春日遅々(しゅんじつちち) (3)
「担任。どこ行ったか分かるか」
猫丸の真上でそう尋ねた彼の表情は、いかにも敵を威圧せんとするものだった。それでも彼の語気から察するに、どうやら怒りの要素はそこまで含まれていないらしい。
「いや、先生はもう出て行っちゃってて―――職員室か次の授業の教室、だと思うんだけど―――」
猫丸が冷や汗とともに頬を引きつらせながらそう答えると、彼は眼力を少し弱め、「チッ、そうか」と一言吐き捨てて、僕らの教室に興味を失ったように踵を返して教室から出て行った。
猫丸を含め、その場にいた全員が目を丸くし、身体を動かせないでいた。
その後サッカー軍団は力を失ったように解散し、無事猫丸のサッカー部デビューは見送られることとなったのだった。
「はあ―――」黒板を見ているようにみえる猫丸の目は虚ろで、口からは大きなため息が漏れていた。
猫丸は午前の授業中、彼のことばかりを考えてしまって、オリエンテーションに集中できずにいた。
まだこれは猫丸の勘でしかないが、きっと彼は剣道をやっていただろう人物で、あの身体を見る感じ、つい最近まで剣道という武道に励んでいたと思われる。
つまり、猫丸のように途中で剣道から離れず、未だに剣道を愛していて剣道と真摯に向き合っている人物なわけだ。
だからこそ、猫丸が剣道のことを小馬鹿にしていた、という事実はないにしても、それを勘違いさせてしまっていることすら、猫丸は申し訳なく感じていたのだ。
しかも彼の気迫に気圧されてその事実の訂正もできていないのだから、これ以上惨めなこともない。
ああ、もうホント僕は何してるんだろう―――
猫丸は頭を抱えながら考えていた。そうだ、やっぱり謝ろう。誤解だとしても、あれだけ真摯に剣道に向き合っている人に、失礼なことをしてしまったことに変わりはないんだ。
よし、と気合いを入れて心臓を大きく叩くと、その奇行と物音に教室全体が猫丸の方をふり返った。
「お、なんだ君やる気満々だな。君は―――伏見、か。こりゃあ皆、伏見の最初の中間の点数が楽しみだな」
「い、いやそんな、別にそういうわけでは」
猫丸は二日連続で恥をかく羽目になってしまった。昨日と違うのは、教室全体が笑いで満ちていることくらいだった。
そもそも彼は一体どこのクラスなんだろう。他のクラスに自分から出向くとかは嫌だなあ―――
そんなことを考えながら、猫丸は母に持たせて貰った弁当を食べていた。当然のごとく猫丸は一人での昼食だったので、猫丸はこの教室内の誰よりも弁当をしっかり味わっている自信があった。
今日は特にこの鶏肉が美味い。それに冷めても味が変わらないこの野菜たち。特にブロッコリーなんて―――
はっと気付き、猫丸は頭を振った。
違う違う、今朝の彼の件だ。彼はきっと同じ学年だ。朝礼が終わってすぐ、猫丸の教室に訪問できる。それは多分クラスがそう遠くないからできたことだろう。
いや、それ以前に彼は先生を探していたはず。ならきっと近い未来、もう一度僕のクラスに来るのでは。そう猫丸が思った瞬間だった。
―――ガラガラガラ―――ダン!
大きな音を立てて後ろの扉が開いた。そこには朝の彼が立っていた。
その音にびっくりしたドア近くの女子に対して、彼が「あ、すまん、悪かった」と軽く謝っている。
朝に猫丸と一緒に彼にびびっていた数人は、あからさまに「げっ」という顔をしていた。
そして彼は教壇を見て先生がいないのを確認して、わかりやすく顔をゆがめた。その後でそれまたわかりやすく舌打ちすると、またもやすぐ教室を出て行った。
「なんなんだあいつ―――」と数人が呟いている中、猫丸は箸を置いて彼の背中を追っていた。それを見てまた何人かが驚いた顔で猫丸を見ていたが、猫丸はそんなことを一切気にせず、まっすぐ彼の後を追っていった。
猫丸が廊下に出ると、彼は既に二組を通り越して一組の前に着こうとしているところだった。仮に彼が一組だったとして、今すぐ声をかけないと自分が他の教室に入って彼を呼び出さなくてはならなくなる。それは嫌だ。けれどあんな感じで教室を出てきてしまっているせいで今すぐ教室に戻るのも気が引ける。
今、ここで、彼を呼び止めるしかない。猫丸は決心した。
「ねえ、そこの―――ええと、筋肉高身長くん!」猫丸の大声が廊下中に響き渡る。
まさか俺のことか―――? とも言いたげな彼が、ゆっくりと猫丸にふり返った。
周りの生徒たちは皆口元に手を押さえるか、複雑な表情をすることで笑いを堪えていた。
猫丸が事態の重さに気付いたのは、その瞬間だった。
猫丸の表情が歪むのと同じくして、彼の目が一層険しくなってゆく。どことなく顔も赤くなっていたが―――あれは恥ずかしさだけではなく怒りも含まれているということを背中から溢れる炎が物語っていた。
「てめえ―――なぁんのつもりだあァ!」
猫丸は襟をつかまれた状態で、人がいない空間に連れ込まれていた。ここはいわゆる棟と棟の間のような場所で、生徒が上履きで歩けるところと草の生えた地面がどちらも存在している空間だった。
彼は全力疾走でここまで走ってきたこともあって、息を切らして疲労に顔を歪めていた。
その空間に着いた途端、彼は猫丸をライオンの子どものように放った。
「んでてめぇ―――一体全体―――何の恨みがあって―――あんなことしやがったんだ―――お前朝の奴だろ、俺お前になんかしたか?」
「いや―――それに関しては本当に申し訳なく思ってて―――」
「あァ?」猫丸が目を逸らしながら早口で答えると再び彼の目がギラリと光った。
「だって名前! 知らなかったんだもん! それに焦ってたから!」
猫丸が覚悟を決めて目をつむってそう答えると、彼は深呼吸をして再び猫丸の方を向いた。
「
そう言う彼の目はどこか呆れているようだった。
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
「教えたんだから次からぜってえ名前で呼べよ」
「ははは、すいません―――」そう言いながら猫丸は苦笑いを浮かべていた。
「んで? 何にそんな焦ってたんだよ。なんか急いでたのか」
熱田は落ち着いた口調に戻っていた。今の熱田を見ると、やはりこの目つきの悪さは通常時からなのだと猫丸は理解した。
「いや―――急いでたというわけでもないんだけど―――」
猫丸は熱田を追いかけていた理由と、謝りたかったという旨をできる限り簡潔に、それでいて当たり障りがないように身振り手振りも交えながら説明した。
「なんだ、そんなことか。分かってたよ、お前が剣道を馬鹿にしてねえってことくらい」熱田は腕を組みながら優しく告げた。
「なんだ―――そっか。それなら良かった、本当に」
「だからその後お前に先生がどこにいるか聞いたんだろ。そんな勘違いしてたらまず話しかけてねえよ。気分悪いしな」
心からほっとしている猫丸を見て、熱田はなお一層不思議な顔をした。
「第一なんでそんなに必死なんだよ。俺なんていっても赤の他人だろ? まあ誰かの好きなものを汚しちまった、ってので申し訳なくなるのは分かるけどさ、そこまででもないだろ」
ずっとまっすぐ相手の顔を見られていなかった猫丸が、この時だけ眉をしかめて尋ねる熱田の顔をはっきりと見て答えた。
「僕も、好きだから。剣道」
猫丸の目は奥までどこまでも透き通っていた。さっきまで弱々しい小動物のように見ていた相手から向けられたその視線に、熱田は少し驚いていた。
「そうか。ならお前も剣道部だな」熱田の言葉に、猫丸はすこしびくついた。それを見て熱田も「なんだよ」と怪訝そうな顔をしている。
「いや、高校では剣道部に入るつもりは無くて―――ほら、それにここ、部活入るの強制じゃないじゃんか。だから僕は遠慮しとこうかなーなんて」
「なんでだよ」ノータイムで返される言葉に、猫丸は「え?」としか返答ができなかった。熱田の表情はまっすぐで、心の底から不思議そうな顔をしている。
「だって、僕は一回剣道から離れたわけだしさ。その時は確かに剣道が嫌いになったんだ。そんな奴が、今更部活だなんて剣道に申し訳ないじゃんか」
猫丸は作り笑顔を浮かべながらそう答えた。
そうだ。僕は一度剣道を裏切った身。とっくに剣道の神様に見放されている人間なんだ。
「剣道に感情やら人格やらはねえぞ。だから申し訳なさなんて感じる必要はない」
自分に言い聞かせていた猫丸にぶつけられたのは、熱田から告げられた冷静な正論だった。猫丸は自分の心が大きく動いた気がした。
熱田は、大きく息を吐いた。
「自分が好きでやってることだって、一回や二回嫌になることくらいざらにあるだろ。そんで距離を置くことだってあるあるだ。俺だってこんな痛くて暑くて辛い武道、何度か嫌になってるさ。
そりゃずっと一つのことを好きで居続けられたらすげえだろうさ。でもそんな奴、成長してるって言えるのかね。成長するってなったら痛みやら辛さやらが伴うだろ? それが無くてずっと楽しいだけ、好きなだけ、ってのは、成長してないっていってるようなもんだと思うがな。
まあ何が言いたいかっていうとだな、ここで剣道に申し訳ないからって完全に距離を取るのはなんか違うんじゃねえかなってことだ。今剣道が好きならそれでいいじゃねえのよ。大事なのは今の気持ち、だろ」
成長、か。猫丸は考えていた。
数年前の自分は、とにかく焦っていた。上手くなりたい。どこが悪いのかも自分で見れば分かる。けれどなぜかそれを直すとなると上手くできない。それなのにダメなところは無限に湧いて出る。
それが辛くて周りに頼ろうとしても、周りで自分ほど本気で剣道と向き合っている人はいなかった。
何を聞いても「適当だよ、適当」といなされてしまう。そんな部員と距離ができるのに、そんなに時間はかからなかった。
自分はこんなに考えて、こんなに練習しているのにできないことが、彼らはできていたりする。しかもいつも駄弁ってばかりの彼らが。悔しくて、そんな自分のことも嫌いになって。
総合的に強かったりしたのは自分だっただろうに、一つや二つ相手の方が上回っていることがあるだけで、当時の猫丸は耐えられなかった。
そうして、好きだから上手くなりたかったはずの剣道を、自分から嫌いになって部活にも出なくなってしまったのだった。
猫丸は熱田を見上げた。彼は、本気で剣道と向き合う人なんだ。そして、彼は絶対的な強者でもあるだろう。
彼と一緒なら、もう一度自分のやりたいことができるかもしれない。楽しみながら、それでいて苦しいことや辛いことも乗り越えられる剣道ができるかもしれない。
猫丸は自分で自分の頬を叩いた。これは猫丸が自分に対して活を入れるルーティンのようなものだった。熱田は変人をみるような目で猫丸を見つめている。
「ありがとう、そうだよね。そういうことなら、僕もう一度やりたいかも―――」
その瞬間、猫丸は頬に受けた衝撃であることを思い出した。初日に行われていた部活勧誘、そこに名前のなかった剣道部の名前。
「ってあれ、そういえば剣道部に入る云々以前にさ―――どのみち剣道部無いよね? この学校」
そう猫丸が聞くと、熱田はニヤリと笑った。
「ああ、そのことで俺はお前んとこの担任を探してたんだ。お前もう剣道部入るだろ? なら協力して貰うぜ」
猫丸は目をぱちくりさせていた。まさか、彼は。
「俺たちで剣道部を作るんだよ。まずはそっからだ」
自信満々の熱田に反して、猫丸はとにかく絶句することしかできなかった。
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