第二十五話・記憶

「ただいまー」

「お、お邪魔します……!」

「あはは。相変わらず固いね~」

「そ、そうかな?」


 私が芙蓉の家に行くのとは違い、芙蓉は私の家に何度も来たことがある。数え切れないくらいこの玄関を跨ぎ、数え切れないくらい、私の部屋で過ごしている。


 なのにいつまで経っても慣れないらしく、彼女の『お邪魔します』は今でも初回と同じ緊張感を纏っていた。


「おかえり~早かったねぇ~」


 家に上がってから、まずは手洗いうがいの為に洗面所へ向かう。リビングを横切ると、ソファに座って本を読んでいたお母さんが顔を上げた。


「芙蓉ちゃん、いらっしゃい」

「おざ、お邪魔します!」

「いつも礼儀正しいねぇ」


 背筋をピンと張った芙蓉へとお母さんは微笑み、本に栞を挟んで立ち上がる。


「お母さん、今日芙蓉泊まりね」

「あいよー。……てかあんたたち後夜祭どうしたのよ」

「いーでしょ別に」

「良いけど……お母さんの時代はもう、文化祭以上に後夜祭の方が大盛り上がりでねぇ」

「あーはいはい。ご飯できたら教えて〜」


 なんだか長くなる気配を察知して無理やり遮った。今日は慣れないことして疲れてるし許してほしい。


「んー……ご飯……今日作る気なかったんだよねぇ。文化祭のあとは後夜祭ではしゃいで、カラオケ行ったりファミレス行ったり……なんかで食べてくると思ってたから」

「なるほど……」


 これに関しては責められない。私もそんな感じになると思ってたし。自分自身でも自分の行動はイレギュラーだと思うし。


 もしお父さんが単身赴任で遠く離れた愛媛県に行っていなかったらこんなことにはならなかったのに……! なんて、筋違い甚だしい怒りを覚える。


「よし」


 不満を隠そうともしない疲れた娘を怒ろうともせず、お母さんはローテーブルに広がっていた新聞の隙間から一枚のチラシを抜き取り、こちらへババンと掲げてみせた。


「寿司でもとるか!」

「寿司!? やったぁー!」


 お母さんいつもご飯作ってくれてありがとう! お父さん私達の為に遠く離れた場所で働いてくれてありがとう!!


「芙蓉ちゃんは嫌いなネタない?」

「っ、は、はい!」

「…………」


 微かに。

 芙蓉の表情から、翳りが見えた。それは本当に一瞬で、勘違いだと斬り捨てるのも容易いくらいの、微妙な変化ではある。

 それでも、見過ごすにはあまりに大きすぎる。


 何かを隠すように慌てて笑顔を浮かべる芙蓉に……違和感……よりも、強く感じたのは、言いようのない懐かしさだ。


「……お母さん、やっぱりピザにしようよ」


 私は新聞紙の束からピザのチラシを引っ張り出し、それを寿司のチラシの上に重ねて置く。


「ピザぁ~? ……んー悪くない。芙蓉ちゃんどっちがいい?」

「私は……どちらでも……」

「じゃあピザ! ピザね! チョイスはお母さんのセンスに任せたから!」

「はいはい。もー強引なんだから……。芙蓉ちゃん大丈夫? お寿司の口になってない?」

「大丈夫です!」

「今日も無理やり連れて来られたんじゃない? 本当は後夜祭出たかったんじゃない?」

「そんなことありません! 私は澄河ちゃんと一緒にいられたら他の何も」

「そんな真面目にやり取りしなくていいよ。ほら、部屋行こ」

「う、うん!」


 芙蓉の手を取りリビングを出ようとすると、彼女は深々と頭を下げて三度目となる台詞を言った。


「本日は突然すみません! お邪魔します!」

「ほいほい、ごゆるりと~」


×


「……」

「……」


 何度もうちに来ているとは言え、友達から恋人になってからは今日が初めてのおうち時間だと今更気付いた。


 これまではなんとなく一緒に、録画したテレビを見たり、面白かった動画を見たり、二人で別々の漫画を読んだり、好き勝手に昼寝したりしていたけれど、どうにも全部しっくりこない。


 芙蓉もローテーブルを前に体育座りをしたまま動く気配がない。たぶん、一緒の気持ちみたいだ。


「これ……」


 何かしなくちゃという気持ちに押されて脳をぐるぐると回転させた結果、私は勉強机の引き出しを開けた。


「芙蓉も手伝ってくれる?」

「もちろん!」


 彼女の視線の先に置いたのは、買ったはいいものの少しだけ嵌め込んで飽きてしまった――何の絵も柄も模様もない、真っ白の――ジグソーパズル。


「でも初めて見るなぁ。力になれるかなぁ」


 なんて言いながら、芙蓉は恐るべき速度でピースを並べていく。形以外のヒントないのに。なんかもうそういう競技みたい。こんなところでも彼女の凄さを実感するなんて……!


「…………澄河ちゃん、あのね、」


 枠が完成し、さぁここからが本番だと腕まくりをした私をジッと、見つめながら芙蓉は切り出した。


「やっぱり、言うね」

「う、うん」


 何回浴びても、こう真剣なオーラを発せられるとちょっと怯んでしまうのは私がビビりだからでしょうか……?


「これ、脱いで」

「はぃ……?」


 クイクイと。芙蓉は私のカーディガンの裾を慎ましく引っ張る。


「澄河ちゃん以外の匂いがするから、脱いで」

「脱い……えと……」

「何があったかは聞かない代わりに、このお願いは聞いてほしいな」


 視線が下がり、眼光で焦げそうなくらい熱烈にカーディガンを眺める彼女の声音が徐々に低く、ゆっくりと、重くなっていく。


「澄河ちゃんが着ていた破廉恥ハレンチな衣装、誰から渡されたのかな? あれね、倉橋さんと同じ匂いがしたの。

 それで今、澄河ちゃんが着てる制服これからも、少しだけど倉橋さんの匂いがする。

 ……変だよね?? だってそんなの、倉橋さんの匂いが移るってことは、澄河ちゃんとあの人が……密着……ううん、違うの、違うよね? 私にこれ以上、邪推させないで? 脱いでくれるよね? 澄河ちゃん」

「はい」


 この匂い警察の前で抵抗は無意味と判断し、激昂しないことに感謝をしながらいそいそとカーディガンを脱ぐ。

 涼しくなった心地よさは防御力の低下を警鐘しているみたいだ。


「そう……やっぱり……澄河ちゃんはこの香りじゃないと……!」


 スンスンと鼻を鳴らしながら、芙蓉は高潮した声で何かを納得していた。


×


「さぁて、何を書こうか」

「そっか、そういう楽しみ方があるんだ」


 流石は芙蓉。邪念が排除された彼女は機械のように手を動かして、あっという間に200ピースの真っ白なパズルを完成させてしまった。ワタシ ホトンド ナンモシテナイ……。


「そうだよ。絵でも言葉でも、何がいい?」

「…………澄河ちゃんは、」


 このパズルを崩して再挑戦する気などさらさら無い私の問いを受け、芙蓉はたっぷり考えた。

 たっぷりたっぷり考えた。

 たぶん、パズルが完成するよりも長い時間考えて、ようやく、こちらを見つめて口が開かれる。


「どうして、ピザにしようって、言ってくれたの?」

「ピザ?」


 間抜け丸出しで同じ言葉を繰り返した後、すぐにさっきの話題だと思い当たる。


「んー……。完全に直感……というか勘なんだけど……昔の芙蓉がパッと重なったんだよね」

「昔の、私?」

「今よりずっと遠慮しがちでさ、苦手なこと頼まれたり嫌なこと言われても、笑って受け入れていた頃の芙蓉の……面影が見えたの」


 言語化していくなかで、自分はなんて浅はかなきっかけで動いていたんだろうと恥ずかしくなってきた。


「やっぱりお寿司が良かった?」

「ううん。…………助けてくれて、いつも本当にありがとう」


 隣に来た芙蓉は――添え木にするように――軽く体重を掛けて身を預けた。それから私の肩を枕にして、瞳を閉じて、雪が降るようにしんしんと、言葉を紡ぐ。


「お寿司を見るとね、少し、思い出しちゃうの、お母さんのこと。


 お寿司って言っても、出前でも、チェーン店でも回らないお寿司でもないんだよ。スーパーに売ってる……プラスチックのトレイに何種類か入ってるお寿司。

 しかも値下げのシールが何枚も重ね張りされているような……。


 ときどき、本当にたまになんだけど、お母さんが気分良く酔った日は、それを買って帰ってきてくれたんだ。


 そのときのお母さん、本当に上機嫌で……普段とは打って変わって優しくて……一貫食べたら、あとは全部、芙蓉にあげるって。


 食べてる私の頭をね、何度も撫でてくれたの。大好きだよ、生まれてきてくれてありがとうって」


 淡々としていた芙蓉の声が、震えて、か細く、それでも消えずに、私の心へ降り積もる。


「どうしてだろうね、変だよね、私。つらい記憶よりも……幸せな記憶を思い出す方が、ずっとつらいの」


 泣きじゃくる彼女を抱き寄せ、自分の心を見つめる。芙蓉の言葉と、芙蓉への気持ちでいっぱいになった心を見つめて、自分なりの答えを探した。


「変なんかじゃないよ」


 これ以上、彼女に自分自身を責めないでほしい。だけどきっとそんな思いでさえ、一歩間違えれば彼女を傷つけてしまう。今はただ、それが怖い。


「芙蓉の心を……否定しないであげて。苦しくても、ありのままの心を受け入れてあげて」


 私ができることなんてたかが知れているし、口から出るは言葉は稚拙過ぎる。それでも、それでも……芙蓉が大好きで、大切だって気持ちを伝えることを、諦めたくない。


「ねぇ芙蓉、幸せな記憶をさ、二人で一緒に、たっくさん作ろう? それが当たり前になって、思い出す暇もないくらい、幸せな記憶で人生埋め尽くそう?」

「うん……うん……! でも……澄河ちゃん、私怖いよ……今以上に幸せになるのが……今以上に、澄河ちゃんを好きになるのが……どうしても……怖いよ……」

「大丈夫。怖い時は私がそばにいるから。その代わり、私が怖い時には芙蓉がそばにいてね」


×


 芙蓉は鼻をすすりながら、涙を拭いながら。赤い色鉛筆を握って、真っ白なジグソーパズルの左端にりんごの絵を描き、隣に右矢印を付け足した。


「……絵しりとり?」

「うん。次は澄河ちゃんの番」


 私はやっぱり歪んでいる。瞳の周りを真っ赤に泣き腫らした芙蓉が浮かべた満天の笑顔が、普段よりも健気で儚げで……見惚れるくらい、美しく見えてしまうのだから。


「意外にも程があるよ」


 私は絵心がないなりに『ゴーグル(のようなもの)』を描くと、芙蓉はうま~い! と手を叩きながら褒めてくれて、ささっと『ルート』を書いた。


「え、これいいの!?」

「伝わったならセーフっ」

「ほう……そっちがそう来るなら……!」


 こっちはこっちでお返しにト音記号を書いてみると、芙蓉は楽しそうに『う』から始まる言葉を考え始めた。


「……こういうの、いいね」

「澄河ちゃんも……そう思ってくれる?」

「思うよ。幸せ過ぎてニヤけちゃう」

「えへへ……私も」


 そっか。

 特別じゃなくたっていいんだ。

 なんでもない記憶でいいんだ。

 だって幸せって別に、特別なことじゃないんだから。

 私達にとっての幸せを、大切にすればいいんだから。

 大好きな人を抱きしめて。

 大好きな人に抱きしめられて。

 嬉しいねって共感して。

 楽しいねって笑い合って。

 美味しいねって分け合って。


 そんな、幸せななんでもない記憶を積み重ねて生きていけたら――怖いものなんてないよね。


「澄河ちゃん、」

「なぁに?」

「その……」

「今更ためらうことなんてないでしょ? なんでも言いなよ」

「そ、そうだよね! じゃあ……あの、さっきからすごく……その……鎖骨が見えていて……ですね……ぇ……えっちで、ですね……私もう……我慢できそうになくて……ですね……!」

「あー! そろそろピザ届くかなぁ! お母さんどういうチョイスしたんだろ! 気になるね! 一回下行こっか!」

「ま、待って、ちょっとだけ……一瞬だけで良いからぁ!」


 ……訂正。

 臨界点突破寸前になった芙蓉の瞳は――やっぱりちょっと、怖いかも。

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彼氏作ろうとしたけどフラれたので、幼馴染に愚痴ったらなんか怖い 燈外町 猶 @Toutoma

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