第二十三話・悪魔(後編)

「澄河、ちゃん……? 怒らせちゃった? 私そんなつもりじゃ「倉橋さんには、いる?」


 窓を背にしてこちらを見つめる倉橋さんの瞳に、夕焼けのオレンジと動揺の色が混ざって揺れる。


「どんな存在とも一線を画す存在が。私にはいるよ。明確な一番がいる。わかってるよね。いろんなことを知ってるんだもんね?」


 言葉を紡ぐにつれ不快感が形容されていく。私と芙蓉しかいるべきでない花園を、他人に土足で踏み荒らされた気分だ。


「誰が芙蓉に恋焦がれようが憧れようが構わない。そんな当たり前のこと今更気にしない。だけど――」


 声を荒げないように努力する理性は残っているらしい。けれど必死だ。自然と手のひらが、拳の形に変わっている。


「――私にとって唯一無二の存在を利用して未来予知ゲームを楽しんでました、なんて言われたら不愉快になるって……わからない?」


 一歩、彼女に近づく。これから自分が何をしようとしているのか、明確にはわからない。この気持ちを知る前の自分じゃないから。どうなるのか、どうしたいのか、自分でも全く想像できない。理性を置き去りにして勝手に動く足に従う。なぜか脳裏には、窓の下の花壇がぎっていた。


「――ね、わからない?」


 一歩、倉橋さんが退しさろうとして、上履きの踵が壁にぶつかる。その衝撃でれた彼女の上半身が窓の外に出た瞬間、体は反射的に走り出していた。


「危ないッ」

「ぁ……」


 ほんの少し、バランスを崩しただけ。言うほど危なくなんかなかったし、こんなにも焦った自分が不思議でしょうがない。

 ともかく、気づけば私の左手は倉橋さんの腰に回り込み、右手は彼女の左腕を掴んでいた。


「……」

「……」


 至近距離で捉えた彼女の容姿は、今まで認識していたよりもずっと幼く見えた。こうして近くに立ったことで身長差がはっきりしたことも一因だろう。

 倉橋さんに対して抱いていたイメージが変様していく。


「突き落とされると思ったら、抱きしめられちゃった」


 やや呆然としながら、倉橋さんがぽつりと言う。


「…………突き落とす気は無かったし抱きしめてるわけでもないけど…………ごめん」


 いやに力んで彼女の体に引っ付いている両手を、強力なマジックテープ同士を剥がすようにして離す。今になって自分の鼓動が大きく聞こえてきて、相当緊張していることを知った。


「…………こちらこそ、ごめんね澄河ちゃん。本当に、軽率でした」


 倉橋さんは私から目を逸らさず、真剣で慎重な喋り口調で言った。どの程度かは測れないけれど私の気持ちは伝わっているみたいで……安心したような、申し訳ないような。


 なんとなく窓を閉め、さっきまで座っていた席に戻る。恐ろしく気まずくて、逃げ道を求めるように読みかけの児童書を開いた。


「…………困ったなぁ」


 ずるずると。背中を壁に擦りながら腰を落としていき、やがてポフンと体育座りをした倉橋さんは、膝を抱きかかえながら呟く。


「いつぶりだろ、こんなにドキドキしたの」


 初めて聞くその声音は、恐怖や嫌悪感はなく、どこか、高揚すらしているようで。


「私はみんなの事が好きだったのに……。……こんなことされるなんて一ミリも思ってなかった……! あは……私はみんなが好きなのに……あんな一面魅せられたら……ねぇ、澄河ちゃんのことを一番好きになってもいいかな?」


 あまりにも軽薄なその問いに、私もそう重くは受け止めなかった。


「いいけど、私の一番は一生芙蓉だよ」

「もちろん。そうじゃないとダメだよ。私はそれでいい。私はそれがいいの。そうじゃないときっと……あんなドキドキ味わえない」

「ふぅん。じゃあ勝手にしたら?」


 私は嫌だけどな。好きな人に好きな人がいたら。好きな人のことが好きな人がいるのは別にいいけど……。

 もしかして倉橋さんって……いや、言語化するのはやめておこう。


「このギャップに芙蓉ちゃんもやられちゃったのかなぁ」


 熱い視線を感じなくはないけれど、懐かしい読書への興味に意識は占められていく。 

 あっここ覚えてる。そうそう、主人公の猫が間違ってトラックに乗っちゃって、隣町に行く場面。

 見覚えのある町並みがどんどん遠ざかって、自分の知らない世界へ無慈悲に移送される描写が妙に怖くて、幼い私は不安で泣いてしまったほどだ。


 今読んでみると、キャラクターの可愛さの方が勝る。物語を客観的に読めるようになってきたってことかな。

 んーなんかこの猫、芙蓉みたい。自由で従順で、頼りがいがあるのに可憐で放っておけない。

 はぁ。もう早く文化祭終わらないかな。早く芙蓉に会いたい。早く独占したい。


「いいなぁ……芙蓉ちゃん」


 しゃがんだまま天井を見上げ、倉橋さんは言う。どこか違和感のある台詞に、ページを捲る手が止まった。


「それを言うなら、『いいなぁ澄河ちゃん』じゃない?」


 芙蓉に好きと言える幸せ、芙蓉に好きと言ってもらえる幸せ、甲乙つけがたいけど私の方が幸せなのは間違いない。


「んーん。何にも間違えてないよ。さっき、澄河ちゃんに見つめられた時に思ったんだ」


 倉橋さんは立ち上がってこちらへ近づき、席に座ったままの私を優しく見下した。


「もしも悪魔がいたら、こんな目つきをしてるんだろうなぁって」


 両手を胸元へ寄せ、小さくうつむきながら深呼吸をして彼女は続ける。


「私は自分の全部を捧げるのなら、控えめな天使よりも貪欲な悪魔の方がいい」


 言われてフラッシュバックしたのは、押入れの中で見た貪欲な天使の笑みだった。


「はぁー。良い文化祭だった。あは、まだドキドキいってるよ」


 緩慢な歩速で図書室のドアへと向かう倉橋さん。出し物の手伝いをしにクラスへ戻るのだろう。本来なら彼女はこんなところで油を売っていていい存在ではないはず。

 ほんと、なんで来たんだろ。まぁ彼女の本性を垣間見れて悪くない時間だったかもしれないけれど。とはいえ、今まで抱いていた良い印象は若干薄れてしまったけれど。


「後夜祭には出なくていいよ、みんなには適当に言っておくから。その代わり明日の片付けはバックれないでね。それじゃあ」


 ひらひらと。右手を遊ばせるように振りながら倉橋さんは去っていった。

 図書室には再び静寂が訪れて、荒ぶっていた精神が徐々に落ち着きを取り戻していく。


 紙の匂いと、過ごしやすい秋の気温、そして濃紺に染め上げられていく夕焼けのせいで、意識が微睡んで、うつらうつらと揺れる視界に読書を諦め、両腕で枕を作って机に突っ伏した。


 疲れた。

 今日は頑張ったし、もういいや。きっと彼女が起こしに来てくれる。

 目を覚ました時、芙蓉がどんな表情で私を見ているのかを楽しみにして、抗うことなく睡魔に身を任せた。

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