轅下之駒(えんかのこま) (1)

「中学時代のこと、やはり気になりますか」

 

 浪川の言葉を受けても、依然として露峰は黙り込んでいた。


「貴方、浄心じょうしん道場の露峰君ですよね。覚えていますよ、あの時のこと」


 その言葉を聞いた瞬間、露峰の眼光は鋭く尖った。


 浄心道場―――その言葉に心当たりがあるのは露峰だけではなかった。




「加藤先輩と野上先輩って、ここら辺の道場について詳しかったりします?」


 帰り道で突如として口を開いた猫丸に、前を歩いていた二人は少し驚きながら振り向いた。

 どうやら二人とも丁度ジュースの缶を開けるところだったようだ。


「んー知らんなあ。聞いたこともないや」加藤はそう言いながら後ろ歩きになった。

「俺も知らないかな。如何せん高校から始めたってのもあるし、俺たちまだ公式戦すら出たことないからな」

「そうなんだよなあ―――あ、でも見に行ったことはあるんだぜ。だけど高校の試合って高校ごとに分けられてるじゃん? だから道場とかはよく分からん!」


 二人の言い分は最もだった。高校の試合で選手の所属道場が露骨に公表されることは少ない。中学、高校にまでなると、選手達は"自身の学校名"という明確なレッテルを手に入れる。だから中高の選手は、一般的に試合では"○○高校の△△選手"といった形で呼ばれるようになる。


 第一、道場の名前で試合に出場するのなんて、大体は小学校くらいまでのものだ。


「そうですか―――じゃあ熱田君は?」


 猫丸は熱田の方へ顔を向けた。熱田はあの試合後、部室から自動販売機を通り今に至るまでの先輩らの全力配慮のおかげか、少しずつ顔色と雰囲気が戻っていたのだった。


「俺も知らんぞ。少なくとも、ここら辺の道場は知らん」

「え、でも小学校から剣道してたんだよね? 熱田君も道場行ってたんでしょ?」猫丸は首をかしげていた。

「ああ―――言ってなかったか。俺引っ越してきたんだよ、中三の時に。そこで近場の道場入ろうと思ったんだけど、学校の先生が部活使って良いって言ってくれてさ。結局道場は調べずじまいだったんだよ」

「え! そうだったんだ―――」


 抑揚もなくそう答える熱田に反して、猫丸は驚きを隠せずにいた。猫丸が受けている衝撃など気にもせずに、熱田はジュースをかき込んでいる。


 まさか彼が転校生だったなんて―――でも同時に納得もできる。小学校時代、中学校時代。こんなに強い選手がいて、僕が覚えていないというのも違和感がある話だ。


「でも待って、三年生の時に転校してきたなら、試合には出てるはずだよね」

「三年の八月だぞ。まあ出ようと思えば出れたかもしれないけど、色々と忙しかったんだよ。だからこっち来てからは、まだ公式戦は出てねえの」


 猫丸が試合のスケジュールを思い出しながら「なるほどね―――」と呟いていると、怪訝な表情をした野上が熱田に聞いた。


「なあ―――その時期って人によっては引退を考える時期だよな。そこから部活に入ったってことは―――お前受験どうした」

 

 野上の不安そうな顔を跳ね返すように熱田はあっけらかんとした顔をしていた。


「部活ばっかしてたら受験のこと忘れてました。だから当然勉強もしてなくて、ここに来ました」

「「「ああ―――そう―――」」」


 三人は諦めたような表情で熱田を見つめていたが、当の本人は何がいけないのか分からない、といった具合で眉を曲げていた。


「なんなんすか―――って、元々はこんな話じゃなかったでしょ。話し始めはお前だ、伏見。道場がどうとかって言ってただろ」

「ああ、そうそう。でも皆知らないなら良いかなって―――」

「それだと無駄に俺だけ残念な感じになって終わるだろうが。いいから言え」


 熱田の眼力を一身に受けながら、猫丸は「ええ―――」と声を漏らした。

 僕もうろ覚えだったから皆の意見を聞きたかっただけなのに―――猫丸は少し考えて、覚悟を決めた。


「間違ってるかもだから、真に受けないで欲しいんだけど―――あの露峰君の防具袋と竹刀袋、あれ多分浄心道場のやつだと思うんだよね」

「へえー、見ただけで分かるんだ」加藤はさっき買った缶ジュースの空き缶を頭に乗せた。


「はい。小学校の時に嫌という程見た気がして―――でも記憶が曖昧なんで、自信はないんですけどね」

「昔からやってるやつあるあるなのね、それは。で、それがどうしたのさ」

 

 野上の問いに猫丸が答えようとしていた時、それより前に熱田が眉に皺を寄せて声を上げた。その声は低く、顔には何か嫌なものでも見るような表情が浮かんでいた。


「浄心道場といえば、愛知の強豪道場っすよ。全国的にも有名です。俺は千葉出身っすけど、それでも知ってるくらいにはデカい道場すね」


 


「驚きました。まさか浄心道場の門下生が、剣道部に入りたがらない生徒だとは。おかげで気付くのが遅くなってしまいましたよ」


 浪川は相も変わらず貼り付けたような笑みを浮かべていた。その言葉、雰囲気、全てが露峰の逆鱗に触れるようで、露峰の表情は刻一刻と曇っていくのだった。


「あの試合を見ても、そう思えますか」

「あれは団体戦を嫌いになる要因になり得ても、剣道そのものを嫌いになる要因にはならないでしょう」

「だとしてもあんなもの、部活を嫌いになって当然でしょ。それに―――」


 露峰はそこで口を止め、ただ後悔していた。

 どうして、俺はこんな人と自分を重ねていたんだろう。一時とはいえ、当時の自分の正気を疑う。

 

 その間も浪川は常に"理解できない"といった表情で渋い顔をしていた。


「うーん―――露峰君が思っているより部活って自由ですよ? 試合に出たくないと言えば出なくて良いですし、場合によっては練習頻度だって選べます。そりゃあ他の部員に迷惑をかけることもあるかもしれませんが、その時は正直に全部話せばいいんです。

 人は選びますが、きっと理解して貰える―――」

「その迷惑が、嫌だと言ってるんです。貴方はあの試合から何も感じ取らなかったんですか。それとももう、覚えてないですか」


 露峰の強い口調は浪川の会話を遮り、その勢いは流石の浪川も少し気圧されるほどだった。

 

 あの試合―――浪川は当時の情景を瞼の裏に描いた。




 あれは約二年前のこと。露峰君がまだ中学二年生だった頃の話。

 私は既に翔蛉高校で教師をしていた。そして同時に、私は愛知県の剣道連盟けんどうれんめいの審判として、よくそこらの試合の審判をしていた。


 審判を始めたきっかけは至って単純なものだった。教師として安定してきたから、少し過去の経験でも活かしてみるか―――その程度の、軽い気持ちだったように思う。

 とはいっても自分も真剣に剣道をしていた身、どんな試合の審判でも気を抜くつもりは更々なかった。


 そんな最中―――私が審判を初めて二年が経った頃。名古屋近辺にて市内の中学校が集う剣道大会が開かれた。それが丁度、二年前のことだ。

 私は今まで通り、審判として淡々とその日を終えようとしていた。しかしそれを許してくれなかった少年がそこにいた。


 初戦、私が審判をすることになった試合は、白顎しらと中学 対 燕ヶ丘つばめがおか中学。燕ヶ丘中は所謂、発展途上校と言われるような学校だった。

 何度か表彰台に手が届きそうになっている所を見たことがあるくらいだから、強豪と呼ばれるようになるのも時間の問題かもしれない。


それなのに、対する無名の白顎中学の生徒らは目をギラつかせていた。そこには"敗北"の文字はなく、正面から格上を相手にしてやる、という気概が感じられた。


 素晴らしい心意気だ、私は感心した。たとえ実力や実績が離れていたとしても、勝負の世界は終わるまで何が起こるか分からない。

目の前の一瞬一瞬に本気になれる人間の元に、勝利の女神は微笑む。


 まだ中学生なのに、既にそんな精神性を持っているのか。正直、私は瞬間が訪れるまで白顎中学に夢中になっていたし、彼らの試合が楽しみになっていた。


 しかし私の期待は、幻想だった。


 白顎中学 中堅 露峰樹


 今でも覚えている。二年生ながらに白顎中学の中堅を任されていた少年。彼こそが、白顎中学の勢いの原因に他ならなかったのだ。


「彼は一体何者ですか」


 気付くと私は隣の審判員に尋ねていた。審判員は私の問いに一瞬戸惑い、少し頭を捻ると、すぐに「ああ!」と手を叩いた。


「彼ね、露峰君。浄心道場の子なんですよ。だから期待されてるんじゃないかなあ」

「浄心道場―――愛知で有名な、あそこですか。しかしあそこは確かに大きな道場ですが、だからこそ、入ってるだけじゃ強いとは限らないのでは―――?」


 審判員は私の問いに対して深く頷いていた。それは私に対する同意もありながら、この問いを予想していたような優越感すら感じ取れるものだった。


「それはその通りなんですけどね。どうやら彼の小学校時代の成績が中々よかったみたいで―――道場内試合でも三位になったこともあるとかないとか。あの道場で三位なんて、そりゃ誰でも期待しますよね。

 でも大丈夫かな、年々成績が芳しくなくなってるらしいし、過度なプレッシャーは本人のポテンシャルを下げますしねえ」


 やけに詳しいな、と私は思ったが、それもそのはずだ。彼はきっと私のような新米じゃない。故に、こういう誰が強い、とか、どこが弱くなった、といった情報は常に更新されているのだろう。


 と、そんなことは差しおいても、なるほどそれなら納得だ。そんな栄光を持ったやつが無名の中学に入ってきたとなれば、それこそ部活としてはお祭り騒ぎだろう。


 しかし、それなら昨年の試合に姿を現さなかったのはどうしてだろう。個人戦でも団体戦でも、少なくとも私が審判をしていた試合では彼の姿を見た覚えがない。やはり最近成績が悪くなってきている、というのが大きいのだろうか。


 そんなことを考えながらふと、試合前の露峰君を見てみると、私はその表情に目を見張った。

 なんだ、その顔は。お通夜に参列した時のような、絶望に満ちた表情。緊張とか、重圧とか、そういうのもあるだろうが、どう見たってそれだけじゃないだろう。


 あれは―――嫌な予感がする。私はあの時、初めて審判という仕事を放り出したくなった。しかし無情にも時間は迫り、気付くと初戦の開始合図が本部から伝えられていた。


―――それでは、一回戦目。準備してください。


 本部の声に従って、我々審判はコート内に入る。どこまでもツいていない私は、この期に及んで主審だった。


 私に続いて、他二人の審判がコート内に入った。そして彼らは止まることなく、私の正面に二人で並んだ。

 二人と軽くアイコンタクトをとり、私は両校の先鋒の選手を目で追った。


 燕ヶ丘中の選手は流石といった落ち着きようで、今から始まる初戦に対して特に緊張する様子も無さそうだった。これは目指すところが違うからこそだろう。

 それに比べて白顎中学の先鋒は、面を付けているのにかかわらず目が泳いでいるのが丸わかりといった様子だった。肩も上がっており、試合慣れしていないのが目に見えて分かる。


 流石に一人精鋭が入ったとはいえ、自分にかかる重圧は減らないか。剣道の団体戦は五人で行われるのだから、まあ当然といえば当然の反応なのかもしれない。

 

 私はそんな選手二人をコート内に誘った。心の準備ができていようがいまいが、試合の時間はやってくる。毎度この瞬間は試合慣れしていない選手に同情してしまいそうになるが、これは仕方のないことなのだ。


 一人は慣れた様子で、方やぎこちない素振りで二人は礼節を終え、中央で互いに蹲踞し竹刀を交えた。

 これと同じ礼節が全コートで行われている。それが目を閉じても足音や布の擦れた音で分かる。

 

 この瞬間にしかない、ヒリついた空気。私は嫌いじゃなかった。


―――それでは、第一試合を始めます―――はじめ!


 覇気のある放送に続いて、体育館全体で咆哮が轟いた。それは私の目の前の二人も例外ではなく、声においては両校とも差は感じられなかった。


 先鋒 燕ヶ丘中 面ありにて勝利

 次鋒 引き分け


 次鋒戦までを終えて、私の正直な感想は"思ったより食いつくな"というものだった。


 先鋒はやはり白顎中の緊張が祟ったか、開始数十秒で燕ヶ丘中の面が綺麗に決まった。しかし白顎中の選手は一本決められたことによって吹っ切れたのか、後半につれてコンディションが上がったようにすら見えた。

 結局一本取り返すことは叶わなかった訳だが、試合終盤は誰が見ても互角といった勝負を繰り広げていたと思う。


 次鋒は―――終始膠着状態といった感じだった。先鋒がなまじっか良い勝負をしたからだろうか、白顎中の選手は慎重、というよりも積極性のない剣道をしているようにみえた。

 頑張って攻めているような場面も見られたが、どこか腰が引けている。だから一本が決まり切らない。そんなことが二度、三度見られた。

 

 そんな相手だからだろうか、燕ヶ丘中の選手も非常にやりづらそうで、終盤では奇跡のような一本を警戒して無理に攻めることを止めていた程だった。


 そうして迎えた中堅戦。私はちらりと露峰君を視界に入れた。

 次鋒の選手に背中を押されてコートの前に立つ彼は、ひたすらに下を向いていた。

 白顎中の選手陣からは、今までに見られなかった程の声援が飛んでいる。しかし露峰君がそれに答えることは一切なかった。


 まるで個人戦のような雰囲気のまま、露峰君はコートに足を運んだ。それを見て相手選手も歩幅を合わせる。

 これはあくまで私の主観だが、あの時ばかりは燕ヶ丘中の選手が相当緊張していたように見えた。竹刀は小さく揺れ続けており、立ち振る舞いもどこかぎこちなくなっていたような、そんな気がした。


 二人が蹲踞の姿勢を取ったのを確認し、私は一瞬副審の方を目で追った後で、開戦を告げた。


「はじめ!」


 二人はすっと立ち上がりすぐさま竹刀を突き合せたが、それから私が違和感を覚えるのに、時間はかからなかった。

 

 なんだ、この少年は―――私を含め、三人の審判が不審に思っていたのは他でもない露峰君、彼の剣道に対してなのだった。


 

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