春日遅々(しゅんじつちち) (2)

「ごめん、僕昨日風邪拾ってきたみたい。ほら、沢山人がいたからさ、春先ってのもあって」

「あら、大変。熱は? 喉の痛みは? 貴方の熱はどこから?」


 新学期二日目の朝は、何処かで聞いたような会話から始まった。猫丸はわざとらしく顔まで布団を被り、時々咳き込んだりしてみせた。


「母さん、勘弁してくれよ。毎年クラス替えやら学校が変わるたんびにこの調子だろ? 昨日高校デビュー失敗したのがその証拠だ」

 

 今日は猫丸の起床が遅かったこともあり、父は既にスーツを身につけようとしているところだった。慣れたようなあきれ顔で二人を見つめている。

 その起床時間の遅れも、風邪を引いたという嘘の信憑性を高めるために猫丸が考えた秘策だったが、父にはバレバレらしかった。


「もう、猫丸。嘘はダメだっていつも言ってるでしょう。お母さん、絶対騙されちゃうんだから」

「そこはもう少し疑うことを知ってくれよ母さん…」


 父の流れるようなツッコミも、休みが無くなった猫丸にとっては笑えるものではなかった。先日同様、猫丸は大きくため息をついて布団から出た。


 猫丸は地面に足を着いた瞬間、ふと部屋の端で陽光に照らされている剣道の用具一式と目が合った。防具袋の中心にある"伏見"の文字が、綺麗な金色の糸で刺繍されている。

 

 思い返してみると、昨日の自己紹介では過去に剣道をやっていた、という内容が猫丸の口以外から出ることはなかった。

 剣道はそんなにも競技人口が減ってしまったのだろうか。唐突にそんなことを頭に浮かべると、なんだか目の前の防具達が可哀想に見えてきた。


 剣術がカッコいい漫画やアニメなどが流行ると、皆一瞬剣道に興味を持ったりする、という話を聞いたことがある。その調子でどんどん広まればいいのに、もっと競技人口が増えれば良いのに―――そう思った瞬間、猫丸は自分の胸が痛んだ気がした。


 そうだ、僕もそんな剣道から身を引いた人間のうちの一人じゃないか、と。


 目を覚ますのと気分を変えるために、猫丸は自分の頬を両手で叩いた。その音は意外にも家中に響き、心配した母が猛ダッシュで部屋に駆けつけてくる騒ぎとなった。


     


 二日目にして、学校は非常に賑わっていた。


 猫丸にとっては憂鬱な日でも、常に交流を広げたいような人間達からすると、今の時期はさながら戦争なのだろう。

 通学の時から通学路でちらほら会話が聞こえており、なんだか嫌な予感はしていたが―――猫丸が教室の扉を開けると、そこにはいくつかの人の集団ができていた。


 やはり昨日はなんとしてでも学校に残るべきだったろうか、いやいや、あんな状況で一人残っている方が生き地獄だ。


 葛藤の渦に飲まれながら自分の席へと向かうと、僕の机に知らないバッグが置かれていた。黒いリュックで、中にはそんなに荷物が入っているようには見えなかった。


「あ、悪いね」


 視界の端から声が聞こえた。彼は―――だめだ、名前が出てこない。猫丸は昨日自分の自己紹介に失敗したショックでしばらく内容が頭に入っていなかったのを思い出した。


「俺の席端っこでさ、来て早々こいつと話してたせいでバッグ置きに行けてなかったんだわ、朝礼始まるまでこれ置かせてよ」


 彼はまるでその行為が当たり前であるかのように猫丸に言い放った。

 思うところはあるが、彼はもう目的の友達との会話を再開してしまっている。


 猫丸は自分のリュックを地面に置き、そこから一限の用意を取りだして引き出しにしまった。

 

「ホームルーム、始めますよ。各自自分の席に戻ってください」


 前の扉から入ってきた浪川の一声を合図に、クラスメイト達は蜘蛛の子を散らす勢いで自分の席へと向かった。猫丸の周りを「またな」という声が覆った。

 猫丸は引き出しにしまっていた一限の用意を机の上に出した。その行為に特に意味はなかったが、身体が勝手に動いた結果だった。


 同時に猫丸はホームルームギリギリに来た自分を褒めていた。


「ホームルームといっても、特に改まった告知などはないんですけどね。皆さんきちんと時間通りに集まっていて良かった、くらいです」


 浪川先生は周囲を見渡しながらそう告げた。

 一年三組と書かれたファイルを開き、何か書き込むと再びこちらを向いた。


「一限は―――数学ですね。これが入学してから初めての授業です。ここから、高校生活が始まります。勉強を頑張るも、部活を頑張るも、係や生徒会を頑張るも。友情や恋愛などの青春もいいですね。どれも素敵だと思います。


 とにかく、友情や青春たっぷりの高校生活全てが、今から始まるんです。先に警告しておきますが、皆さん、将来大人になったらこれからの時期をふり返り、必ず何かで後悔します。私もそうです。


 私は、その後悔が少しでも少なくなることを祈っています」


 先生はにっこり笑うと、では、とまっすぐ扉へと向かい、消えていった。

 教室内の時間が一瞬止まったかのように思われたが、その直後には波紋が広がるように騒がしさが教室に広がり、いつも通りの教室が戻ってきた。

 

 それは猫丸の隣の席も例外ではなく、先ほどの集団がまたもや猫丸の左側に集まりだした。

 先ほどのホームルームの際に隣の子の顔を確認したが、彼はサッカー部に入ろうとしているカラオケ大好き君だった。道理でこんなに人が集まっているわけだ。

 そして彼に群がる男子達も、彼と同じくサッカー部に入ろうとしているのだろう。


「なあ、さっきの続きだけどさ」


 僕の机にリュックを置いていた男子が、机の間を器用にすり抜けながら彼の机にまっすぐ向かってきた。


「部活見学、今日早速行くってことでいいんだよな?」

「うん、俺の同中の先輩がいてさ、今日やってるってこと聞いたんだよ」

「流石だぜー児玉こだま、ありがとな」

 

 リュックの彼に続くように、他のメンバーも児玉にお礼を言っていた。どうやら児玉という人気者の彼は、中学からサッカー部で活躍していたらしい。

 そんな彼に、周りの皆は"先輩とのつなぎ役"を期待しているようだった。現金なものだな、と猫丸が目を背けようとすると、リュックの彼が不穏なことを言い出した。


「なあ、せっかく行くならさ、結構な人数つれて行った方がいいよな。その方が先輩達に気に入られるくね? 新入部員候補をいっぱい連れてきたってのでさ」

「いや―――どうだろう、そんなに気にしないと思うけどな―――」児玉は少々渋っているように見えるが、周りはその提案に乗り気なようだった。


 猫丸は、椅子を引いた。はっきりとは分からないが、なんだか嫌な予感がしたからだ。


「適当に男子捕まえて―――ってお前はどうなん? 部活何にするとかあるん?」

 

 後一秒でその場から離れられていた。しかし無慈悲にも、彼の声は猫丸へとかけられてしまった。


「僕―――のこと言ってる―――?」猫丸は油が差されていないロボットかのようにぎこちなく首を彼に向けた。

「そりゃそうでしょ。で、どう? 今日放課後サッカー部の体験入部行かん?」


 心の中で猫丸は全力で首を振っていた。サッカーなど全く触れてこなかった猫丸にとって、プロ達がボールを脚で巧みに操っている様子は手品のように見えていた。

 そんな自分に白羽の矢が立てられるなど、絶対に人選を間違っている―――と分かっていても、何人もの期待の視線を前に猫丸の口はノーを言えずにいた。


「伏見、君だよね。確か剣道の」

 猫丸が目を見開いて何も言えないでいると、ふと同じ目線から声が聞こえた。同じく席に座っている児玉だった。


 猫丸は自己紹介の内容を覚えていた人がいたことに感動したのと同時に、嫌な予感が強まっていた。こういう剣道がメジャーではない場で、加えてノリのいい人達の前でこういう話題が出ると、毎回起きる流れがあったのだ。


「あー、そういえばそうだったわ。俺クラスで一人の剣道少年のこと忘れてたわあ」

「俺もや、サッカー部の奴探すので必死やったもん」

 児玉の机を囲むメンバーが盛り上がり始めた。児玉は少し申し訳なさそうな顔をしている。


「俺さ、剣道あんま知らないんだけど、あれだろ―――コテ、メーーンってやつ」

 

 嫌な予感が当たってしまった。経験者が中々いない武道でありながら、中学校などによっては必修の授業で取り扱ったりし、その上"剣"というなまじっか格好のいいものを扱っているということもあり、剣道はこんな感じで小馬鹿にされることも少なくなかった。

 考えようによっては、どんな形でも剣道に興味を持つ人が増えるのはいいことなのだろうが、少なくとも猫丸にとってこういった状況は気持ちのいいものではなかった。


 一人がパントマイムで竹刀を振るふりをして、隣の人の頭を小突いた。それに応じて、やられた側もめちゃくちゃな振り方で適当な部位の名前を言いながら打ち返していた。

 それが更に児玉以外の全員に派生し、そこでは陳腐なチャンバラごっこが繰り広げられていた。

 猫丸は「ははは―――」と乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。


「おい、お前ら。まさかとは思うが、剣道を馬鹿にしてんじゃねえだろうな」


 猫丸は背後から聞こえたドスの利いた声に、全身でびくついてしまった。

 ゆっくりと声の方向に身体を向けると、そこには筋骨隆々で目つきの悪い青年が仁王立ちになっていた。


 座っていても分かる。彼の身長は百八十センチはあるように見えた。自分の身長が百七十センチ前半なので、きっと二人で並んだら彼のタッパの大きさがはっきりとわかるだろう、と猫丸は考えていた。


 それでいて彼の腕は太く、鍛え上げられていた。肩幅も広く、内に秘めたる筋肉は長袖を着ていても分かる。猫丸の勘が言った。彼はきっと、剣道の経験者だ。


 彼は固まっているサッカー軍団には目もくれず、猫丸を見下ろした。

 自分も剣道を馬鹿にしていたうちの一人だと思われてしまっただろうか、それともそれを止めなかったことに怒っているのだろうか。猫丸の頭に嫌な考えが巡る。


「担任。どこ行ったか分かるか」


 猫丸の耳に入ってきた言葉には、意外にも怒りの要素は含まれていないようだった。

 それでも猫丸は彼の目力に怯まずにはいられず、頬が若干引きつっていた。

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