孤影悄然(こえいしょうぜん) (3)
「反則、一回」
浪川に反則をもらった後でも、露峰の立ち回りは依然として落ち着き払っており、その姿と雰囲気はまるで大木のようだった。
「にしても攻めねえな、露峰のやつ―――反則もらったんだし、攻めなきゃまずいんじゃねえの」加藤は自分のことのように焦って、思わず前のめりになっていた。
「もう一回反則取られたら一本になっちゃうもんな。あいつ一体何考えてるんだ―――?」野上が首をかしげながら呟く。
猫丸は加藤の隣で神妙な顔つきのまま試合を見つめていた。
確かに―――彼は何がしたいんだろう。猫丸はもどかしくなっていた。
しかし目の前の露峰は依然として、自分のスタンスを崩そうとしない。
その姿を見て、猫丸は先輩二人に向かって小さく口を開いた。
「彼の狙いは分かりませんが、この反則の本当に怖いところは、反則二回で一本取られるところじゃないんです」
「ええ、どゆこと? 追加効果でもあんの?」加藤は顔を引きつらせていた。
「いえ、そういうことではなく。シンプルに、審判の心象が悪くなるんですよ。攻める気がないような剣道を見ると、大体の審判はその選手に対して悪い印象を抱いちゃうんです」
加藤は「ええ、可哀想だなぁそれ。陰湿~」とぼやいていたが、野上がため息をついて加藤に補足を加えた。
「問題はそこじゃないだろ。審判の心象が悪くなるってことは、そいつの一本が入りづらくなるってことだ。これは試合において、とんでもないデバフだろ。
それに、今の露峰は良くても、試合で勝ってるときに守りのみの立ち回りされたら、俺たちでも不愉快になるだろ」
「はあ―――でもそんなことあっていいのかよ? 試合ってのは公正なものだろぉ?」
加藤は試合慣れしていない。彼の試合に対する偏見は、理想的なものへと曲がっていたようだった。
それを訂正するのも心が痛んだが、猫丸は今後のためにも心を鬼にして加藤に一般的な剣道のセオリーを伝えることにした。
「勿論、加藤先輩が言うような"公正"が望ましい形なのは間違いないです。でも、審判も人間です。その試合の雰囲気だったり、選手の積極性などで無意識に心が傾くことだってあるんです」
「そういう―――もんなのかぁ」
加藤はあからさまに肩を落としていた。
猫丸は心の中で『でも加藤先輩のスタイルならこんな反則取られることなんて絶対ないだろうし、大丈夫だと思うけどな』と呟いていたが、きっと加藤先輩の問題はそこじゃないのだろう。
猫丸はふと試合に視線を戻した。
あの反則が取られた以上、すぐに二個目の反則が取られるようなことはないだろう。でもこの状態が続けば、露峰君に二度目の反則が告げられるのも時間の問題だ。
猫丸の心配も余所に、露峰はコートの中で堂々と熱田の打突を待っていた。
露峰は冷静に分析を続ける。
熱田はこちらを睨み付け、次の打突の作戦を練っているようだった。竹刀を揺らし、小刻みに足を動かし続けてタイミングを図っている。
「ッ―――メエエエン!! コテッ、メエエエン!!」
熱田は少しも動かない竹刀を強引に突破し、どうにかして露峰の有効打突部位に竹刀の物打ちを届かせようとしていた。
しかしいつでも受ける準備が万端の露峰は、いとも簡単に熱田の打突を受け切り、鍔迫り合いになっても息一つ切らさず熱田と対峙している。
くそ―――どこまでもそのスタイルは変えないつもりか―――!
熱田は自分の中に生まれ始めていた焦燥を無視できずにいた。
あれ―――? 猫丸は先ほどから度々見られる熱田の打突を目にして、自分の中である違和感が形となった気がした。
なんか、熱田君の打突が中途半端になってきてる―――あんな打突をするような人じゃないのに、一方的に攻めてるから疲れたのかな?
いやでも試合ペースが速いわけでもないし、熱田君自体スタミナがないタイプではないはず。
どうしたんだろう―――?
怪訝な表情を浮かべていた猫丸にすぐさま気付いた加藤は、猫丸の目の良さを思い出していた。
こいつがこんな顔をしているってことは、きっと今、このコートで何か変化が起きたに違いない。
「どしたよ、伏見ちゃん。顔怖いぜ」
「ああ、いや。熱田君の打突が気になって―――」
加藤と野上に事情を説明すると、二人は驚嘆を隠せないまま、熱田の打突に目を向けた。
確かに―――言われてみればそうかも? 二人からしたらそれくらいの違いだったが、実際有効打が生まれそうな雰囲気は先ほどよりも失っている気がした。
「でもさ、考えてもみたら熱田の立場も結構しんどいよな。この場面」
「そうですか? 確かに受け続けられるのはしんどいですけど―――」
猫丸は熱田ほどの実力者が、立ち回りを悩む理由が分からずにいた。
「だってよ、今この場ではあの反則が取られたんだぜ? あれを目の前で見れば、誰でも"自分は取られたくない"って思うだろ。それなのに相手は変わらずほとんど攻めてこない。そんな奴に対して、自分は攻めなきゃいけないという意識が強くなる。
そりゃあ、焦って攻めの手が崩れるのも分かる気がするけどな」
猫丸は目を見張っていた。野上先輩の言う通りかもしれない。だとしたら、これは露峰君の作戦?
長年剣道に触れてきて、初めて見る。こんな戦い方があったのか。
いやでも、例えそうだとして。こんなの―――ただの運ゲーだ。
だって、審判が浪川先生じゃなかったら、とっくに二回反則が取られている可能性だってあるんだから。
それに第一、反則前提の作戦なんて諸刃の剣すぎる。メリットの方が少ないはずだ。
頭が煮詰まってきているのに気付いた猫丸は慌てて首を振り、露峰を視界に入れ、目を凝らした。
考えるのは一旦終わりにして―――今はただ、彼を見よう。
ヒリつく視線を受けながらも、露峰は自分のペースを崩そうとはしなかった。
露峰は目の前で段々と調子を崩していく熱田に対して、目を細めて疑いの眼差しを向けていた。
なんだ―――思ったより崩れるな。露峰は驚いていた。
練習での打突を見たとき、俺は確信した。この熱田という男、打突だけでいえば全国レベルと言っていい。
基本打ち、応じ技、残心に抜けるスピード。どれも一級品だ。
そんなだから、どうせ試合になってもどこまでも強いだけの男かと思っていた。それがどうした、こちらが少し応じ技をちらつかせただけで足が止まるのか?
ここまでの奴はいなくても、多少受けの剣道をする奴はそこら中にいるでしょ。こんな奴を前にしただけで、君は普段通りの力が出せなくなるのか?
露峰はしばらく考えてから、はっと目を見開いた。
そうか、こいつ。何かあるな。いや、何か"あった"という方が正確か。
露峰は熱田に呆れると、大きくため息をついた。
勝手に潰れたのは君だ。恨むなよ。
「メエエエン―――!」
その時熱田から打ち込まれた面は、それまでの中で一番形が崩れていた。
―――腰が引けてるよ、剣道馬鹿。
露峰は無慈悲にもその面を竹刀で軽く受け、持ち前の手首の柔らかさで鋭いスピードを持った竹刀を熱田の胴に届かせた。
「ドウゥゥゥゥゥ!!!」
その面返し胴の打突は剣道の教科書に載せても良いほど完璧で素早く、熱田は上がりきった腕を下ろすのに少し時間を要してしまった。
クソ、しまった―――!
急いで腕を下げるが、既に露峰の竹刀は熱田の胴とは遠く離れた所で残心を取っていた。
それまで動きが少なかったのが嘘かのようなコンパクトな残心は、あっという間に露峰と熱田の間に距離を作り、それはそれから数秒の時間が露峰の残心の為の時間のようにさせたのだった。
上手い―――これは普通なら文句なしの胴ありだ。でも今露峰君はあの反則を取られてる。
猫丸は急いで顔を上げて、浪川の方を見た。
浪川は残心を最後まで見終わるまでもなく、大きく右手を天に掲げていた。その旗は真っ赤に染まっており、ゆらめく姿が赤色のタスキを付けた選手を賞賛しているようだった。
「胴あり!」
観戦していた三人は、その時改めて浪川という人間を思い出した。
「そりゃあそうか。あの人は偏見を混ぜて試合を見るような人じゃない。少し考えれば、分かることだったな」
野上がそう言うと同時に、熱田と露峰の二人はコートの中心に集まった。
熱田はどこか頭が下がっているようだったが、露峰は変わらずだった。
三人が固唾を呑んでいると、浪川はまっすぐ二人をみながら試合の再開を告げた。
「二本目―――はじめ!!」
試合が始まると同時に、熱田がちゃかちゃかと足を動かし始めた。
まずい、やらかした。こいつを相手にしてから、ずっと危惧していたことが起きちまった。
やっぱりまだ―――ダメなのか。
熱田は露峰の竹刀を左右に払う。ものともせずすぐ定位置に戻してくる露峰の竹刀に、熱田は心から苛立っていた。
「伏見、時間は」野上が慌てた様子で問いかける。
「えっと―――約三分十五秒です。高校生は試合時間四分だから、あと四十五秒ですね」
猫丸の言葉を受けて、三人はバッと試合中の二人に目を向けた。
嘘だろ、もうそんなに時間経ってたのか。三人はスローペースの試合展開に驚きを隠せずにいた。
露峰は一本決めたからといって何が変わるというわけでもなく、引き続き受け中心の剣道をやめようとしなかった。
自分からはほとんど打とうとしない。でもそっちから打ってくるのなら、こっちだって返すかもしれない。
その姿勢は剣道においてはデメリットだらけであっても、相対するとあの熱田でさえ一筋縄ではいかないのだった。
こいつのテンポに合わせてるせいで、今どれくらい時間が経っているのかが分からない。焦らない方がいいのは分かってるが、こんな試合は物珍しいこともあって色々と感覚が狂う。
だが一本取り返さなくちゃならないのに変わりはない。どう仕掛ける、簡単な攻めじゃこの牙城は崩せねえぞ。
熱田はその後も露峰という名の鉄壁に懸命に食らいつき、時たま鍔迫り合いからの押し合いで露峰の体幹を崩したりしていた。
しかしそれだけでは中々一本には繋がらず、露峰もすぐに体勢を整えて守りを固めてしまう。
この―――こんなのどうやって切り込めばいいんだよ―――
熱田はダムの水をお玉で掬っているような気分になっていた。どれだけやっても、少しも自分の形勢が良い方向に傾く想像ができない。
そんな熱田を前にして、猫丸は再びストップウォッチを確認した。
三分四十五秒。あと十五秒だ。
残り時間が短くなっているのを感じ取り、野上と加藤の試合を見る目も更に熱くなっていた。
あれだけの強者が窮地に立たされている、それがなんとも嫌な好奇心をかき立てるのだった。
熱田は未だに攻めあぐねている。それは時間が迫れば尚更だった。
熱田が焦れば一層、露峰は熱田の足を掬いやすくなる。より一層、熱田の打突を待つようになる。
残り時間というシステムは、その時点で負けている選手にとって首を絞めるものでしかなかった。
あと十秒。九、八、七、六―――猫丸が声を上げる準備をしている中、試合は思っていたよりも早く止められた。
「やめ!」
猫丸の時間を知らせる声よりも前にかけられた止めに対して熱田は動揺していた。
なんだ、まさか―――
露峰はその結果が分かっていたようにさらっと定位置に戻る。熱田はその姿と斜め下に下ろされた旗を見て、歯を食いしばっていた。
「時間空費。反則二回」
再び指を立てられる露峰は、先ほど同様浪川に対して小さく頭を下げた。
そして斜め下に下ろされていた旗の代わりに、白い旗が真上に上げられる。
「一本」
嬉しくもなんともない一本の知らせが、その場に響き渡る。
「勝負!」
浪川がそう告げると、二人は何かを悟ったようにその場で思い切り地面を蹴った。
これが、最後の一本だ。ここで勝った奴が、この試合の勝者だ。
熱田は何を打つかを直感的に判断し、恐れもためらいも全て忘れて手を伸ばした。速さでは負けないはず、それだけの自信を元に打ち込んだ。
しかしそれはすぐに力を失うことになる。それは他でもない、露峰の打突が目に入ったからだった。
露峰の打突はゆったりとした面打ちで、竹刀を一度立ててから打突に入る基本中の基本といった打突だった。
熱田、君はこの部活で一番強い選手だ。この部活にとっての、光なんだ。
そんな選手が、こんな訳の分からない奴にやられるなんてことがあってはいけないんだよ。分かるだろ―――?
俺はたとえ自分に関係ない部活だからって、これ以上部活を壊したくないんだ。
俺のせいで一つの部活動が成り立たなくなる。そんなの、もうごめんだ。
一瞬瞼に写った中学校時代を目を閉じて払うと、露峰は再び目に映った光景に声を失った。
「―――くっ!」熱田は途中まで打とうとしていた打突をやめたせいで、勢い余った竹刀に振り回されたように露峰に突撃しそうになっていた。
「―――!?」
竹刀同士が激しくぶつかりあい、それに付随するように二人の身体にも強い衝撃が走った。
熱田は全力でブレーキをかけようとしたが間に合わず、ぶつかるときには露峰は大きく身体のバランスを崩して地面に横たわっていた。
浪川はそれを見て止めをかけようとしていたが、丁度そのタイミングで後ろからかけられた声に首を回した。
「あの―――時間です」猫丸はタイミングを間違えた口を抑えていた。
浪川は猫丸に向かって頷くと、二人に向かって止めをかけた。
「止め!」
熱田は目の前で立ち上がろうとしている露峰を一瞬見ると、すぐに踵を返して定位置に戻っていった。
露峰もそれを追うように重たい身体を持ち上げて、ふらふらと自分の場所に戻る。
「大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
浪川と露峰の間でそんな会話が成されている頃、観戦組の三人の間でも小さく声が上がっていた。
それは二人が衝突したときに誰よりも顔を青白くしていた野上だった。
「なあ、これってどうなるんだ」
「この後の試合の流れ、ってことですか」猫丸が聞くと、野上は無言で頷いた。
「そうですね、一回試合を再開させて、すぐに試合を止めるって感じだと思います」
「なるほどね、あくまで今の止めは"倒れたことに対する止め"ってことか」
加藤がそう言うと、次は猫丸が無言で頷いた。
それを再現するかのように、浪川は流れるように試合を再開し、すぐに止めた。
「初め―――止め!」その間はほんの数秒だった。
二人がその場で構えると、浪川は旗を右手にまとめて肩の力を抜いた。
「さあ、引き分けという形になりましたが、延長はどうしますか。引き続き四分で良いですか」
その目線は熱田に向けられていた。
「えっ―――と」熱田は息を整えながら、浪川の本意を探っていた。
「単に、延長をするのか、するなら時間はどうするのかを聞いているだけですよ。本来の試合なら、一般的にはこのまま四分継続という形ですが、これはあくまで部内試合です。試合を申し込んだ熱田君が決めてください」
そういうと浪川は手を広げ、露峰の方へと手を向けた。
「勿論、露峰君と話し合ってでもいいですが。私はどちらでもいいですよ」
露峰は浪川に目を向けられても、まっすぐ正面を向いたまま動こうとしなかった。
その姿は"俺はどっちでもいいから、そっちで勝手にしてくれ"と言っているようなものだった。
熱田は一息置くと、そのまま浪川に小さくお辞儀した。
「延長四分、お願いします。それで決着がつかなかったら、それで終わりでいいです」
それを聞くと、そういうおもちゃのように露峰も無機質に小さく頭を下げた。
浪川は「ふむ」とだけ言うと、再び旗を両手で持って正面を向いた。
「分かりました―――では」
その言葉を合図に、二人は再び剣を交える。
猫丸は慌てて再びタイマーを四分に設定した。
「延長―――はじめ!」
二人は足を動かすと同時に、力一杯吠えた。
ここからの四分。露峰の反則も、熱田への一本も全てリセットされた、正真正銘の振り出しに戻った再試合。
力強く立ちはだかる熱田を前に、露峰は力なく息を漏らしていた。
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