果が不完全燃焼なようだった。


「ちょいちょい、反則ってまずいんじゃねえの」加藤はなにも分からずあたふたしている。

「それよりも、なんで今反則取られたんだ? しかも時間空費ってなんだ」


 野上の疑問はもっともだった。この反則をこのタイミングで取るということ、それは剣道の経験者でも若干の違和感があることでもあったからだ。


「時間空費っていうのは"故意に時間を使うこと"に対する反則です。つまりこれは、露峰君が攻める意思をみせないということを浪川先生が問題視した、ということなんです」

「ええ、そんな反則あったのか。でもなんで今更?」野上は未だに首をかしげている。


「それは僕も分かりません。僕にとってこの反則は団体戦で勝っているとき、とか、個人戦でも自分が一本取っているとき、とかによく取られる印象なんですよね。でも今は別に露峰君が勝っているわけでも、時間を使って露峰君にメリットがある訳でもないだろうし―――うーん」


 猫丸は浪川の方を見上げていた。彼は一体、なにを考えているのだろうか。

 そしてこの浪川の判断に、一切疑問を持とうともしなかった露峰にも違和感が残る。こんな宣告をされたら、誰だって少しは不服そうな振る舞いをみせるものだ。


 猫丸が頭を捻っている間にも、露峰と熱田の戦いは続いている。

 あの宣告が成された後でも、露峰の立ち回りは依然として落ち着き払っており、その姿と雰囲気はまるで大木のようだった。

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