一念発起(いちねんほっき) (3)

 加藤と野上が試合をすることが決まった道場内は、新鮮な緊張感で満たされていた。先ほどみたいな肌を刺すような鋭い空気というよりは、暖かな陽光のような心が躍る空気が漂っている。

 その大元は間違いなく、今面を付けて試合に臨まんとしている二人だった。


 猫丸は全身の感覚を研ぎ澄ませてその空間を感じた。心と心臓が一つになり、そのどちらもが高鳴っているのを感じる。


「ったく、旗が埃まみれだぜ、ハウスダストアレルギーだったらヤバかったわ。でもこれは外で払ってこなきゃだなあ―――っておい、伏見、何ぼーっとしてんだ。タイマー用意してくれって言っただろ、頼むぜほんと」

「ごめんごめん、今からやるよ。あ、そうだ。タスキってあった?」

「ああ、旗と一緒にまとめられてた。これも埃地獄だし、一緒に外で払ってくるから、お前は先に先輩たちに作法やらルールやらを教えといてくれ。

 といっても、あの人たちも基本的なことは全部知ってそうだしな、もし必要なさそうなら過去の経験談でも話しといてくれや。じゃ、よろしく」


 そう言って熱田は道場の外に小走りで駆けていった。その後ろ姿は、どこか猫丸と一緒でこれからの戦いに胸を躍らせているようにみえた。


 ふと猫丸が先輩二人の方を見ると、どちらもが面を付け終わるタイミングだった。加藤は自分の面紐を確認して力強く締め直しており、野上は手ぬぐいの飛び出たところを面の中にしまっている。


 猫丸はこの二人の所作が好きだった。

 剣道を始めて一年とは思えないほど、彼らの剣道は基本がしっかりしていており、それは身支度から礼節までにおいても例外ではなかった。


 きっと彼らは自分らなりに動画や本で研究し、二人だけで基本から自分たちの剣道を作り上げてきたのだろう。それは決して簡単なことじゃないはずなのに、今こうしてここまでの形になっている。それが猫丸からしたら感動せずにはいられないことだった。

 そんな二人の本気の勝負が見られる。猫丸の頬は緩まずにはいられなかった。


「先輩方、ちょっといいですか」


 二人は面を付け終わり、鏡で自分の姿を確認していた。猫丸の声に二人とも同時にふり返り、竹刀を帯刀して猫丸に近付く。


「おう、準備万端よ。俺らはさっきの二人みたいにあそことここに立って礼節を始めればいいんでしょ? もう立って熱田を待っといた方がいいよな」加藤がコート内を差して言った。

「いや、その前に色々と確認することがありまして―――ちなみにタイマーってどこにあります?」

「ああ、それならそこのロッカーにあるよ。ほら、紐が見えてるだろ? あれだよあれ」


 野上が向く先を見ると、そこには確かにタイマーのようなものが垂れ下がっていた。猫丸は「ほんとだ、ありがとうございます」と返すと、そのままこの後の流れを説明した。


「それでですね、先輩たちにも僕らと同じようにして試合を始めてもらうんですけど、その前にタスキっていうのを背中に付けてもらいます。その―――胴を身体に固定している紐の所に、紅白の帯みたいなのを結ぶんです。

 うーん、そうですね―――二人とも、今じゃんけんしてください。ほら、いきますよ、じゃんけん―――ポン!」


 猫丸にいわれて唐突に始まったじゃんけんに二人は焦り、急いで小手を外して猫丸の前に手を出した。加藤がグーで、野上がパー。じゃんけんは野上の勝ちだった。


「あぁー! なんだよ、勝負の前に不吉だなあ!」加藤は面越しに頭を抱えている。


「じゃあ野上先輩、赤か白、選んでください」

「うーん、白かな。俺白好きだし」野上は淡泊に答えた。

「分かりました。じゃあ加藤先輩は赤で」


 二人が冷静に色を決めていると、加藤が「赤―――? よく分からんけど分かった―――」と置いて行かれたような顔をしていた。


「二人は赤と白の色に分けられました。野上先輩が白、加藤先輩が赤です。これで二人の色が決まったので、審判があげる旗は自分の色を参考にしてください。

 例えば、審判が赤色の旗を上に上げたら、赤色の加藤先輩の一本ですし、審判が白色の旗を斜め下に下げたら、白色の野上先輩が反則です」


「ああ、それなら知ってるぞ。俺たちで試合の動画も見たもんな」

「そうねえ、ってかさっきのじゃんけんってそういうことだったのね。なら落ち込まなくていっかー、色決めるためだけのものなら」


 安心している加藤を放置して、野上は猫丸に尋ねた。


「でもいいのか、じゃんけんなんかで決めちゃって。なんか、決まりみたいなのってありそうじゃないか? 第一あれってどうやって赤と白が決まってるんだ?」

「うーん、基本的にはトーナメントの番号が若い方が赤、とか、トーナメントの左側が赤、とかいう風に決まってるだけで、それ以外はあんまり決まりとかはないんじゃないですかね―――

 あ、でも白色の方が上座に立って試合を始めることが多いですね。立ち位置の問題ってだけですけど」


 猫丸が淡々と説明すると、安堵していたはずの加藤が息を吹き返して猫丸に詰め寄った。鼻息が荒くなっており、眉が上下している。


「待て、上座ってことはそいつが上の存在ってことだよな。先輩後輩だったら先輩が、一段と二段のやつだったら二段のやつが立つ場所ってことだよな」

「うーん? まあはい、そうですね。基本的には―――」


「じゃああのじゃんけんは負けちゃダメだったじゃねえかあ! 最悪だ、やっぱり不吉だったじゃねえのよ! うわーやらかした」


 加藤は再び頭をつかんで、ぶんぶんと振り始めた。野上はそれを見て「まあまあ、俺の存在自体が上座ってことでここは一つ」と火に油を注ぐようなことを言って茶化している。

 猫丸はその光景が面白おかしくありつつも、どう収拾を付けていいのか分からなくもなっていた。


「年齢関係以外の上座下座に、意味なんてないっすよ。少なくともそこに強い弱いは関係ないっす。上座は自信持って立ってりゃいいし、下座は見返してやるよ、くらいの気持ちでいればいいんすよ」


 旗とタスキを両手に持って現れた熱田の鶴の一声は、暴れ散らすかと思われた加藤を鎮めた。その後も小声で「ほんとう? ほんとに関係ない?」としつこく聞き続ける加藤を片手で「関係ない関係ない」といなし続けている。

 

「で、ある程度説明の方は大丈夫なんだな、伏見」

「うん、審判のサインもわかってるっぽかったし。すぐ始められるよ」


 猫丸がそう言うと熱田は一言「ありがとうな」と告げて、手を叩いた。


「さ、じゃあ早速始めましょう。試合時間は本番同様三分。それまでに勝負が決しなかったら延長で勝負が決まるまで続けます。審判は俺、時計係は伏見です。打ち、残心、声の三つが揃っているものを一本として認めます。

 それじゃ、二人とも指定の位置に向かってください」


 面を付けた二人は各々が返事をし、静かに対面の位置に向かった。それと同時に、熱田も主審の位置に礼節通り進む。猫丸も急いでタイマーを取りに行った。

 熱田はコート外から礼をしながら規定の位置に進み終わると、それから一呼吸置いたタイミングでサインを出した。二人に対しての"入っていいよ"という合図である。


 二人は先ほどの猫丸と熱田のように、礼節通り挨拶と抜刀を済まして、蹲踞の形を取った。さっきと違うのは、この蹲踞の後に自分たちのタイミングで立ち上がらないことだった。


 一秒から二秒ほど、二人はお互いを睨み合った。そして試合の火蓋は熱田の声によって落とされた。


「試合―――始めェェ!!」


 二人は同時に立ち上がり、一挙手一投足の間合いまで進んだ。それと同時に猫丸は手元のタイマーのスタートボタンを押した。


「「ヤアアァァァァァ!!」」


 道場には二人の気合いが声となって響き渡る。声に関しては二人とも問題なし。熱田も密かに満足げな表情を浮かべていた。

 

 試合開始後すぐに、コート上にはでは加藤の剣道が猛威を振るっていた。


 加藤は積極的に足を使う剣道をしていた。前後には勿論、左右にも動き続け、相手の形を崩そうとしているようにみえる。そしてその足さばきも練習していたようで、どんな形になっても左足と右足の配置が大きく変わることがなかった。

 すごいな、あれだけの動きをして自分の構えが大きく崩れないなんて。猫丸は改めて加藤の基礎の厚さを実感した。あれはきっと努力の賜だ。


 そして野上。野上に関しては現時点では特段変わった所はなく、猫丸も特別目を凝らして特徴を探そうとしていたほどだった。


 加藤の攻撃は竹刀でしっかり受けれており、ある程度彼の癖などは掴めているようだ。でも野上側から攻めることが中々ない。なぜだろう、猫丸は彼の戦闘スタイルが気になっていた。

 もしかしたら自分と同じように"相手を見る"ことに重きを置く剣道なのだろうか。でも気のせいか、単に攻撃のタイミングを掴めていないだけのようにもみえる。


 お互いが小さな小競り合いを終えた試合後約三十秒後。猫丸のそんな考えを出し抜くかのごとく、野上の強みが道場内で顕著に表れた。


「メエェェェェン!!」


 野上の面は加藤の面金※に当たって横に弾かれ、金属のような音が鳴り響いた。 

 加藤は野上が前に進む前に素早く後ろに下がり、再び距離を取った。改めて野上の打ちを警戒しようという姿勢だった。


※面金:面の正面を覆っている金属の格子のこと。面を打ったときに面金に当たると一本にならないことが多い。基本的には、面縁と呼ばれるその格子を覆っている円形の皮より奥を竹刀の物打ちで打てると有効打突になる。


 なんだ、今の面。せっせと動き回る加藤の面には正確に当たらなかったものの、その軌道は面に対して一直線だった。確かにまだ荒削りなところもあるし、熱田君に比べたら脅威度は低いかもしれない。

 それでも、あんな面をたった一年で打てるようになるなんて―――猫丸は心の底から驚いていた。


 それは熱田も同じことで、審判としてだけではなく個人的にも魅入っていた。


 あれは差し面とも呼ばれる面で、竹刀を面よりも上に上げて振り下ろす形を取らない面だ。面の打突部分に向かって竹刀を一直線に伸ばすようにして打突を行う。

 メリットとして、打ちが段違いに早いことがあげられる。打ちが早いということは相手が反応できないことが増えるし、単純に打突のチャンスが増える。


 一方で差し面は通常の面に比べて威力が落ちることが多いというデメリットもある。つまり、ある程度の技術と力が無いと、打ちが弱くて有効打突にならない可能性があるのだ。


 熱田は今一度心の中で気合いを入れ直した。

 ここまでのレベルとなれば、一本かどうか判断する自分の力量がより一層試される。有効打突を冷静に見極めろ。

 二人に合わせて移動しながら、熱田は自分の中での一本の基準を改めて確認した。


 加藤は細かく動き回りながら、小さく深呼吸した。

 さっきの面は危なかった。今まで二人で地稽古を重ねてなかったら、基本打ちで何度もあいつの面を受けてなかったら―――きっと避けれてなかった。


 俺の武器は常に動き回ることで、相手の形を崩せること。でもそれはきっと脆さでもあるんだ。あいつはそれを知ってたからこそ、動きの中から生まれる一瞬の隙を突いて、あの素早い面を決めにきた。試合という緊張感の中だったから、その弱点にようやく気付けた。


 でも俺はこうやって練習してきた。だから信じるしかない。今考えるべきは、取っちゃいけない行動と、どうやって攻めるかだ。

 

 加藤は不規則に動いているようにみえて、自分の中である程度狙いを付けて動いていた。その動きに対する相手の反応を見て、攻めにも守りにも転じられるようにする。

 試合開始から一分が経とうとするまで、加藤は単調な攻めを繰り返していた。面を打つにしても途中で守りに切り替えたり、小手を打ったらそのまま相手にぶつかりにいったり。とにかく無難な動きで、自分の動きを改めて確認していた。

 そして試合開始から一分半が経った頃、加藤の機構がハマるタイミングが訪れる。


「コテッ! コテメエエェェン!!」


 一度目の小手はフェイントとも取れないほど、小さなものだった。それでも身体はしっかりと足さばきを使って左側に持ってきていた。

 野上は、その身体ごと使ったフェイントにつられて身体を加藤に合せてしまった。その瞬間、加藤は即座に元いた場所に戻り、そこから竹刀を押さえつけるような小手を添えた面を打ちきった。

 野上はその面を避けようと思ったが、手に持った竹刀はその軌道を遮ることができずに停滞していた。


 まずい、野上は急いで首を回転させて熱田を見た。熱田の右手は高らかと挙がっており、そこには赤色の旗が揺らめいていた。


「面ありッ!」


 打突も、声も、残心も申し分ない。この一本は熱田からしても疑いようのないものだった。


 クソッ―――野上は自分の一瞬の決断を恨みながら元の場所に戻った。

 わかっていたはずだ、あいつがああいう剣道をすることは。それなのに、いつも通りあいつのテンポに合わせてしまった。それがあいつの狙いだってのに―――

 野上は肩を小さく回した。今は反省する時間じゃない。まだ時間はあるはずだ。


「二本目―――はじめッ!」


 熱田の声と旗が降りる音が、試合の再開を命じた。再び二人は一足一刀の間合いに入り、その瞬間から駆け引きが始まる。


 加藤は足を動かしながらも、冷静に頭を回した。これでいい、まだ試合時間は半分あるくらいあるだろうし、立ち回りは前半と一緒でいいな。

 危険が少ない駆け引きを繰り返して、もし隙が生まれたら積極的に攻め込む。危ないと思ったらすぐに動きでかき乱す。


 幸い体力は持ちそうだし、このまま自分のペースで進めれば勝ち逃げできる。加藤は自分の作戦に自信を持っていた。それはパフォーマンスにも直結し、加藤の足さばきから打突までの全てが、普段よりもキレを増していた。 

 

 それに気付いているのは、野上だけだった。


 一本取っているものと、一本取られているものでは、心の持ちようがまるで違う。当然一本を持っているものにも油断が生まれたりするリスクなどがあるが、基本的には一本取られている側の焦りや動揺の方が、よっぽど普段のコンディションを保てない要因となり得る。

 そしてそれは、野上においても例外ではなかった。


 熱田は審判をしながら野上の状況を感じ取っていた。

 焦っちゃダメだ、野上先輩。俺の予想では加藤先輩と野上先輩は実力が拮抗している。


 勿論それぞれの強みに相性はある。最初の一本目はそれが如実に表れた結果だ。一本を確実に決めに行くタイプの野上先輩、手数を増やして常に隙をうかがう加藤先輩。野上先輩の溜めを作る癖と、加藤先輩の多彩な攻めが旨くかみ合った結果、一本目の隙が生まれたのだろう。


 これはしょうがないことだ。彼らが何度も試合をしたら、きっと結果は大体半々になることだろう。それなら今考えるべきは、普段通りにやることだ。野上先輩がコンディションを崩せば、相性という小さな差がより一層開いてしまう。

 

 しかしそんな熱田の心の叫びは、野上には伝わらなかった。

 野上は時間が経つにつれ残り時間を気にしだし、自分の打突のタイミングすら取れなくなっている。それに相手は動き回る加藤だ。よりリズムの崩壊に拍車をかけている。


 このままじゃ試合が終わった後に後悔することになる―――熱田の顔が険しくなったときだった。


「ファイトォォォォ!!!」


 正座で観戦していた猫丸から飛ばされた大きな檄に、三人は一瞬思考を止めた。

 そしてそれからすぐに、それぞれが元々の状態に戻る。唯一先ほどと状況が変わったのは、野上だった。


 猫丸の声に一瞬戸惑った野上は、段々とその応援に純粋に心が喜んでいるのを感じていた。自分たちの剣道を見てくれる人がいる。その事実が野上に染みわたり、先ほどまでの焦燥感は薄れ、時間を気にすることがなくなっていく。


 そうだよ、俺は今加藤との真剣勝負の真っ最中なんだよ。勿論勝ちたい。でも今はこいつと全力で勝負することの方が大事だろ。

 時間なんて熱田に試合を止められたときに知ればいいことだ。残り時間、いっぱいいっぱいまで自分の全力を出し切る。自分の強みも、やってきたことも、全て乗せて後悔なく試合を終える。


 なあ、伏見よ。こういうのが見たいんだろ? 全く、ありがとうな。

 野上は心の中で猫丸に礼をした。


「メエェェン!! ドウゥゥッッ!」


 先ほどまでは加藤の攻撃が主体となっていた試合だった。しかし野上が無理矢理仕掛けた飛び込み面からの鍔迫り合い、それに繋げた流れるような引き胴が、確かに試合を動かした。

 

 それぞれが単調な攻撃で、一本で終わるような幅のないものばかりだったが、それを繰り出すのがスピード感のある野上となると、そのどれもが一本になりかねないものとなる。


 そんな彼の差し面の技術を使った遠くから飛び込んで打つ飛び込み面、そこからぶつかって即座に後ろの下がりながら打つ引き胴は上手く当たりはしなかったものの、熱田でも目を見張る攻撃力を誇っていた。


 痛ぇなあ胴外しやがってこんにゃろぉ―――ってかなんだよ、息吹き返しやがって。このまま勝ち逃げしようとしてた俺が馬鹿みたいじゃねえのよ。加藤はそう思いながらも、自分の上がる口角を無視できずにいた。


 そうだよな、閉幕にはまだ早いよなあ。やろうぜ、どこまでも攻め倒してやるからよお―――加藤は高揚する自分の思いをそのままに、吠えた。


 そこからは一進一退の攻防戦だった。野上の素早い一本から始まり、それに呼応して加藤が数多の角度から応じ技を打とうとする。野上はそれをいなして自分の一本を決められるタイミングを作る。加藤は間合いを作らせないように積極的に動きでかき乱す―――試合は目まぐるしく展開を変え、熱田もより一層集中力を高めて一本を待っていた。


 あと少し打つ力が強ければ、あと少し竹刀に当たっていなかったら、あと少し残心が取れていたら。一本になっていた"はず"の打突を何度も見逃していた熱田は、むず痒さを感じていた。


 乱戦によって野上が普段の打ち方をできていないせいなのか、加藤が野上を揺さぶることに重きを置きすぎて自分の打突を見失っているからなのか、二人とも中々一本になるほどの綺麗な打突が生むことができずにいた。


 いい試合だ、でもそれじゃあ一本にはならない。落ち着いて狙いにいくんだ。自分の強みを最大限に活かすんだ。猫丸も試合内容がいいだけあって、一本が出ない展開に口出しをしたくなっていた。


 それでも自分は応援することしかできない。今現在の彼らの剣道をこの目で見届けることしかできないんだ。猫丸は「一本!! ファイトォ!!!」と再度大声で檄を飛ばした。


 その時、猫丸の手元から電子音が鳴り響いた。それはどこまでも、無機質な音だった。


「じ、時間です」

「止めっ!!!」


 猫丸が時間を知らせると、それに呼応して熱田が両手の旗を真上に挙げ、試合に止めをかけた。その場にいた全員が、不完全燃焼を感じていた。


「勝負ありっ!」


 熱田は加藤側に持っている赤い旗を天に掲げ、加藤の勝利を告げた。それと同時に、二人は蹲踞の形を取り、竹刀を腰に帯刀した。


「「ありがとうございました」」


 悔しさと、もっとやれたという思いが胸の中を駆けめぐっている野上も、更に自分の技と戦い方をぶつけたかった加藤も、そのどちらもが最後は静かにお辞儀をしてコートの外に出た。

 

 この瞬間、加藤と野上の初となる試合が、それぞれの記憶に色濃く残る魂のぶつかり合いが、ひっそりと幕を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る