格物致知(かくぶつちち) (2)
「なぁ―――もしかして、お前―――伏見か」
ぐらついていた視界が、凍り付いたように固まった。先ほどまで胃の周りを覆っていた気持ち悪さも、今は心臓を逆撫でされるような嫌悪感に変わっている。
「んあ? 知り合いか、お前」
猫丸の首根っこを掴んでいた熱田は、困った表情で上から尋ねた。
当の猫丸は首を下げたまま呼吸だけが荒くなっており、言葉を発することすらできない。
分からないのも当然だ―――僕はまだ、彼に伝えてない。
僕の、中学校時代の、忘れたい記憶―――
「んと―――悪ぃな、こいつ酔っちまってんだよ。人酔いってやつ? だから話があんなら―――」
「知ってるよ。俺たちの時だって、そうだったもんな、お前」
そのねちっこい言い方に、熱田は思わず眉をひそめた。
そして同時に、この二人が決して良い関係ではないことを悟った。
彼は学校指定と思われるジャージを身につけ、竹刀袋を三つほど腕に抱えていた。
見たところ、一年生の雑用、といったところだろう。
「伏見さ―――まだ、拗らせてんだな、その設定」
気を遣って黙った熱田を見ることもなく、謎の青年は言葉を続ける。
「そうやって大げさに振る舞ってさ、俺だけ特別だとでも言いたげでよ」
それでも猫丸は顔を上げない。熱田はそれがもどかしかった。
コイツ、なに好き勝手言われてんだ、言い返せや―――
しかもよりにもよって、俺以外の部員はこっちに気付いてすらいねえ。
これじゃ助け船も出せねえじゃねえか―――
「―――まぁいいや。俺も皆も、"今は"楽しくやってるからさ。ほんと、楽しいよ―――やな奴がいないと」
「その、あの時は―――僕も―――悪かったというか―――」
あとコンマ一秒でも猫丸の返答が遅ければ、熱田は彼の胸ぐらにもう片方の手を伸ばしていただろう。
なんだこいつ、出会い頭に感じ悪ぃ―――!
自分の中で異常なほど湧き上がる怒りに、熱田自身も困惑していた。
「僕"も"? 僕"が"の間違いだろ、勘弁してくれよ」
青年の顔は負の感情を塗りたくったように歪んでいた。
「―――でも、あれは―――」
言い返したいことも、謝りたいことも、山ほどある。
それなのに、言葉が出てこない。彼という人物、そしてそれに付随する歴史が、今はただ、苦しい。
猫丸は唇を噛み、手の平を強く握っていた。
それでも、彼の目だけは見ることができずにいた。
「んで? お前今どこにいんの」
「―――
猫丸がその高校の名を口にした途端、青年の表情はぱあっと明るくなった。
恍惚、愉悦、そのどれもを混ぜたような、勝ち誇った表情。
それを無理矢理、隠そうとしている魂胆。
熱田はその全てが、気持ち悪くて仕方がなかった。
「へぇ~いいんじゃないの? 場所は分かんないけど、お前みたいなヤツはそういうとこのほうが上手くやれるよ」
「うん、そう、だね―――そういう
猫丸はここでようやく、
名前を呼んだからだろうか、自分の中に"彼"という人間を真っ正面から捉える勇気が生まれたような気がした。
そして同時に、自分の中に自制の効かない感情が湧き出ていることも自覚していた。
「
「綾西―――」
聞いたことは―――ある、気がする。でも―――嫌味な言い方だ。
県大会に出てるんだから、強いことは疑いようもないはずなのに。
「でもおかしいな、今日のスケジュール見たけど翔蛉なんて名前、なかったはずだけど」
烏間は猫丸と熱田の制服姿を見ながら、そう言った。
二人して手ぶら。加えて、急いでいる様子もない。
その時点で、分かっているはずだった。
そして猫丸はもう一つ感じ取っていた。自分の襟を掴む手の平から伝わる熱―――熱田の、煮えたぎるマグマのような、静かな怒りを。
それに気付いた瞬間、猫丸はどこかストッパーが外れたような気がした。
止めるものがなくなった途端、胸の中でとぐろを巻いていた"なにか"が暴れ始める。
「僕らは試合には出ないよ―――地区大会にも出てなかったし」
「へぇ―――」
「だから今回は見学。どんな高校がいるのか、様子見って感じ―――かな」
己の中の黒い感情に身を任せた途端、痙攣して震えていたような口が自分でも驚くほど回るようになった。
声色も安定し、腹から声が出ているのが分かる。
これは―――あの時と同じ―――
猫丸の脳裏に浮かんでいたのは、露峰の顔だった。
『うちの剣道部来たら、剣道やりたくなっちゃうかもだから。その気で来てね』
あの時の、どうしようもなく言い返してやりたくなった感覚。
あれに似たなにかが、熱田の怒りによって隆起したのかもしれない。
今はただ、翔蛉高校の仲間を馬鹿にしたこの男に対して、なにかを言い返してやりたい。
そして、認めさせてやりたい―――
「様子見って―――出る気でいんの? 県大会。その高校で」
薄ら笑いを浮かべながらのその言葉が、逆に猫丸の背を押した。
既に猫丸の表情は、普段よりも一層、熱量を増していた。
「もちろん。僕らならいけるよ―――それも、今年中に。
でも、そういう烏間君は―――今年中にレギュラー、取れそうなの?」
「―――は?」
烏間は突然喉元に刃を突き立てられたような感覚に襲われ、顔をこわばらせることしかできずにいた。
苛立ちすら湧かない―――しかしその言葉を、理解できないわけではない。
そして思い出す。
あぁ、そうだった。
俺は―――俺たちは、こいつのこういう所が、どうしようもなく嫌いだったんだ。
「と、取れるんじゃない? もう三年生も引退だし―――二年生も見た感じ、そこまでバケモノがいるって感じじゃないし―――」
「そうなんだ、それなら良かった」
「良かった―――?」
猫丸は自分の襟に手を回し、熱田の手を振りほどいた。
熱田に支えて貰っていた体重が膝にかかる度、彼がどれほど手に力を入れていたかを再認識する。
猫丸は猫背になった体勢をゆっくり起こし、改めて烏間の目を見つめた。
その時の猫丸の目は、これまで熱田や露峰が気味悪さを感じたことのある、あの澄んだ色をしていた。
睨むでもなく、まっすぐ、相手の奥底まで見つめるような透き通った目。
烏間は心臓から全身に走る寒気を、無視できずにいた。
「僕は、副将にいるから。待ってるね」
待ってる―――待ってる?
お前はまだ、県大会すら出ていない、弱小高校のはずだろ。
その台詞を吐くのは、俺だ。俺の方のはずだ。
なんでこいつが、また、そんな上から―――!
烏間は思考がまとまらず、喋ることも動くこともできず、しばらくその場に縛り付けられていた。
「おーい! なーにやってる烏間!」
遠くから自分を呼ぶ声がする。まずい、俺が持ってる竹刀はスタメンの先輩の―――
「あ、あぁ―――」まだ衝撃が残っているのか、満足に声が出せない。
烏間が狼狽えている間にも、同じジャージを着た男は烏間のすぐ側まで駆け寄って来ていた。
「あぁ、じゃねえよ。先輩にしばかれたいんかお前」
「す、すいません―――」
「おら、行くぞ。ったく、他校にちょっかいかけてる場合かよ―――」
綾西高校の二年だと思われる男は、熱田と猫丸を一瞬横目で見たかと思うと、首だけでお辞儀だけし、すぐにその場を去って行ってしまった。
烏間も彼に引きずられるような形でとぼとぼと、二人に背を向ける。
熱田と猫丸がそのまま見送ろうかと思った矢先、烏間はふと足を止めた。
背を向けていて詳しくは分からなかったが、どうやら歯を食いしばり、竹刀を抱える手に力を込めているようだった。
「伏見」
今までで最も暗いトーンで発された自分の名前に、猫丸は言葉を返せずにいた。
この後に続く言葉は、黙って聞かなければいけない。そんな気がした。
「―――忘れねえからな。俺は」
それだけいうと、烏間は矢継ぎ早に先輩の背を追った。
猫丸も、色々と身構えてはいた。
『覚えてろよ』『俺はお前が嫌いだ』『負けねえからな』
そんな捨て台詞だったなら、今の自分なら甘んじて受け入れられた気がする。
一番、効いたよ―――烏間君―――
猫丸は密かに、拳を握り締めた。
「―――気まずい」彼らがいなくなってから少しして、熱田が声を漏らした。
「あぁ、ごめん―――巻き込んじゃって―――」
猫丸は顔を上げ、申し訳なさげに熱田を見上げる。
「ハァ―――露峰といいお前といい、過去になんか抱えてなきゃいけねぇのか? この県の剣道部ってのはよ」
「そんなことない―――はず、なんだけどね―――ははは」
そう言って乾いた笑いを浮かべる猫丸の黒目は、自信のなさからか明後日の方向を向いていた。
「なに、呼んだ?」
「「うわぉ!?」」
突然二人の間に現れた露峰に、猫丸と熱田は反射的に身体を仰け反らされていた。
「んだよテメェ、マジでいきなり出てくんな!」
「だから熱田さ、毎回言い方酷くない? 一応同じ部活の仲間なんだけど」
「俺はびっくり系苦手なんだよ―――そんでもって、それが分かった上でこういうことしてるお前が気にくわねぇんだよ―――」
敵意をむき出しにしている熱田に対して、露峰は軽く「あれ? バレてた?」と小さく口角を上げた。
そのまま首を猫丸の方に傾け、目だけで先ほどの二人の残滓を追う。
「さっきの―――
「―――そうだけど」
「ふうん―――」
露峰は少しの間なにかを考えているような素振りだったが、すぐに興味をなくしたように二人に背を向けた。
「大変そうだね」
「そういうお前はどうなんだよ。話聞いた感じ、お前にとっても同中は地雷だろ」
露峰は両肩をあげて、手を後ろで組んだ。
気にしてませんよ、とでも言いたげだ。
「そりゃそうだけど―――まぁ、強い中学ではなかったからね。メンバー全員が高校では違う部活に入ってるーって言われても、違和感ないくらいには」
「進んだ先の先輩が強かったらどうすんだよ。さっきみてえに、後輩として二階席にいる可能性はあるだろうが」
それを聞いてか、露峰の肩が少し下がった。
熱田と猫丸はなんとなく察した。
しかし露峰の口から出た言葉は、二人が想像していたものとは少し違っていた。
「それは―――確かにちょっと怖いかな。
でも俺ね―――今はそれ以上に、会いたくない人がいるんだよね。この会場に」
「え、誰? ―――あっ」
猫丸はそう聞いた途端、考えなしの自分を叱った。
彼が元々在籍していた道場を考えれば、言わずもがなだ。
この会場には、愛知県有数の強豪校が集まっている。それはつまり、それだけ浄心道場の出身者がレギュラーに含まれている可能性も高いということを意味している。
彼にとってこの会場は、僕以上に過去の遺物で溢れている―――
猫丸は想像するだけで身震いが止まらなくなりそうだった。
「察しが良くて助かるよ。そうなんだよね―――さらっと見ただけでも、何人も知ってる奴がいる。あそこら辺とは、できる限りエンカウントしたくないね」
そう言うと露峰は言葉とは裏腹に軽い足取りで、先輩らの方へと歩いていった。
「―――僕たちも行こうか。男子の練習も、もうそろそろ終わる頃だろうし」
そう言うと、猫丸は熱田の方すら見ずに先輩らの方へ身体を向けた。
男子の練習が終わり、今から女子の練習が始まる。それを見るのもいいけど、それよりはロビーで先輩らとトーナメントを確認しておきたい。
「話、聞かなくていいんか」
それは驚くほどに柔らかく、繊細な声色だった。
思考をなんとかして次に移そうとしていた猫丸を、熱田はそっとその場に引き留めた。
「先に言っとくが、別に聞きてえわけじゃねえ。正直首も突っ込みたくねえし、そういうのは自分の中で解決するもんだと思ってる。
だがよ―――露峰は話したろ」
熱田君の言いたいこと。言いたいけれど、上手く言葉にできないこと。
―――僕、分かるよ、多分。
猫丸は密かに唇を噛んだ。
露峰君は、僕らに話してくれた。
目を覆いたいような過去を、全員がいる前で、堂々と語ってくれた。
誰よりも本人が、蓋をして遠ざけておきたかっただろう過去のはずなのに。
これはあくまで推測だけど―――彼がそこまでしてでも話してくれたのは、その話が"翔蛉高校剣道部の勝敗"に関わるからだと、僕は思う。
だから露峰君は部のことを思って、身を切る思いで全てを明かした。
猫丸はゆっくりと振り返り、複雑な表情で熱田の方を向いた。
熱田君は今、こう思ってるんでしょ?
それは、部にとって重要なことじゃないのか―――って。
もし重要なら、俺らで一緒に抱えてやる、そういうことでしょ?
猫丸は熱田の険しくも、どこか力ない顔を見つめながら、しばらくその場で佇んでいた。
そして慎重に、口を開く。
これは決心であり、感謝だった。
「大丈夫。これは、僕の問題だから」
「―――んな暗ぇ顔されて信じられっかよ」
「それもこれも、熱田君のおかげだから。ありがとうね」
「―――ハァ?」
熱田は何が何だか、とでも言いたげな顔をしていた。そんな答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。
それでも、猫丸だけはずっと肌で感じていた。
熱田が握りしめていた、自分の襟の部分。しわくちゃになって、今もうなじをチクチクと刺してきている。
烏間君を前にしていたときも、露峰君と話していたときも、そして今も。
君の分かりやすい怒りが、僕に仲間の存在を再認識させてくれているんだよ。
だから、ありがとうなんだ。
猫丸はふっと笑うと、熱田の肘を軽くははたいた。
「ほら、もう男子が撤収してるよ。僕らも行こう、どの試合見るか決めなきゃ」
「んだよ、いきなり元気になりやがってテメェ―――」
熱田は気味悪そうにしながらも、目元には少し安堵の皺が寄っていた。
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