第二十四話・呼吸

 ガツンと、言ってあげないといけない。全ては澄河ちゃんのために。


「芙蓉ちゃん、お疲れ様ー!」

「最高に可愛かったよ!」

「伝説、作っちゃったね……!」


 文化祭は全てのプログラムを終え、浮かれ気分の声が飛び交う。邪険的にはならないよう相槌を返しつつ、みんなが後夜祭の準備をしている中から抜け出して図書室へ。


 ガツンと言ってあげなきゃいけないんだ。恋人である私が。

 二度とあんな格好を私以外の人に見せない為に。

 それは回り回って澄河ちゃんを守ることにもなるんだから。

 大義名分も正義もある。


「澄河ちゃん、お待たせ——」

「……」


 すっかり高揚するテンションのままドアを開けると、澄河ちゃんは自身の腕を枕にして机に伏せていた。

 寝てる。澄河ちゃん……寝てる! 寝息可愛い!! 寝顔癒やされる……!!!


 ダメだよ私。惑わされちゃダメ。ほだされちゃダメ。ガツンと言ってあげないと。怒ってるんだから。危ないんだから。

 だけど待って。これだよね? うん、そうだね、だ。


 ひとまず視界に入ったを手にして、目一杯堪能することにした。これくらいしても許されるはず。

 権利も情状酌量も私にあるんだから!


×


「ふよぉ……?」


 ドアがスライドする音で、意識は睡眠から現実へと引き戻されていた。

 それから私の名前を呼ぶ彼女の声もして、もう少し何か――例えば体を揺するとか、耳元で再び声を掛けるだとか――があれば、すぐにでも体を起こしていただろう。

 けれど続く芙蓉のアクションはなかった。布の擦れる音がして、それから執拗に深呼吸する音がして、その不審感に耐えきれずようやく顔を上げる。『目を覚ました時、芙蓉がどんな表情で私を見ているのか』。その答えは――


「あっ、おはよう、澄河ちゃん」


 ――不明。

 私がさっきまで着ていた衣装を自分の顔面に押し当てているせいで。とろんと蕩けている瞳だけが見えている。


「何してるの……?」

「……呼吸?」


 そんな奇っ怪な呼吸法があってたまるか~!


「…………ふぅ……んふ」

「……え、普通見られたらやめない?」


 私に見られてもなお恍惚の表情でおかわりをしようとした芙蓉を制止するため、意識は完全に覚醒した。


「だって……澄河ちゃんの香りがするから……」

「何の理由にもなってないよ!?」

「だってだって、あのね、澄河ちゃんの寝顔見ながらだとね、もうすごいの、幸福度がね、濃くて、脳の細い神経にぎゅーんって血が巡って……」

「いや怖いから。そんな釈明されても困る」

「あの……ほら、焼肉屋さんの排気口の下でご飯を食べるみたいな……本物には遥か遠く及ばないんだけど……気分は味わえるというか……!」


 なんか……なんとなくわかるけど……!! そんな『良く例には出るけど実際には見た事ないシーン』を引き合いの出されたって困る……!!


「とにかく返して!」

「わ、私にはこれくらいする権利があるもん!」


 私が衣装に手を伸ばすと、芙蓉はそれを躱すように大きく身をひるがえす。


「権利……?」

「澄河ちゃん、私に何の許可……じゃなくて、確認も事前予告もなしでえっちな格好したじゃん! 私怒ってるんだからね! それだけじゃないもん! 今日まで私たくさん「わかったから! 怒ってるのは十分わかってるからとりあえずを鼻から離して!」

「……」


 ジリジリと距離を詰める私に呼応するように後退していく芙蓉。この間も彼女はまるで酸素マスクのように衣装越しに呼吸している。なんなのこの絵面。


「わかった。そっちがそう来るなら……」

「す……澄河ちゃん……? なにしてるの?!?」


 苦肉の策ではあるけれど、さっさと取り返すにはこの方法が手っ取り早いはず。私がカーディガンのボタンを上から一つずつ外していくと、芙蓉は明らかに狼狽うろたえた。


「じゃあと交換しない?」

「!!???!?!??」


 肌寒さを堪えつつ脱いで眼の前に差し出すと、案の定、餌におびき寄せられる小動物のように近づいてくる。

 目は見開かれ、生唾を飲み込む音が図書館に響く。怖いよぉ~そんなに欲しい……?


「……ほい、捕まえた」

「ひゃっ」


 射程圏内に入った芙蓉の腕を掴み、反射的に驚いている隙を付いて衣装を奪い取った。


「えっえっ、あれ? 脱ぎたてほかほかカーディガンは? ねぇ、澄河ちゃん!? 嘘ついたの!? 交換って言ってたよね!? 今すぐ渡してくれないと私「これでいいでしょ」


 我に返ったのか、目当ての品が手に入らない現実に猛抗議をする芙蓉を抱きしめて黙らせる。


「んぐっ…………えへへ……むふ……」


 なんでだろう。服そのものを嗅がれるとあんなに恥ずかしいのに、直接触れている今は割と……問題ない。

 私も私で芙蓉の体温や香りを堪能しているから、だろうか。なんでもいいか。肌寒かった分、感じる温もりが強くて、ストレス物質が体中から抜けていく。


×


「懐かしい」


 すっかり上機嫌になった芙蓉と隣あって座り、さっきまで読んでいた本のページを捲った。


「覚えてた?」

「澄河ちゃんがおすすめしてくれた初めての本だもん」


 そう、この一冊は、芙蓉からおすすめされるばかりだった私が初めて彼女に勧めた本だ。

 紹介した次の日には全巻読んできてくれたことには驚いたけど、嬉しかった。


「すごい速度で読んでくれてたもんね、芙蓉」

「うん! とっても面白かったし、澄河ちゃんと話題を共有できることが嬉しくって――」


 おんなじ物を見ておんなじ気持ちを抱いていることに嬉しさの不意打ちを受けていると、彼女はなんでもないように、意味深な言葉を口にした。


「——すっかり全部、覚えちゃった」

「…………全部?」


 ストーリーの流れとか登場人物とか胸に響いた台詞とかじゃなくて……全部?


「全部ってなに? どういうこと?」

「もう澄河ちゃんったら。全部は全部だよ」

「……た、例えばだよ?」


 しっくりこない言い回しが、私の中の意地悪を刺激した。本を手に取り、芙蓉には見えないように適当なページを開く。


「13ページの12行目の台詞は?」

「『にゃんてことだ!』だよね、ミケちゃんの口癖」

「!」


 合ってる……やっぱり……これはまさか……!


「37ページの2行目からはなんて書いてある?」

「『そうしてボクの旅は始まった。帰り道も行く先もわからないけれど、心配はない。美味しい餌のある場所が、ボクが心から求める居場所なのだから。人間と違ってボクは一つの場所にこだわらない。ボクがボクであるために、猫が猫であるために「ストップストップ!」


 一言一句一切のズレがない……! 句読点すらも完全に正しく音読してる……!


「138ページの7行目の台詞は?」

「『にゃんてことない!』」

「194ページは?」

「ミケちゃんとクロさんがお互いに毛繕いしている挿絵があるよね」

「256ページ5行目の台詞は!?」

「『にゃんとかにゃるよ!』」


 台詞も地の文も……この分なら奥付も本当に全部覚えてるに違いない……!


「澄河ちゃんは49ページの4行目から始まるシーンが好きって言ってたよね!」


 そんな笑顔で言われてもパッと浮かばないんですよ……芙蓉さん……。ごめんね、紹介したくせに全部覚えてない凡人でごめんね……!


×


「ほんと、すごいなぁ芙蓉は……」


 澄河ちゃんは猫がだらけるように、机の上にぬべーっと体を預けながら言う。


「す、すごくなんてないよ、私はただ……澄河ちゃんの好きなこと……全部完璧に把握してたくて……」

「そう思ってくれるのも嬉しいし、それを実行できちゃうのはやっぱりすごいよ」


 微睡み混じりの瞳で私を優しく見つめながら、澄河ちゃんは私の髪を触れるように撫でてくれた。

 微かに感じる心地よい感覚と、もっとしっかり触って欲しいもどかしさで……甘えたいスイッチがバチンとオンになる。


「文化祭、終わったんだね」

「終わったよ、無事、何事もなく」

「そっか」

「……」


 澄河ちゃんは視線を窓に移して、体育館から聞こえてくるライブの音を辿っているみたい。もう後夜祭のプログラムが始まったんだろうか。


「……じゃあ、行く?」

「っ」

「うち、行く?」


 目を合わせないままの、試されるような言い方に、少しだけ怯んだ。だけど今更、止められるわけがない。


「行く。行きたい、です」

「うん。行こう」


 上半身を起こして大きく背伸びをしたあと、立ち上がった澄河ちゃんは私の右手をとった。


「花梨さんに連絡しておいてね」

「? なんて?」

「『今日はお泊りする』って」

「!!! ……はい……!!」


 お泊り……! 恋人になって……初めてのお泊り……!! そういう……ことだよね……!!! そういうことなんだよね澄河ちゃん……!!!!


「……あれ?」

「どうしたの芙蓉」

「んと……なにか……言おうと思ってたんだけど……忘れちゃった」

「そう。思い出したら教えてね」

「んーん! 気にしないで!」


 忘れちゃうってことはきっとどうでもいいことだよね!

 それにせっかく澄河ちゃんと過ごせるのに別のこと考えてるなんて勿体無い!


「ちょ……まぁ、いいか」

「えへへへへ~!」


 澄河ちゃん優しい……腕組んでも許してくれた……前は『学校でくっつくの禁止』って言ってたのに……! なんで……? 文化祭頑張ったから……?

 どうしよう……離すタイミングわからないよぅ……!!



 

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