格物致知(かくぶつちち)(1)

「どうですか? 県大会。興味は―――」

「「「「「行きます―――!」」」」」


 言わずもがなだった。浪川の言葉を遮る勢いで、五人は口を揃えて参加の意思を示す。

 浪川は一瞬面食らったような反応を見せたが、すぐに口角を上げた。


「ですよね。皆さんならそう言うと思ってました。では、日時の方を―――」


 浪川の説明を聞きながらも、猫丸は依然として心を躍らせていた。

 

 試合―――試合かぁ―――! 

 最後に試合を見に行ったのはいつだったかな―――中学校の頃なのは間違いないだろうけど、辞めてから一度でも行ったっけ。

 

 他の部員に目を褒められるだけあって、猫丸は人の試合を見るのが大好きだった。

 剣道を始めたきっかけも元を辿れば、試合の最中にふと訪れる、一本の刹那を"見る"のが好きだったからだ。


 あぁ、楽しみだ。しかも県大会だって―――?

 強くなればなるほど、その一本は判別がつきにくくなる。それだけ二人の竹刀が複雑に組み合い、打突そのものが難解なものになっていくということ。

 県大会ともなれば、それが極まった試合が増えるのは当然。


 これは良い一本が見られるぞ―――! 猫丸は鼻を鳴らしていた。

 その姿を唯一、露峰だけが横目で捉えていたが、その表情が呆れで満ちていたことは言うまでもない。




「おいー、どうしちゃったんだよう伏見ちゃん」


 ゆらゆらと加藤に肩を揺さぶされても、猫丸は声一つ漏らすことさえできずにいた。

 顔は青ざめ、焦点も定まっていない。猫丸はカートゥーンアニメのように、目を回していた。


 猫丸はハイレベルな試合のみに関心が向いていたせいで、自身の重大な弱点のことをすっかり忘れていたのだった。


「にしても、こんなにも人混みがダメなんてなあ―――びっくりだ」

「そうすか? 割と想像どおりっすけど―――」


 猫丸の顔色を伺う野上に対して、熱田は冷たく言い放った。

 

「目が良いんだっけ? 伏見って」

「あぁ、大分な。この人酔いも、そのせいかもな」

「お前ら一年の仲間だろ―――心配してやれよ―――」


 野上は部長なりに一年生ズの絆を心配していたが、当の露峰と熱田は『どうせ時間経ったら治るだろ』位にしか思っていないようだった。


 露峰と浪川の入部から二週間半が経った頃。部員全員が心待ちにしていた県大会が今、開かれようとしていた。

 

 会場は愛知県名古屋市の露橋つゆはしスポーツセンター。臙脂えんじ色のレンガが全面に映えるその会場には、溢れんばかりの人が集まっていた。

 二階席の入り口まで伸びる大きな階段にも、選手やその関係者と思われる人だかりがいくつもできている。


 その中でも道着と袴を身につけている選手の表情は一段と、燃えるような闘志を纏っているように見えた。


 翔蛉高校剣道部はそんな選手らの邪魔にならないように、スポーツセンターの真ん前に位置する公園で輪になっていた。

 その公園にすら道着と袴を身につけた選手らは流れ込んでいたが、会場の入り口の混雑ぶりに比べたら幾分かマシ―――のはずだった。


「おい―――こんなとこでバテてたら世話ねえぞ」

「わ、分かってる―――けど―――ウップ」

「ハァ―――てか野上先輩、先生は?」


 熱田に見放された猫丸は、加藤に肩を貸して貰った状態でぐたりと下を向いていた。その間にも加藤は「大丈夫だぞーそうだ、目閉じろ目」と声をかけ続けている。


 その親切心が、今の猫丸にはなにより嬉しかった。そして同時に、同期の冷たさが無性に心に染みた。


「先生は今日審判だって言ってたし、もう中に入ってんだろ。俺たちに

『選手やその学校の生徒、並びにその保護者の邪魔にならないよう、会場に入ってくださいね』

とか言い残してたわけだし」

「そういやそうでしたね」


 にこやかに警鐘を鳴らす浪川の姿を思い出しながら、熱田はその建物を目で追った。

 ここが―――愛知の会場か。相当年季入ってんな―――


 その心を読んだかのように、露峰はぬるっと熱田の背後に移動した。

 

「良いとこでしょ、ここ」

「ッ―――!? んだよ、いきなり話しかけんなお前」

「酷いな、部員の仲間に対して―――」

「びっくりするからだ、普通に話しかけろ」


 全員が暇を持て余しそうになっていたその時。

 一階の入り口付近の人混みが少し揺れた。


 いくつもガラスの扉が連結しているような横に広いゲートの側で、なにやらスーツを着た大人達が集まった人らに向けて大声を上げている。


 その様子を見ただけで、露峰と猫丸はあることを察した。


「なんだなんだ? 乱闘かあ?」

「―――行きましょう」

「え?」


 目を細める加藤の横で、猫丸は力なく身体を起こす。

 小学校の頃から試合に出ていた猫丸にとって、その光景は嫌というほど目と記憶に焼き付いているものだった。


「戦いが、始まります」

「えぇ!?」加藤は意味も分からず声を上げる。


 ようやく全員がその扉の方を向いたとき、ぞろぞろと蠢いていた人の波が一気に中へとなだれ込んだ。

 開いた扉から一人、また一人と、まるで水が穴に流れていくように施設の中に人が吸い込まれていった。


「ゆっくり! ゆっくり入ってください!!」

「歩いて! こらそこ、走るな!!」

「押すなって言ってるだろ! 周りのことを考えろ!」


 叫んでいるのが審判員らだと気付けたのは、その騒ぎが起きてからしばらく経ってからのことだった。 

 ほんの数分で、どこを見ても人が視界から消えなかったような人混みのたまり場から、選手と思われる生徒以外が嘘かのようにさっぱり消えた。


「な、なんだったんだ―――」 

「一瞬だったな―――」


 口を開けっぱなしにしてあっけらかんととしている先輩二人を置いて、猫丸と露峰は既にその方向へと歩き出していた。

 熱田はをなんとなく察したのか、黙って二人の背を追っている。


「ちょいちょい、待ってよなにさ、戦いが始まるって。もう試合始まるの!?」

「―――違います。これは―――」


 大会が始まる―――それよりも前に、出場選手以外によって行われる盤外戦。


「関係者による―――席取り勝負ですよ―――!」


 そう言って振り返る猫丸らの目には、その盤外戦が馬鹿にならないことだと悟らせるほどの、説得力があった。


 


「―――ま、今回僕らは観戦メインなので、席は出場校の関係者に譲りますけどね」

「「なんやねん!!」」


 アリーナを見渡せる二階席にて、先輩二人は猫丸に全身で突っ込んでいた。

 その声は一瞬で体育館全体に響き渡り、波打つように消えた。


「そりゃそうですよ、僕らは言っちゃえば部外者ですから」

「まるで俺らまで戦いに行くような雰囲気だったじゃねえか―――」

「それは―――すいません」


 猫丸が野上に苦笑いを浮かべていると、それを遮るように露峰が言葉を足した。


「でも、勝負というのはあながち間違いじゃないですよ―――ほら」

「―――?」


 露峰が指を差した方向には、二階席から一階席へと横断幕を垂らそうとしている家族らや生徒がいた。全員が声を掛け合って紐を結び、布を延ばし、自校の魂の言葉を他校の生徒や自分らの代表選手に轟かせようと尽力している。


 その上のベンチでは、選手のものと思われる防具を準備したり、家族らの場所を確保したりして、応援の手筈を整えている。

 まだ選手らが一階の体育館に入っていない状態から、少しでも試合の空気を作ろうと、そこにいる数多の人間がせかせかと動き回っていた。


「俺たち選手は、一人で戦ってるわけじゃない。精一杯応援してくれる人、直にサポートしてくれる人、戦術面や指導面で導いてくれる人。こういう人がいるから、俺らは戦えるんです。

 だから彼らは自分が押しつぶされても尚、ぎゅうぎゅう詰めの人混みをかき分けて、選手を迎える準備を整えてるんです」


 露峰の言葉の節々には、溢れんばかりの自責の念が混じっているようだった。

 そんな人たちを失望させてしまった過去―――熱狂を迎えようとしている試合会場を見て、あの嫌な視線を思い出さずにはいられなかった。


「それもそうだが、忘れんなよ」


 ふと背後からかけられた言葉に、露峰は思わず肩を上げた。声の主は、熱田だった。

 両手を組んで手すりにもたれながらも、顔だけで露峰らを睨み付けている。

 

「そういう奴らを惹き付けんのは、俺たち選手の背中だ。俺たちが必死に練習して、ガチで勝ちたいっつう姿勢を見せて初めて、そういう奴らも応援したいって思うんだよ。

 だから―――なんだ」


 熱田は目線を外し、気難しそうに首を回している。これが彼なりの励ましだということに気付いた露峰は、改めて目の前の大男の不器用さを目の当たりにし、少し頬を緩めた。


「分かってるよ。俺も―――頑張る」


 いつか、ああいう人たちみたいに―――もう一度、お母さんが俺のことを本気で応援してくれるように―――

 露峰は誰にも気付かれないように、じんわりと拳を握った。


 全員が改めて気を引き締めようとしたその時、既に喧噪の中にあった会場がまた一つ、空気を変えた。

 各所で突発的に起こる大きな歓声。それはすぐに会場全体に伝播した。


「な、なんだ!? もう試合!?」


 加藤と野上はここまで大きな試合を見に来たことがなかったせいで、空気の変化一つ一つに過敏なほどに反応していた。


「やっとか、待たせやがって」

「うん―――!」


 その歓声の矛先は、一階アリーナの扉に向かっていた。

 扉が開くと同時に、真剣な眼差しの剣士らがぞろぞろとアリーナに入場してくる。


 キャプテンと思われる選手を先頭に、肩から肘にかけて同じ刺繍が入った他の選手らが足並みを揃えて続く。

 厳格、余裕綽々、緊張。その色は高校によって様々だった。


 それからほんの数分で、審判員が数人歩いていた程度の物寂しいアリーナは、防具を手にしたレギュラーメンバーで埋め尽くされた。

 

「あぁ、びっくりした―――試合前練習か」野上はようやく事態を理解した。


「その通りです。流石、よく知ってますね」

「おだてんな伏見―――俺の知ってる試合じゃねえよ、何から何まで」

「東海大会はもっとすごいですよ―――?」

「なんでビビらせんだよお前―――」

 

 猫丸は悪びれもなく「すいません」とだけ言うと、身体を反転させて腕を組んだ状態で鉄の手すりに身体を預けた。

 眼下には地区大会を勝ち抜いた高校がうじゃうじゃと練習を開始している。


 猫丸は自分の意思に反して、なにかを探すように目を動かしていた。

 愛知県の代表を決める大会―――勝ち抜いていたら、もしくは。

 選手を追う目は次第に、鋭さを増していく。


 その瞬間、はっとした猫丸は急いで頭を振った。

 なんで僕はアリーナを探しているんだ―――彼らだってまだ一年生。試合に出ているとは限らないだろ―――

 猫丸は揺れる自分の想いに振り回されていた。


「どうなんだ」

「―――え?」


 猫丸は唐突に隣に移動してきた熱田に目を丸くしていた。

 熱田は逆にアリーナに背を向ける形で手すりにもたれかかっており、目だけで下の選手らをちらちらと眺めている。


 気付くと翔蛉高校剣道部は全員猫丸らのように、手すりにもたれて下の様子を観察していた。


「どうっていうと―――?」

「強いヤツ―――っていうか、強い高校だよ。あんのか?」

「え、そりゃあるよ。県大会だもん」


 熱田は少し唸ると、身体を反って天を仰いだ。


「そん中で、強いとこっつったら、どこなんだ」

「え―――それはちょっと―――僕も高校剣道にはまだあまり―――」


 猫丸が眉を曲げていると、熱田は再び首だけを猫丸の方に傾けた。

 

「んな知識は期待してねえよ。俺はお前の"目"に聞いてんだ」

「あぁ―――」


 その時、猫丸は熱田が初めから自分の目見ていなかったことに気が付いた。

 

 そうと決まると、猫丸は先ほどとは違う熱意でアリーナに目を凝らした。

 既にほとんどの高校は準備体操や素振りなどの基本的なウォーミングアップを終え、防具をつけて基本打ちを始めている選手もちらほら見える頃だった。

 

 やっぱり―――流石だ。竹刀の振り方から立ち回りまで、素人っぽい動きはどこにも見当たらない。

 コンパクトかつ強烈な打突は基礎練習の中でも光を放っており、ウォーミングアップの全てが満場一致の一本で構成されている。


 緊張もしてるはずなのにあの動き―――熱田君はああいうけど、やっぱりどの高校も十分強いんじゃ―――

 首をかしげると同時に、身体の軸までもが傾く感覚に襲われた。

 あ、まずい。気が付いたときには遅かった。


 一気に大量の人を見たせいか、再び胃の辺りがムカムカと違和感を持ち始める。猫丸が頭を抑えて目を細めようとしたとき、猫丸の視界に数人、異彩を放つなにかが入り込んだ。


 距離が離れているせいで、声や足の音までは聞こえない。

 それなのになんだ―――あの精錬された身のこなし―――

 猫丸は自然とその選手らに意識を奪われていた。


 彼らを、もっとみたい。彼らは、どこの高校だ。

 その圧倒的な光が選手から放たれていたことに気が付いた辺りで、猫丸の神経は限界を迎えた。


 きゅ~と傾く猫丸の身体を支えたのは、呆れた顔をした熱田だった。

 猫丸の襟を大きな手で掴み、片手で猫丸の身体を吊り上げている。その姿はいかにも、親ライオンに首根っこを掴まれている子ライオンだった。


「おいまたかお前―――聞いた俺も悪いけど、そんな答えは急いでねえよ」

「だって―――僕も見たくなっちゃったから―――」

「それは分かるけどなあ―――ちったあ学べや―――」


 アリーナに背を向け、慎重に肺に息を送る。目の前を通り過ぎる多種多様の人らを視界に入れないように、猫丸は延長線上にある壁に焦点を合わせた。


 試合を見る前からこのザマ―――ほんと、やんなるなぁもう―――


「なぁ―――もしかして、お前―――伏見か」


 がくんと首を下げた猫丸の意識を一気に晴らしたのは、背筋が凍るような、それでいて嫌というほどに、聞き馴染みのある声だった。







 

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