轅下之駒(えんかのこま) (3)
一ヶ月に一回の、道場内試合。道場に与している全員が参加する、道場内の一大イベントだった。
俺が三位になった道場内試合から一ヶ月後。俺は再び第三位の成績を残した。もう一ヶ月後の道場内試合では、少し下がって第五位となった。
俺は焦っていなかった。今勝てないのは、俺が成長しているからだ。この戦い方が身体に馴染むまでの、成長痛のようなものだ。
このまま研鑽を続ければきっと、俺は今まで以上の力を発揮できるようになる。そうなれば、俺はもっと、勝てるようになるはずなんだ。
そう、信じ切っていた。疑うこともなく、前だけを向いていた。
「五位でも凄いじゃない。もうお母さん、色んな人に褒められちゃって。
送り迎えをしてくれていたお母さんは、いつでも俺を誇りだと言ってくれた。
俺は褒められるのに慣れてなくて、いつも下を向いて小さく「うん」と言うことしかできなかった。
でも俺の心の中は力強く燃え上がっていた。
五位でも凄い。そんなこと、もう二度と言わせない。周りとは違う強さで、この浄心道場の頂点に立ってやる。
それでもっと、お母さんに胸を張らせてみせる。だからもう少し待ってて。
「これは、またトロフィーが増えちゃうかなあー? 楽しみだねぇー」
お母さんは車内に流れる音楽に身体を任せ、どこまでも上機嫌といった様子だった。
俺はそんなお母さんを苦笑いで眺めていた。
そして迎えた次の道場内試合。俺は入賞を逃した。八位以内にも入れず、決勝トーナメントにも残れなかったのだ。
"時間空費"。こんな反則が頻繁に取られるようになったのも、この時期からだった。
どうして―――俺は、俺が信じた道を、まっすぐに突き通してきたのに。
俺は焦り始めていた。
試合が終わって、皆が帰ろうとしているとき。俺は道場の先生らの集まりに向かって走っていた。
「あの―――!」
俺の声に反応した先生らの表情は、今でも忘れられない。
以前とは違う、"可哀想な人"を見るような目。俺は自分に向けられているそんな目線を、すぐには受け入れられなかった。
「どうしたんだね、露峰君」
数いる先生の中で、声を上げたのはたった一人の老人だった。垂れには達筆な刺繍で"
土本が少し屈んで俺の話に耳を傾けたのを確認すると、他の先生らは一人、また一人と俺から目を離してどこかへ消えていった。
「あ、えっと―――」俺は動揺が収まらずに、言葉に詰まった。
「大丈夫だ。私は逃げない。落ち着きなさい」
低く、落ち着いた声を前に、俺は息を整えた。彼はこの道場の重鎮で、他の先生も頭が上がらないような、そんな威厳ある師だった。
「俺―――いや僕」
「構わないさ、一人称なんか、なんでも」土本はふっと笑った。
「ああ、じゃあ、俺―――」俺は大きく息を吸った。
「勝てなく、なっちゃって。それがなんでか、分からなくって。でも俺、自分が強いと思う剣道を必死でやってて、それなのに反則を取られたりしてて―――」
俺は思いつく限りの疑問を、箇条書きのように並べた。土本はそれを聞いて「ふんふん」と相づちを重ねていた。
「つまり、思った通りの成果が出ていない、と」
「その―――はい、そうです」俺はまだ言いたいことが喉の奥にあったが、土本の言葉に一応の同意を示した。
土本は「ふーむ」と天を仰ぎ、顎に手を当てていた。それは本当に悩んでいるのか、疑いたくなってしまいたくなるような素振りだった。
俺が答えを待っていると、土本は首をかしげて俺を見下げた。
「君は、まだ若い」
「は、はあ―――」俺は想像の斜めを行った回答に、面食らっていた。
「一度試合に勝てなかったからといって、自分を否定してしまうのは勿体ないのではないか、ということだ。
試して、間違えて、正して、また間違えて、それをまた直して。そうやって皆、研鑽を重ねていく。君はまだ若いのだから、この過程を省略してしまう必要はない」
俺は、いまいち言っている意味が分からなかった。
勝てなくなった原因が今すぐに分かれば、俺はすぐに軌道修正できるんじゃないのか。それしてくれるのが、先生じゃないのか。
俺のあからさまに納得していない表情を見た土本は再びふっと笑い、俺の頭に手を置いた。その手は大きく、それでいて固かった。
「まあ、もう少し己を信じてみたまえ。それからでも、遅くはないだろう」
土本はそう言って俺に背を向けた。その背中は大きく見えたのに、どうも俺の気持ちは落ち着きを取り戻していなかった。
勝てなかった俺を、信じる―――このやり方を、まだ信じて良いのか。俺は揺れていた。
土本の背中に小さくお辞儀をし、俺も彼に背を向けた。歩き始めても尚、俺は前を向けずに床の木目を目で追っていた。
「あれ―――」
とぼとぼと道場内を歩き回りながらふと頭を上げると、俺はそこにお母さんの姿が見えないことに気付いた。いつもなら試合が終わると同時に、タオルを両手に抱えて俺を迎えに来てくれるのに。
首を回して数多の大人達を見渡しても、どこにもお母さんが見当たらない。
俺は不安になった。来ていないはずはない。俺はすぐに自分の防具がまとめられている所に走り、手早く帰りの支度を終わらせた。
竹刀袋、防具袋、その他の用具が入った手提げを小さな身体に抱えて、俺は駐車場に向かって走り出した。このときの俺は、心中穏やかではなかった。
心臓を直に触られるような、そんな嫌な予感が付いて離れなかった。
お母さんは、俺が試合に勝てなかったからといって叱るような人ではない。それは誰よりも俺が分かってる。
なのになんだ、この胸騒ぎは。俺は気味が悪くて仕方なかった。
朝の記憶を頼りに、俺は送り迎えしてた場所までたどり着いた。そこには、エンジンがかかったまま停まっているお母さんの車があった。
運転席では外をおぼろげに見つめるお母さんがいる。俺はその場で一瞬立ちすくんだ。
どうしてだろう、俺の両親の車のはずなのに。どうにも今の俺は、この車に歓迎されていない気がする。
俺は慎重に車に近付き、窓ガラスをとんとんと叩いた。
それに気付いたお母さんは「あぁ」と口を開けて、車のロックを外した。
「ごめん、遅くなって―――」
俺は無意識のうちに謝罪した口を疑った。しかしこの時の俺は、どうにも謝らなくてはいけない気がしていた。
「ううん、全然。お疲れ様」
心のどこかで怯えていた俺を安心させるように、お母さんの声色は驚くほど優しく、"普段通り"だった。普段通り過ぎるくらいに、その言葉には人間味がなかった。
俺は車内の空気感がふわふわと形を成していないことに違和感を覚えつつも、荷物を後ろの座席に一つ一つ丁寧に詰め込んだ。
後部座席の扉を静かに閉め、俺が助手席に座ったと同時に、お母さんが前を向いたまま口を開いた。
「ごめんね、今日人多かったからさ。迎えに行くより、先に戻ってた方が―――周りの邪魔にならないかと思って」
エンジンをかけながら、お母さんはそう言った。口元はぎこちなく吊り上がり、話し口調も若干乾いているような気がした。
「ああ、うん。ありがとう。それが、よかったと思う」
俺の言葉を最後に、車内は静寂に包まれた。
いつもと、違う。どんな鈍感な人間でも気付くほどの、居心地の悪さだった。
今日に限って、よく赤信号に捕まる。俺は外に目を向けた。見慣れた景色過ぎる窓の外は、俺に少しの心の余裕も与えなかった。
「次の試合は、いつなんだっけ」家が近くなってから、ようやくお母さんが口を開いた。相変わらず、声色は柔らかい。
「来月の―――第二日曜日だったはず」
「そう―――頑張ってね。大事なのは、試合ごとに成長することなのよ。結果なんて、将来的に見たら二の次なんだから。ね」
お母さんはそう言って笑った。この瞬間、俺は子どもながらに悟った。
この人は今、全力で隠そうとしている。一つの誇りを失ったことに対する、その悲痛な叫びと恥ずかしさを。子どもの俺にバレないように、必死で押し隠しているんだ。
それに気付いた俺は、一気に焦燥感に襲われた。
俺が勝てないことは、俺だけの問題じゃないんだ。早く、早く前みたいに勝てるようにならなきゃ。成長過程なんて言ってる暇ない。
無性にうずうずする心臓を掻きむしりたくなる感覚に耐えながら、俺は拳を握りしめていた。
それから俺は、日課だった素振りを二倍に増やした。動画での研究に費やす時間も増やし、サランラップの芯を竹刀に見立てたイメージトレーニングも四六時中行った。
戦い方は決まってるんだ。土本先生にも言われたじゃないか。
道を間違えるにしても、全力でその道を進んでからじゃないと、間違いが俺の成長にならない。それは俺も理解していた。
道場内でも俺は必死で努力した。血が滲むような練習も、勝てなくなることに比べれば大した壁じゃなかった。
そうして迎えた道場内試合。俺は一回戦で敗北した。
開始一分程度で反則が取られること、これは前回の経験上許容範囲内だった。でも俺はこのとき、審判の心象というものを失念していた。
自分で言うのはなんだが、俺はこの試合の中で二、三本、有効打突があった。しかしそれが一本になることはなく、代わりに相手のまぐれ当たりのような竹刀が俺の面をかすめ、それが相手の一本となってしまったのだった。
負けた瞬間、俺が探したのはお母さんの顔だった。
まずい、こんな結果を残したら―――俺が道場の扉に目を向けたときにはもう、遅かった。
お母さんは道場に背を向け、どこかに歩いていってしまっていた。
俺は流れるままに道場の端に向かい、雑に防具を脱ぎ捨てて胴着姿で体操座りしていた。
やってしまった―――というか、あれは絶対贔屓だ。あんなのおかしい、反則を取られたって、その後の打突は公平にみるべきだ。
それに時間。三分なんて短すぎる。受けて一本を狙う俺には時間が足りないんだよ。その点他の人は良いよな、反則も取られないし審判の心象も悪くならない―――
そう思った瞬間、俺の頭には土本の顔が浮かんでいた。
そうだあいつ、あいつのせいで俺はこんな戦い方を続けているんだ。文句言ってやる―――
俺は立ち上がり、土本を探した。あの人は偉い人だ。きっと審判とかはせずに、どこかでどっかり座っているはず。
俺の予想は正しく、土本は道場の垂れ幕の下の方でパイプ椅子に座っていた。そして彼の前には、大量の門下生が列を成して座っていた。
俺は久しく見るその景色に、頭をトンカチでぶん殴られるようなショックを受けた。
負けた選手は、いち早く先生の元へと向かって助言をもらう。これが道場の中での常識だった。俺も数年前までは彼らのように、試合が終わってすぐ先生の元へと走っていた。
俺はそんな敗者が見る景色を眼前にして、改めて絶望を覚えた。
俺はここまで落ちてきたんだと、嫌でも再認識させられた。
「お願いします―――」
ようやく順番が回ってきて、俺は土本の真ん前で正座していた。俺が深くお辞儀したのを見て、土本は眉をひそめた。
俺が頭を上げると、土本は少し唸って言った。
「見てたよ、試合」
抑揚のない土本の言葉に、俺はなにも言えなかった。一言言ってやる、と思っていた俺は、既にどこにもいなかった。
「君は、勘違いをしているな」
「は―――?」俺は気の抜けた声を上げてしまっていた。
「自分の強みと、それを活かす手段を見失っている。改めて考えてみるといい。最も優先すべきことは、強みを活かすことだ。優先順位を間違えないこと、これを徹底しなさい」
それだけいうと、土本は「はい、次」と俺に向かって頷いた。俺は耳を疑った。
こんなふわっとした答えで満足しろというのか。そんなの―――食い下がろうとした俺を止めたのは、俺の後ろに続く長蛇の列だった。
俺はしぶしぶ頭を下げ、「ありがとうございました」とだけ言ってその場を去った。
周囲では未だに気迫のこもった声と、地面を足で打つ音が響き渡っていた。ふと目をやると、そこには強者達が思い思いの剣道で相手を打ち負かさんとしている姿があった。
その光景がなんだかまぶしくて、俺は再び自分の足元に目線を戻した。
勘違いをしているだの、見失っているだの。やっぱり俺のやり方が間違ってたんじゃないか。ならあの時止めてくれればよかったのに、意地悪なおじさんめ。
それにあの感じ、どうせ何度聞いてもあんなようなことしか言ってくれないのだろう。
でもどうしよう、俺の強みは応じ技な訳で、それを活かすなら今の戦い方がベストなはずだ。それを変えるなんて―――上手くいくところが想像できない。
俺は先ほど座り込んでいた道場の端に戻り、力なく腰を下ろした。
わからない―――けど、探るしかない。今のやり方が間違ってるなら、新たなやり方を模索するしかないはずなんだ。
俺はぼんやりと試合を眺めながら、決意を固めた。
俺は早速、次の練習から色々なことを試そうとしていた。
普段よりもより自分の打突に意識を向け、打ち込み稽古に真摯に向き合った。
そしてようやく迎えた地稽古。俺はこれを試合だと思って臨むことにした。
幸いにも、対戦相手はそこまで強すぎるような存在ではなかった。これなら戦い方の模索もスムーズに行えるはず―――俺は竹刀を握りしめた。
地稽古が始まると、俺はまず自分から打ち込みに行こうとした。積極的に足を動かして、相手の隙をうかがう。
やはり、久々にこういう立ち回りをすると身体が重たい。打ちにいけるかもしれない、と思った矢先に、その隙は閉じられてしまっている。
結局その地稽古の間には、上手く攻め込むことは叶わなかった。
でも大丈夫、今までずっと受ける剣道を続けてきたんだ、簡単に戦い方を変えられるとは思ってない。俺は多少苦労することを覚悟していた。
俺はすぐさま他の相手を見つけて、地稽古を頼み込んだ。
三人目くらいからか、俺は相手を前にして動けなくなっていた。
これが地稽古だと思えば、適当に打ちにいくこともできる。しかし試合だと思ってしまったが最後、俺の身体はその場に植え付けられたように動けなくなってしまう。
なんで、打ちにいけない。その疑問には、すぐに自分の心の声が応答した。
怖い、打ちに行って打たれるのが怖い。それなら今まで通り、相手の打突を待って応じ技を狙った方が戦いやすい。もう少し待てば応じ技を狙えるかもしれない、とすぐに思考が受ける方向に走ってしまう。
しかしそれでは反則を取られるから―――それなら、それよりも先に応じ技で一本取ってしまえば良いではないか。
こんな調子で、"攻めなくては"と思えば思うほど、俺の立ち回りは消極的になってしまうのだった。
俺はこのとき、自分に起こっていることの深刻さを思い知った。これは"癖"というやつだ。イップス、といってもいいかもしれない。
無意識の領域に根ざした待ち剣という呪いによって、俺の剣道は既に、暗闇に閉ざされていたのだ。
それからはずっと、今の今まで勝てない状態が続いた。あの中学の団体戦だって、この延長線上に起きた事故だ。
結局道場も部活も、あの中学の試合が終わってすぐに全部やめてしまった。
あんなに俺を応援していたお母さんとは、一切剣道の話をしなくなった。お母さんの中では剣道は、一つの禁忌のような扱いになっているのかもしれない。
今ではそんなことすらなかったかのように話ができるのだから、俺はそれで満足だった。
でも時々、俺の防具を視界に入れては、寂しそうな顔をする所を見かけることがある。それを俺は、見て見ぬ振りしていた。
お母さんには申し訳ないとは思っている。だけどもう、限界だった。
露峰は飲み終わっていたミルクセーキの缶を、すぐ隣に置いてあったゴミ箱に放り込んだ。
全く、嫌なことを思い出した。でもこれで整理が付いた。
やっぱり俺の剣道は、試合に向いてない。だから俺は、剣道部というのに属するべきではない。
この覚悟ができただけで、こんなことを思い出した価値はあるってもんだ。
露峰は静かに立ち上がって、鞄を拾い歩き出した。
その背中には夜道の闇がまとわりつき、それはまるで街灯から離れる度に露峰の全身を飲み込もうとしているようだった。
次の日のこと。
一時間目と二時間目の間にある十五分間の休憩時間、露峰は教室で頬杖をついて黒板を眺めていた。
「一年三組、露峰樹君。露峰樹君。先日の放課後のことについて、呼び出しがかかっています。校長室に来るように。繰り返します、一年三組、露峰樹君―――」
露峰は天井を見上げ、放送が響いているスピーカーを睨んだ。その間にも放送は続いている。
この声―――入学式の時に聞いた覚えがある。校長か―――?
「露峰君、なにかしたの!?」
猫丸が焦って走ってくるのを見て、露峰は一層目つきを悪くしたのだった。
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