第八話・ごめん。

「澄河ちゃん――」


 私の首元から、彼女のくぐもった声が聞こえる。か細く儚い声は、懺悔室の中で怯える子羊のようだ。


「――いいの?」

「…………」


 流されかけていた理性が少しだけ帰ってきたから、少しだけ、考える。手のひらの温もりを感じながら、少しだけ。


「……」


 いいの? って。答えは決まっている。だけどそれを、どの第一声に乗せて伝えるかを、考える必要がある。


「……」


 芙蓉のこんな姿、初めて見た。

 こんなにも切実に。飢えた子猫がミルクを求めるように、必死な姿を。


「……」


 本気なんだ。

 芙蓉は本気で、私が好きなんだ。

 全身全霊で抑え付けなくては不安になってしまう程、私を離したくないんだ。


「……」


 未知の経験、未知の感情、未知の感覚、正直に言えば全部怖い。

 だけど、怖いのに、愛おしい。

 可愛くて、抱きしめたい気持ちが体の芯から溢れてくる。


「芙蓉――」


 だけど、その前に。その気持ちのままに行動する前に。私は彼女に伝えなければならない。


「――ごめん」

「えっ……?」

「ごめんね、芙蓉」

「……澄河、ちゃん……」


 私の言葉を受けて、芙蓉は顔を離してこちらを見下ろした。

 暗闇に慣れた網膜のおかげで、不安気な表情がよく見える。


「違うの。そうじゃなくて」


 勘違いさせてしまったことを察してすぐに言い直す。


「きっと私、芙蓉のことたくさん傷つけてきたよね」


 こんなにも私のことを想ってくれている子に対して、私は今までどれくらい無神経な発言を、行動をしてきただろう。その度に芙蓉はどれだけ傷つき、悲しんできたんだろう。

 計り知れない。だから――


「……ごめんね、今まで本当にごめん」

「す、み……澄河ちゃん……!」

「私も芙蓉のことが好き。だから、


 覚悟を決めたとか、そんな大それた決意はない。ただ、私がしたいから彼女を抱き寄せた。

 芙蓉の温かい涙が首元に沁み込んでくる。


「澄河ちゃん……謝らないで……お願い。澄河ちゃんが泣いちゃったら……私、どうしたらいいかわかんないよ」


 震える彼女のその言葉で、私の頬からも涙が伝い、彼女の髪を濡らしていることを知った。


×


 気がつくと瞼がいやに重たい。どうやら涙を拭かないまま眠ってしまったらしい。

 どちらが先に寝たのかも、どちらが先に起きたのかもわからない。けれど、私達が押し入れの中で微睡んでいたことは理解できた。


 窮屈な空間で一ミリの隙間もなく寄り添い、手のひらを絡ませ、仰向けになって暗闇を見つめる。


「澄河ちゃん」

「なぁに?」

「嬉しい」

「何が?」

「何がって……『全部』だよ」

「哲学?」

「全然。もっと単純なこと」

「そっか」


 内緒話をするように、小さな声で言葉を交わす。寝惚けや疲れもあるだろうけれど、これくらいの響きがなんだか心地良い。


「特に……私が思ってたよりもずっと……澄河ちゃんが私を想ってくれてたことが、嬉しくて……今にもまた気絶しちゃいそう」

「何回寝るつもり? ……ずぅっと前から一緒だからね。でも本当に……今まで「いいの。もう全部、いいの」


 優しく落ち着いた口調の芙蓉に言い聞かせられ、私は口を閉じた。手のひらを握る彼女の力が強くなり、呼応するように私も強める。


「ふふ」

「えっ?」

「えへへ」


 妙に緩慢な空気のせいで油断していたとき、芙蓉は颯爽と再び馬乗りになり、悪戯な笑みを浮かべ私を見下ろすと、軽く鎖骨にキスをした。


「なんで? また?」


 もうとっくに満足したと思っていたのに。芙蓉が顔を上げることはない。少し汗をかいているので恥ずかしい。


「ダメ?」


 まるで私の返答がわかっているかのように、浮かれた声音で質問に質問を返す芙蓉。


「ダメだけど――」


 これだけ謝罪を繰り返している手前、ぞんざいな拒絶はしづらい。それも彼女の計算の内だとしたら、私はこれから先、何度言いくるめられるのだろう。


「――勝手にしたら?」

「そんな言い方されちゃうと……振り向いてもらいたくって燃えちゃうなぁ」


 芙蓉は自分の口角を舌で軽くなぞって、それから、十本の指を別の生き物みたいに蠢かせて私のシャツを捲り始めた。


×


 鍋に溜めた水が一瞬で沸騰するように全身が昂ぶる。

 脳内はのぼせ、湾曲し、まともな思考はままならない。芙蓉から与えられる感覚を漠然となぞるばかり。


 滑らかな芙蓉の肌が、じっとりと汗ばむだけでこんなにも艶めかしい。

 皮膚に食い込む爪の痛みと、なんとも言えない幸福感。

 耳孔を支配する熱烈な吐息と甘い湿度。


「そこ……もう……鎖骨じゃ、ない……!!」

「あは、でも澄河ちゃん……気持ちよさそうだよ?」

「だからダメなの……んっ……ぁ!」


 鎖骨の辺りから舌を浮上させた芙蓉は、私の首を満遍なく笑味する。

 絶え間なく押し寄せる得も言えない感触により、やがて全身が短く痙攣し——真っ暗なはずの押し入れで——瞼の裏に青空が見えた。


×


「ただいま~」

「「っ!」」


 玄関から響いた声に、今度は芙蓉の体も一緒にビクリと跳ねて互いに抱き合い一時停止する。


「おーい。……ありゃ、いない」


 和室の引き戸が開く音がして、それから疑問混じりの声が続いて、それから再び引き戸が閉まる音がした。


 間違いなく花梨さんの声だ。お仕事が終わって帰ってきたらしい。

 靴はあるのにリビングにもシアタールームにも和室にも私達の姿がないんだ、そりゃあ不審に思うだろう。しかも布団一組は出しっぱなしだし。


 あっ、芙蓉の部屋にいると考えるか。あぁいやいや、芙蓉曰く、部屋で遊ぶのは花梨さんが止めたんだっけ……?


「か、花梨さん、帰ってきたよ。もういいでしょう? 出よ?」

「……よくない。全然、足りないよ」

「??」

「声、出しちゃダメだよ」

「んっ……ねぇ、ダメ……!」

「澄河ちゃん……ふふ」

「っ……」


 さっきまでとまるで違う。快楽と背徳感が同時に襲いかかってくる。心拍数も比にならない。

 体は未だ感覚の主導権を芙蓉に握られていて、思うように抵抗もできない。


「声……出しちゃダメって言ったのに」

「芙蓉……」

「まだまだ、終わらないよ?」


 にっこりと。そこだけ切り取れば清楚極まりない笑みを浮かべた彼女の顔から、

 ぽたり、と。一滴の汗が私の胸元へと滴り落ちて。それを合図に、小休止は終わりを告げた。

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