第二十二話・悪魔(前編)

 もちろん、いずれは彼女がこの場に来るとわかっていたし(むしろ早く来て交代して、と願っていたし)、だからなかなか来てくれないのでハラハラする程だった。


 七人のお客さんへの(見つめるだけの)応対をなんとか済ませた後、ようやく芙蓉が姿を見せた時、アイドル衣装を身に纏っていたこと+メイクが完璧に仕上がっていたことから、『あぁ、だから時間がかかっていたんだな』なんて納得して——


「…………」

「…………」


 ——ハチャメチャに怒られることを覚悟した、のに。


「………………」


 安喰さんへ何やら耳打ちをしたっきり口を閉じて、私への叱責や罵倒も行われない。

 もしかしたらおもんぱかってくれてるのかな、頑張った私に情状酌量の余地を感じてくれてるのかな。

 それとも喉痛めた? あんな大声出したから……。


「……澄河ちゃん」


 芙蓉は様々な思いを飲み込むように深呼吸を一度すると、抱えていた小さなポーチから、見覚えのある鍵を取り出して、そっと私の手に握らせた。


「わかるよね?」

「……うん」


 わかってしまう。確認の必要もない。これはついさっき見た図書室の鍵だ。

 つまり、お役御免。さっさと人目のつかない場所へ移動しろということだろう。


「更衣室使っちゃダメだからね。で着替えて、待ってて」


 コツコツと鍵を指で叩きながら露骨に伝えてくる芙蓉。わかったから〜〜〜そんなぷんぷんしないで〜〜〜怒ってる芙蓉も可愛いから〜〜〜。


 ついさっきまでとのギャップもあって申し訳なさより愛おしさが込み上げてくる。のを、グッと堪えて……


「それじゃあ芙蓉、安喰さん、あとよろしくね」

「……またね、園片さん」

「うん」

「澄河ちゃん、私達はすぐ後で、ね?」

「わかってるって」


 そそくさと出口へと向かい、なるべく誰とも接触しないようこそこそと図書室へ向かう。

 背中越しに倉橋さんの視線をビシビシ感じるけど、まさかこんな無茶振りをさせた後にメイド役もやれとは言わないよね……?


 そんなこんなで私の文化祭での役割は、突然突如、終わりを迎えてしまった。……なんか釈然としないなぁ……。


×


 図書室に着いてから着替えを済まし、せっかくなのでうろうろして時間を潰す。目立つ棚の中段にある、古びたハードカバーの児童書がふと視界に入って、気になったので手に取り、近くの席に腰掛けた。


「うわぁ〜懐かしいぃ〜」

 

 こんな文体だったっけ。というか一人称視点だったんだ! 小さい頃から大好きで全シリーズ読んだのに……すっかり忘れてるもんなんだなぁ……。


「やっほー」

「わっ倉橋さん」


 急に声を掛けられて反射的に顔を上げると、スライドドアを少し開けて顔を覗かせる倉橋さんがいた。


「おつかれ。さっきはありがとね」

「いえいえ、こちらこそ」


 詮索をしないでくれたのはありがたい。代償は大きかったけど。


「わーそれ懐かしい」


 倉橋さんは向かいの席に座って、私が持っている本に視線を落とした。


「ね。私小学生の頃、朝の読書週間で読んでたんだ」


 なんだかんだで読み始めると止まらなくて、気づけば本の半分くらいまでページは進んでいた。


 うっすらとしか覚えていない先の展開が気になりつつも、倉橋さんとの会話が始まったのでパタンと閉じる。


「私も! お母さんが好きでさ、今でも家に全巻あるよ」

「一緒一緒。きっかけとか覚えてないし、多分お母さんに勧められたんだろうなー」


 ひとしきり懐かしの学級文庫談議で盛り上がったあと、夕日が見え始めた窓を眺めて、倉橋さんは言った。


「楽しかったねぇ、文化祭」

「もう終わっちゃったみたいに言うね」


 終了のアナウンスが流れるまでまだ一時間以上ある。今だって芙蓉も安喰さんもクラスのみんなも頑張ってるし、お客さんは楽しんでるはず。

 私もできることがあるなら手伝う気はそれなりにある。


「できることはもう九割方終わっちゃったよ。あとは片付けくらいだし」

「片付けだって文化祭の内じゃん」

「それはそうだけど……あーあ、あと一週間くらいやればいいのに」

「それは飽きるなー。……倉橋さん的には物足りなかったんだ、今年の文化祭」

「そういうわけじゃないんだけど……そうなるのかな」


 倉橋さんは席を立ち、窓際に寄っていく。向けられた背中からはいつもの快活な雰囲気が薄まり、哀愁が滲んでいるようにも見える。単なる思い込みかも。


「私さ、みんな好きなんだよね、クラスのみんな」


 彼女が窓を開けると、隙間から生ぬるい風と微かな屋台の香りが流れ込んできて、祭りの終わり感をより一層強めた。


「だろうね」


 倉橋さんの指揮は『偉そうにしてやろう』という姿勢は全く感じられなくて、常に、誰かのためを思っているのがひしひしと伝わってくる。

 

「だからさ、みんなに幸せになって欲しいんだ。来年は受験もあるしさ、ぱーっと楽しめるのは今年が最後かもしれないじゃん? だからいろいろ考えてみたんだけど……思ったより上手くいかなかったなぁ〜」


 可愛い悩みと後悔だなぁ。なんて感心していた私へ、倉橋さんは滔々と続けた。


「せめてみんなには、もっとドキドキしてもらいたかったのに」

「……ドキドキ?」

「本当は今頃、桐谷くんは武藤さんと付き合ってるはずだったのにいい感じでストップしてるし、彩乃ちゃんと今村くんもあと一押し足りなかった」


「なに、それ?」


 いきなりクラスメイトの名前を列挙されても戸惑う。それに内容も……なんの話?


「何って、昨日今日の文化祭で期待してた変化だよ」


 倉橋さんはなんでもないように言う。


「私もまだまだだなー。読みが甘かったよ」

「読みって。誰も未来なんてわからないんだからしょうがないよ」


 これで合ってる? 励まし方あってる? 話噛み合ってる?


「未来はわからないけどさ、ほら、"今"の情報をある程度知ってたら、ある程度の予測は立てられるからさ、その分、期待とのずれにがっかりしちゃってね」

「どんな情報を知ってたの?」


 どんな時でもどんな場所でも中心にいる倉橋さんが握っていた情報……ちょっと気になる。


「えっとね……

佐依子ちゃんが去年からメイド服作ってるのは知ってたし、

男子がメイド喫茶やりたいのも知ってたし、

今年はミスコンなくなったから誰かはそういう路線の出し物やりたがるのも知ってたし、

先生が文化祭に並々ならぬ情熱を懸けてるのも知ってたし、

そうなればああいう出し物になるのもわかってたし、

他のクラスとか学校そのものを巻き込むのもわかってたし、

いろんな人の恋愛事情も知ってた」


 知り過ぎでは!?


「癖みたいなものなんだよね。勝手に情報収集して、勝手に予想と期待して、予想通りか期待以下の結果で勝手に落ち込む。その繰り返し。こんなんで私は全然ドキドキできなくなっちゃったから、せめてみんなは……って、気合い入れてたんだけどなぁ」


 悪魔。

 いや、別に悪口とかじゃなくって。

 蘊蓄うんちく好きの母から前に聞いた、『ラプラスの悪魔』という概念をふと思い出した。

 簡単に言えば、『この世の全ての知っていて、それを分析・計算することで未来がわかる存在』だ。

 彼女が行なっていることは小規模ながら、まさにそんなようなことなんじゃないだろうか。

 だとするなら凄いけど、確かにあんまり面白くなさそうで、少し同情する。


「でもね、二人のおかげでちょっとは報われたよ」

「二人?」

「そう。澄河ちゃんと、芙蓉ちゃん」


 ざわ、と。嫌な色の風が私の胸元を撫でて、感情の種を埋め込んだ。直感する。この種は、育ってはいけない。


「安喰さんにアイドル役を頼んだら、澄河ちゃんを巻き込むのはわかってたし、そこから先を考えるのは楽だったし楽しかったよ」

「……やっぱり、さっきのことも予想通りだったんだ、芙蓉が遅刻してくるって」

「そうだよ。せっかく用意したうさちゃんの衣装無駄にならなかったし、安喰さんにもご褒美あげられて良かったぁ」

「一応聞くけど、どうしてわかったの?」


 やめて。聞かないで私。わざわざ自分から、自分の地雷を踏みに行く意味が——


「図書室の鍵を芙蓉ちゃんに任せるの、私が山科やましな先生に打診したから」


 ——っ……。

 自ら踏み抜いた地雷の爆発をきっかけに、胸にある不快感の種がむくむくと育っていく。


「どうせ今年は図書室の出し物ないんだし、真面目な図書委員だけの秘密の休憩所として使わせてくださいって、芙蓉ちゃんと一緒にお願いしたの。もちろん表向きは、緊急時の資料貸借係として」


 …………。


「そのまま鍵の管理は芙蓉ちゃんにお任せしたんだ」


 ………………。


「そんな場所あったら好きな人と一緒にいっちゃうもんね? 遅刻もしちゃうよ。ギリギリまで一緒にいたいもん。だけど二人とも、特に澄河ちゃんは責任感強いし、戻ってきてくれるって信じてた」


 ……………………。


「結果、二人の行動は大体予想通りで嬉しかったよ。ありがとね。この後はそうだなぁ……後夜祭には出ないつもりでしょ。二人だけで打ち上げ……もしかしたら澄河ちゃんの家でお泊まりとか??」

「ねぇ、倉橋さん」


 あぁ、久しぶりに聞いたな、この音。

 頭の奥で感情の糸が張り詰められていき、耐久値を超えるとプッチンと切れ、あとは甲高い耳鳴りが脳内で反響して、鼻の奥で血の香りが広がる。

 本当に久しぶりだ、特定の個人へ、怒りを抱いたのは。


が自分の趣味で……チェスでもするみたいに好き勝手するのは別にいいんだけど……その駒として、芙蓉を扱うのは許さない」


 どうしてこんなに怒っているんだろう。

 前までの私ならきっと、『二人の時間を作るためにいろいろしてくれてありがとう』ってむしろ感謝していたはずなのに。


 芙蓉の純粋さを、自分勝手な愉悦を得るために利用したから?


 芙蓉が私を想ってしてくれた行動の中に、他者の意思が介在しているのが気色悪くてたまらないから?


 違う。どれも正解だけど、完全一致じゃない。

 溢れてくる思いに言葉が追いつかない。


「芙蓉を……私の芙蓉を、我が物顔で気安く語らないで」


 胸中に渦巻くあらゆる罵詈雑言を押し殺しながらでは、その一言を絞り出すだけで精一杯だった。

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