格物致知(かくぶつちち) (3)
三階の観覧席から出て階段を降りると、アリーナへの入り口が大きく正面に構えるホールが見えてくる。翔蛉高校剣道部の五人は打ち合わせのため、その場に集まっていた。
そんな彼らの周囲は、選手らの地に足つかない談笑と、そんな彼らのサポーターの落ち着かない心境を表したような喧噪で溢れていた。
試合ならではの空気感の渦中で五人は、仲良く円になって固まっている。
「試合っていつ頃から始まるんだ? これ」
「野上先輩が持ってる資料に書いてありませんか? タイムスケジュール」
「あぁ、持ってんの俺か」
試合慣れしているだろう後輩に適当に尋ねた野上に、猫丸が冷静な指摘を入れる。
「部長だろおーお前ー、しっかりしろよーう」
「うるせえな、責任感無い加藤先輩」
「あー? これでも副部長なんですけどー?」
野上と加藤の痴話喧嘩。初期から見られる恒例行事は、依然として翔蛉高校のシンボルのようなものだった。
「じゃあちょっとは副部長らしいことしろよな―――えぇと、試合はっと―――十時からって書いてあるな」
「今が九時半ちょい過ぎなんで、あと三十分くらいっすね」
熱田はそう言いながら、鍛えられた左腕に巻き付けられた腕時計を睨み付けていた。
その時計は見栄えというよりはゴツさ重視といった感じで、装飾という装飾も見当たらなかった。
それを見た露峰と猫丸は心の声で「こんなにも熱田(君)らしい時計あるんだな」と呟いており、お互いが気付かぬうちに共鳴していたのだった。
「じゃあ―――決めるか? 見る試合」
野上の一言は、一瞬にして部員らを黙らせた。
普段ならお得意の剣道愛で皆を引っ張る熱田も、土地勘の無い試合にはまだ不慣れなようで、本人もやりづらさを感じているようだった。
「―――だよなあ、よく分かんないよなぁ」野上はそう言って首を捻った。
「あの人すら、あまり知らないようでしたからね」
「うーん―――」
露峰の言う"あの人"とは、浪川のことだった。彼は未だに、浪川を"浪川"だの、"先生"だのと呼ぶのが小っ恥ずかしいことがあった。
それを周囲は勿論悟りつつ、その上であまり触れない方がいい、というのが四人の判断だった。
「そういう意味ではさ、伏見ちゃんとか詳しかったりしないの? だってよく調べてんじゃん。試合見るのも好きだし」
「いやぁ―――それが―――」
調べてはいる。試合を見るのも大好きだ。
でも―――だからこそ分からない、というのが本音だった。
猫丸は申し訳なさそうに小さくなり、控えめに言葉を紡ぐ。
「愛知県って、特別ここが強い! みたいな学校が少ないんですよね―――」
「え、それって全体的なレベルが低いって事!? ショックなんですけど!」
「―――お前、本気で言ってんのか?」
頭を抱える加藤に対して、野上は冷たい視線を飛ばす。
「浄心道場がある県で、それは無いだろ」
「あぁ、そっか」
「―――そうなんです」
これは高校に限らず、愛知県内の小・中学校にも共通して言えることだった。
そしてその全ての原因が他でもない、浄心道場に詰まっている。
「浄心道場の出身者、もしくは在籍者―――そんな人らが毎年各学年に排出されるこの県は、強豪という強豪が生まれにくいんですよ。
勿論、地区大会のレベルになれば毎年県大会に進むような強豪は数校あります。でもそれが県大会となると―――」
「分かりやすい話、浄心道場の連中が毎年、各校のパワーバランスをぶっ壊してるって話だろ」腕を組んでいる熱田が面白くなさそうに呟く。
「そう、そういうこと―――」
猫丸が更に小さくなるのに比例して、全員の視線は自然と露峰に集まる。
それを受けて露峰はあからさまに眉をひそめた。
「なんですか、知りませんよ」
「おたく、ちょっと暴れすぎなんとちゃいますか~? え~?」
加藤がエセ関西弁で露峰に詰め寄る。
「嫌味ですか加藤先輩―――? パワーバランスを崩せなかった俺に対する、新手のイジメですか?」
「その話を持ち出すのは止めてよう―――全面的に俺が悪かったよう―――」
"パワハラ"という言葉が流行り始めた頃、自分の後輩に怯えていたであろう上司のように、加藤は一気に猫丸と同等、もしくはそれ以上に小さくなっていた。
そんな加藤を放置し、野上は話の筋を自然と戻した。
「じゃあ―――とにかく、適当に見て回るしかないか―――」
「男子の試合ってどっち側すか」そう言って熱田が野上の持っている資料を覗き込む。
「んーと、向かって左側かな」
「ならそこでとっとと席取っちゃいましょ。この人だかりじゃ、一番後ろの席すら危ういっすよ」
「そうだな―――よし、善は急げだ。お前ら―――」
きちんと浪川に言われたことを覚えていた熱田に密かに感心しながら、野上が全員を引き連れようとした―――その時。
「―――あの」
一人のか細い声が、他の四人をその場に繋ぎ止めた。
声の主は、露峰だった。
彼はまるで言いたくないことを言わされている子どものような表情で、その場に突っ立っている。全員はその様子を見て、なにかを悟った。
「俺、見たい高校―――あるんですけど―――いいですか」
午前の部が無事終了した露橋スポーツセンターは、朝とは違った騒がしさを孕んでいた。
嘆く者がいれば、午後のために自分らを鼓舞する者がいる。
勝者と敗者が生まれる世界での、抗えない運命だった。
そんな世界の一幕で、彼らは自分らの指導者に大きな声をあげる。
それこそ、当日戦っているもの達に負けないように。
「「「「「お願いします!!!」」」」」」
「や、やめてください、いいですよ、ここでは普通で―――我々は試合出てないんですから」
部員全員のハキハキとした声を前にして、浪川は周囲を見渡しながらたじろいでいた。
事の発端は、時計の針が頂点で合流して少し経ったくらいのことだった。
ちょうど昼食時に差し掛かった頃、野上のケータイには一つのメッセージが入った。
『私もお昼休憩が取れそうなので、一度集まりましょうか。というより、皆さんはまだ会場にいますか』
野上はこのメッセージを受けて、即座に全員を集めた。
『全員います。どこに集まれば良いですか』
『そうですね―――一階の
『多分、大丈夫です』
『良かったです、ではそこ周辺で落ち合いましょう。私もすぐ行きます』
そのようなやり取りを経て、翔蛉高校剣道部は今改めて、師範室前に集結していたのだった。
「にしても、結構時間がかかりましたね。迷いましたか?」
「このバカ部長が、館内地図すらまともに調べないうちから『大丈夫ですー』とか、無責任なこといいやがったので、少し時間がかかってしまいました。すいませんでしたぁ!」
そう言って加藤は野上の頭を掴み、自分と一緒に無理矢理お辞儀させていた。
浪川はそんな二人を視界に入れ、「ははは、別に構いませんよ私は」と愛想笑いを浮かべている。
「しかし、二人がここを知らないというのも意外でしたけどね」
「こんなとこ、学生のうちはほぼ来ませんよ―――なんなら、トイレしか無いと思ってました」
「まぁ―――それは非常に同意できますね」
露橋スポーツセンターの一階は小さな柔道場と剣道場が両サイドに構えており、その正面には女子トイレや更衣室に繋がる狭い道が通っていた。
その道を更に奥に行くと二階に上がる階段があり、そこからアリーナの正面へと出ることができる。
しかし、その道は基本的に女性がお手洗いに行くか、なにか用事がある人が柔道場と剣道場を行き来するか、のどちらかの用途でしか使用することはない。
故に、幼い頃からこのスポーツセンターに馴染みがあった二人も、"師範室"などという名前には全くといっていいほど聞き馴染みが無かったのだった。
「確かに、級審査の時とかよく通りましたけど―――狭すぎるし、なんか偉い人がいっぱいいるイメージで、近寄りがたい感じです、ここら辺って」
「実際、師範が集まるから師範室な訳ですしね。しかしこれは私が悪かったです、適当に本部から近かった場所を指定してしまったので」
審判員が多く集まる本部。そのすぐ下が、この師範室辺りなのだった。
そんな師範室の前に陣取る翔蛉高校メンバーは、加藤に説教されている野上、それを呆れた目で見つめる熱田、我関せずの露峰に、なにやらそわそわしている猫丸といった具合で、三者三様の雰囲気を醸し出していた。
浪川はそれらを少し観察すると、「では」という一言で彼らの視線をぐっと自分に集め、場を仕切るように両の手の平をみぞおちの前で合わせた。
「聞かせてもらいましょうか―――皆さんの素直な感想を」
その言葉だけで、数人の表情が曇った。
数秒待っても、誰一人として口を開こうとしない。
不思議に思った浪川は首をかしげ、唯一表情一つ変えなかった男に話を振ることにした。
「んー、熱田君はどうでしたか」
「え」熱田は『俺?』と驚くような反応で、目を見開いている。
「はい、嫌ですか?」
「いや、別に―――こういうのって、先輩から言うんかと思ってたから」
「ごめんて、日和った先輩でごめんてぇ」
未だに全員を会場に連れ回した罪に苛まれていた野上が、少し前の加藤のように情けなく声をあげた。
「で、どうでした?」
「んー」
熱田は少し天を仰ぐと、すぐに目が据わった表情を浮かべて腕を組んだ。
彼の元からの険しい顔が、更に皺を増やしていく。
「一言で言うなら―――不愉快っす」
「―――というと?」浪川はそれを聞いて、少し口角を上げる。
「強豪という強豪は生まれにくい、みたいな話を聞いてましたけど―――ちゃんといるじゃないっすか、強豪。しかもそこら中に強い奴らがゾロゾロ―――
だから、不愉快っす」
時は一時間半ほど遡る。
大会が始まり、いくつか試合を見回っていた翔蛉高校メンバーは、ある高校の試合を待っていた。
その高校は特にシードというわけでもなく、目立った様子も見られなかった。
その名は、
露峰が名をあげた高校が、まさしくここだった。
「そんなに強えヤツがいるんか? あの高校」
最上段で足を組み、肘置きで頬杖を聞きながら熱田が尋ねる。
猫丸を挟んで座っていた露峰は足の間で両手を組み、少し前傾姿勢で試合を眺めていた。
「まぁ―――そうだね、強いと思うよ」
「てことはまた浄心か―――飽きたなそろそろ」熱田はわざとらしくため息をついた。
「浄心も浄心―――その中でも、相当上位のやつがいるはずだよ」
「露峰がそう言うってことは、それこそ一位か二位とか取ったことあるやつってことになっちゃわねえ?」露峰の隣に座っていた野上が顔を歪める。
「ま、まさかそんな―――怖い冗談やめてくださいよ野上先輩―――」
「でもよお―――」
野上の方を向いて顔を引き攣らせる猫丸を見ることなく、露峰は「そうですよ?」とだけ呟いた。
それを聞いて、全員が目を見張る。その視線は紛れもなく、その高校の選手らに注がれていた。
「浄心道場、元一位と二位。しかも俺の記憶が正しければ彼ら―――小学校五、六年生の頃は小学校の部にて、毎度一位二位を独占してました。
それこそ、すぐに陥落した俺とは違ってね」
「一位と二位―――!?」野上は目だけで露峰を睨んだ。
そして同時に、猫丸は確信していた。
さっき人酔いの極地で見つけた、綺麗な剣道を繰り広げていた二人。
それは彼らだ。あの姿勢―――間違いない。
しかし露峰の目は、今やそんな彼らすら追っていないようだった。
その視線は最強と思われる二人のすぐ側―――景水高校のレギュラーを集めてなにかを話している、部長と思われる人物へと注がれている。
「しかも―――嫌な誤算付きです」
「あ、あの人って―――!?」
そう声をあげたのは、露峰の見つめる先を探っていた猫丸だった。
露峰の嫌な誤算と猫丸が受けた衝撃。これは正真正銘、同一人物が起因となっている。
「どうしたどうした、びっくりポンの連続か!?」
「びっくりもなにも―――」
今はもう、騒ぐ加藤先輩すら気に留める余裕がない。浄心道場じゃなかった僕でさえ知ってる。なんたってあの人は―――
次の言葉は猫丸と露峰、二人の口から同時に発せられた。
「あんなの、反則だ」
その一言に、景水高校の理不尽さが全て詰まっていたのだった。
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