轅下之駒(えんかのこま) (2)
「はじめ!」
私のかけ声と共に開戦した二人の試合は、声援などを纏って今日一番の盛り上がりをみせる―――かに思えたが。
実際の試合は、それとは真逆と言っていい方向で、異質さを光らせていた。
その原因は間違いなく露峰君であり、彼の影響で相手選手も立ち振る舞いに動揺を隠しきれずにいた。
露峰君につられてか彼も上手く攻め込めず、打撃と足の打ちこみのタイミングもずれ、一本となる打突を繰り出せずにいる。
このコート内で起きている嫌な流れの、ただ一つの要因。
それは露峰君がとにかく『攻めない』こと、これに尽きた。
試合開始から三十秒。ここまで露峰君から攻撃を仕掛けることは一切なかった。対戦相手が攻撃にもならない打撃を数回繰り返しただけで、試合は全くと言っていいほど動かない。
最初の数秒だけならまだしも、これだけの時間アクションがないとなれば、経験者であろうがなかろうが違和感を覚えたことだろう。
なぜ、攻めない。君は期待の新人なのだろう。浄心道場などという大手の道場に鍛えられ、その中でも指折りの存在となった男なのだろう。
私は眉を曲げていた。
そんな男が―――なぜ。
私がここまで感情を動かされていたのは、彼がただ攻めないからだけではない。
"攻めない"という姿勢を貫く彼が、疑いようもなく本気で勝とうとしていたからだった。
露峰君はとにかく攻めなかった。しかし、時折見える彼の表情や目線には溢れんばかりの"熱"が感じられた。
稀にいる。勝負を捨てており、やる気の無さから攻めの積極性を失う選手。弱小校の副将、大将に多いイメージだが―――少なくとも露峰君はそういう連中とは異なっているように見えた。
試合開始から一分が経とうとしている今、私を含めた三人の審判が苦い顔をしながらも反則を取っていないのは、きっとこれが理由だった。
副審の一人がしびれを切らしたように両手を挙げたのは、それから十数秒経った後のことだった。
先にその光景に気付いた燕ヶ丘の選手は、急いで自分の足元を確認していた。きっと自分が気付かぬうちに場外に出た可能性を危惧したのだろう。
「やめっ!」
私の声が試合を止めた瞬間、露峰君は信じられないほどの速度で首を回し、私を睨んだ。露峰君が止めに気付いたのは、この瞬間だった。
その目は現実を受け入れているようで、どこか藁に縋っているように小刻みに震えていた。
「審議!」
私は旗を片手にまとめて、審議の旨を選手二人に伝えた。それを聞いた露峰君は少し意外そうにこちらを向いたが、すぐに対戦相手と竹刀を交わし、帯刀して後ろに下がった。
ここら辺からだ。露峰君を応援していた人達の表情が、明らかに曇り始めたのは。
選手二人が完全にコート内の端まで下がったのを確認すると、三人の審判はコート中心に集まった。
「言わずもがなですが―――分かってくれますよね」
初めに口を開いたのは、試合に待ったをかけた副審だった。彼は様子をうかがうように私を見上げた。彼は、露峰君の経歴を我が物顔で語っていた、その人だった。
「―――ええ、時間空費ですね。どうしましょうか、取りますか。私は―――」
賛成です、そういうはずの口は、私の脳から発せられた指令を無視するようにぴたりと動きを止め、私の瞼の裏には彼の試合前の顔がフラッシュバックしていた。
それをかき消すように、私は「すいません」と二人に目線を合わせ、再び口を開く。
「私は、取ってもいいと思ってます。どうでしょう」
「自分は言い出しっぺですし、もちろん賛成ですよ―――」
二人の目線を向けられた最後の副審は、特に表情を変えることなく小さく頷いた。
「無論、私も賛成です。それ以前に、多数決で負けてますしね。私には決定権があってないようなものでしょう」
その男はふっと笑みを浮かべ、ゆったりとした足踏みで元の場所まで戻っていった。彼に合わせて、もう一人の副審も慌てて元の場所へ戻っていく。
それを見た二人の選手はそれぞれ立ち上がり、足を振ったりして準備を始めていた。
あの副審―――確か名前は
覇気、というものがこの世にあるとすれば、ああいうものをいうのだろうと思う。
そしてもう一つ、彼に関する経歴には気になるところがあった。それは"数年前まで、浄心道場で剣道を教えていた"というものだった。
そんな男が、浄心道場出身の露峰君の審判をしている―――というだけで、彼が愛知県剣道連盟内でどれだけの地位にいるのかがなんとなく察せられる。
なるほど、露峰君の緊張はここから来ている可能性もある訳か。私は副審らのように自分の立ち位置に戻りながら、内心では頭を抱えていた。
私も本気で剣道と向き合っていた人間の端くれ。今の彼の心情をそっくりそのまま分かってやることは叶わないけれど、他ごとで頭を埋め尽くされた状態で試合に望むことの無謀さは、多少分かってやれる自負がある。
辛かろうが―――今は私は審判だ。すまない。
「時間空費、反則一回」
既に真ん中で構え直していた露峰君は、こちらを見て小さく頭を下げた。
審議をしている間に頭の整理を済ませていたのか、今の彼の立ち振る舞いはどこか納得の要素が多く含まれているように見えた。
「はじめ!」
私は声を上げた。正直に言う。あの時、私の深層心理は露峰君を応援していた。しかし、私は彼に対して一切の贔屓はしていない。これも、本音だった。
中堅 白顎中 胴あり 燕ヶ丘中 反則二回で一本 引き分け
この結果が、その証拠だ。正確には、反則は合計三回取ることになった。
そんな試合だったにもかかわらず彼の胴が一本入ったのは、紛れもなく彼の実力の高さ故だった。
彼を応援していたはずの白顎中学サイドは、試合の中盤くらいからすっかり勢いを無くしていた。どこをみても、彼らの顔には不安と疑問がべっとりとこびりついていた。
当然、試合が終わって露峰君が自陣に帰るときも、彼を賞賛する拍手は一つとしてなく、傍から見ると露峰君は味方の元へ帰るどころか、まるで敵陣に首を差し出しに行くような雰囲気だった。
頼みの綱がこの状態で、彼らが奇跡の大勝利を掴めるはずもなく―――続く副将、大将は共に二本負け。結果として、初めの二人が善戦していたような印象を受ける試合展開で、白顎中対燕ヶ丘中の団体戦は幕を閉じた。
私は次の試合が控えていたこともあり、露峰君を横目で見送ることしかできなかったが、彼を包む周囲の空気が、誰一人として彼を受け入れていないことははっきりと分かった。
「覚えてますよ。鮮明に。だから、貴方に気付いたんじゃないですか」
そう訴えかける浪川を前にしても、露峰の表情はピクリともしなかった。
「なら、なぜ勧誘するんですか。俺の剣道は、剣道の世界では受け入れられないんです。もう、諦めたんです」
「いいたいことは分かります。ですが私は思うんです。君はあのとき、本気で勝とうとしていた。そうでしょう?
勝とうとすらしておらずにあの剣道なのと、勝とうとしてあの剣道なのでは、雲泥の差があります。貴方は後者だ」
露峰は依然としてうつむいていた。目線は下がり、網目状のタイルをした地面を睨んでいる。
その眼の中には光はなく、とうの昔に淀んでしまっていたようだった。
「君の剣道は、否定されるべきものではありません。試合において不利でも、それも一つの剣道です。ですから露峰君、君が剣道を捨てる必要はないんですよ。剣道を嫌いになる必要なんて―――」
浪川が露峰に近付こうとしたその時、露峰は浪川をさらりと交わして歩き出した。数歩歩いただけで、露峰は完全に浪川に背を向ける形となった。
「分かってないですよ」露峰は一瞬立ち止まった。
「え―――」浪川は蚊の羽音のように呟かれた声に、耳を傾けた。
「やっぱり貴方は、分かってないです。俺は、ダメだったから、負けたんだ。
俺は勝てないんです。勝てないと決まってるやつに、部活という集まりは向いてない」
露峰はそう言い残すと、何事もなかったかのように闇夜に向かっていった。
その背中を浪川が追えるはずもなく、浪川は声すら出せずにその場で立ち尽くしていた。
「勝てないから―――部活にいられない―――か」
浪川は拳を握りしめた。現役を引退しても、手の甲に浮かび上がる血管は当時のままだった。
『お前は、孤独に勝っていけばいいだろ』
耳に残っている過去の言葉が、浪川の頭の中に流れ込んだ。浪川はつい目を細め、眉にしわを寄せる。
『どうせ俺たちのこと見下してんだ。どうでもいいんだろ、俺たちのことなんか』
仲間になるはずだった彼らの声は、大人になった今でも浪川を呪っていた。
浪川はまた少し首を前に傾け、目を閉じる。
今、彼を救えるのが、私だけなのだとしたら―――浪川は心の揺らぎを自覚した。
浪川は決意を新たにして、職員室へと戻っていった。
その足取りは重く、それでいて、一歩一歩丁寧に地面を踏みしめているように、確固たる強さを持っていた。
電灯の明かりと道の暗がりを交互に通り過ぎていた露峰は、浪川の必死な表情を思い出して顔を歪めていた。
『君の剣道は、否定されるべきものではない』
電灯を通り過ぎた辺りで、露峰は立ち止まった。光に囲まれた闇の中で、露峰は何度も自問自答したことを思い出す。
否定されるべきものではない―――? そんなわけがあるか。なら、何故俺は勝てない? 何故俺は、試合の中で段々と不利にさせられなくてはならない?
その答えは至って単純だ。"剣道"という武道そのものが、俺にとって逆風なんだ。それ以外に、考えようがない。
露峰は首を回した。視界の端に、うっすらと闇を照らす明かりが見えた。
自販機か―――思い立った露峰は、徘徊するようにそこまで歩いた。
帰路から少し外れた所にあった自販機は古びており、ラインナップもあまり露峰が惹かれるようなものではなかった。
おしるこ、コーンポタージュ―――ミルクセーキ? なんだこれ。
露峰は悩んだ末に、卵のキャラクターがパッケージの全体を占めていたミルクセーキを買った。
なんとなく缶を振り、そのまま自販機に備え付けられているベンチに鞄を置いた。鞄の隣に露峰も腰をかけ、缶の蓋を丁寧に開ける。
口に含んだ瞬間に味覚を支配する甘みの暴力に、露峰はつい「あまっ」と呟いてしまっていた。
そういえば―――俺、何を考えてたんだっけ。露峰はもう一度ミルクセーキを口に入れ、その糖分で頭を回した。
ああ、そうだ。剣道―――露峰は暗くなりかけたのをごまかすように、もう一度ぐっとミルクセーキを飲み込んだ。
昔のことなんて、どうだっていい。どうせ過去のことだ。でも時々、どうしても思い返してしまう。こういうことがあった後は、特に。
自分の剣道で、綺麗な一本を生む快感。相手を出し抜いた時の、あの高揚感。楽しかったし、心の底からまたやりたい、もっと強くなりたいと思えた。
その結果が、これだ。強くなりたかったはずの俺は、年々自分の首を絞めるような剣道をするようになっている。俺が一番、俺の剣道の問題点を知っている。
思えば、いつからだろう。俺がこんな待ち剣※でしか、剣道ができなくなったのは―――
露峰は星空を見上げ、小学校時代に思いを馳せた。
※待ち剣:自分から攻めずに、相手の打ちをとにかく待つような剣道のこと。一般的には悪い意味で使われる。
俺がまだ、思い思いの剣道をしていた頃。結果もしっかりついてきており、周囲からは常におだてられていた。
全盛期は浄心の中でも三位とかになってたっけ―――あれは確か、小学校三年生くらいの頃だ。
ああ、そうだ。あの道場内試合らへんから、俺は更なる強さを求めるようになったんだ。
まだ、上に二人いる。第一、今回の結果もまぐれかもしれない。
いつ何時でも、どんな相手でも、安定して勝てるようにならなきゃ―――って、今思えば、強欲だったな。
『露峰君は応じ技が上手ねえ』
誰かの母親だろうか―――ねっとりとした口調で告げられる言葉が、俺の耳に引っ掛かった。
自分の武器は、多彩な応じ技だ。それは当時から分かってた。そんな自信に拍車をかけるように、周りの大人達は俺の応じ技を褒めちぎった。
俺は小学生ながらに思った。
"応じ技で一本が取れるなら、俺が攻める必要ないんじゃないか?"
この考えが、全ての元凶だった。
とはいえ、この"相手の動きを見て駆け引きをし、その後で応じ技を打つ"という考えに関しては、実は間違っていないらしい。これは
駆け引きができないと剣道では勝てないし、ただ自分のタイミングで打つだけでは一本は決まらない、というのが、この考えの全容だ。
当時の俺の問題点は、攻めることに対してリスクを感じすぎていたことなんだと思う。
当然、自分が飛び込んでどこかを打てば、その出ばなを狙われるかもしれないし、中途半端になった打突を応じ技で返されるかもしれない。
応じ技が得意だった俺にとって、このリスクは恐怖でしかなかった。
しかし、待ち剣にもリスクはある。それは相手の打突に反応できなかった場合だ。応じ技を待っていようが、こっちが応じるより先に相手の打突がこっちの部位に当たれば、それは相手の一本になってしまう。これでは本末転倒だ。
俺はこれを失念していた。いや、"応じ技への自信から、目に入らなくなっていた"といったほうが正確かな。
とにかく、俺は待ち剣に希望を見出してしまった。そこからは、追求に次ぐ追求だった。
応じ技の研鑽は勿論のことながら、打たれるときの相手の出方をも研究した。竹刀の受け流し方やそのタイミング、相手によっての有効打なども経験則などから突き詰めていった。
手首が柔らかいのは、ありがたいことに生まれつきだった。ちょっとストレッチをするだけで、竹刀が思い通りに回転してくれる。
それでもストレッチは毎日欠かさなかった。この柔らかさが無くなれば、俺は翼をもがれた鳥になってしまう。そう考えるだけで、目の前が真っ暗になるようだった。
戦い方が決まった俺は、それまで以上に身体が軽くなっていた。試合に臨む際も心は自信で満たされており、道場内のどんな強者を目の前にしても物怖じしなくなっていた。
この戦い方では勝てないということに気が付いたのは、俺が攻めなくなってから三ヶ月経ったくらいの頃だった。
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