第十八話・刻印

 二人きりに、なれる場所?

 手を引かれながら考える。そんなとこある?

 家庭科室も、美術室も図工室もパソコンルームでさえ、展示や出し物で利用されているのに。


「こっち」


 芙蓉が歩を進めるにつれ、お祭りの喧騒が薄れていく。一定のペースで階段を上りきってようやく、私も察しがついた。

 向かう先は図書室。そういえば今年から図書室は展示を行わずに封鎖されている。


 スライドドアの前に立った芙蓉は鞄から大きな鍵を取り出すと、慣れた手つきで差し込み、捻る。音を立てて錠が落ちて、私達は静寂の膜を破るようにして図書室へと足を踏み入れた。


「なんで鍵持ってるの?」

「優等生だから」


 信じて鍵を託した先生も、まさか優等生がこんな小悪魔だとは思いもしなかっただろう。艶めかしい笑みを浮かべながら後手うしろでで鍵を掛けた芙蓉は――


「ねぇ澄河ちゃん」


 ――ふんわりと私を抱きしめてうつむき、確かに強い意志を込めて問う。


「どうしてあの日以来……してくれないの?」

「っ……それは……」


 あの日。というのはきっと、メイド服が完成した日のことだ。そして……。


「……結構、ひどいことしちゃったから……」


 ダメだと言って抵抗し、許してとこいねがう芙蓉を、私は無視して思う存分むさぼった。

 大好きな人が自分の一挙手一投足で反応する喜びに溺れた。


 その時間が終わった後も、しばらくは初めての充足感で脳が痺れていたけれど、日が経つにつれ罪悪感は増すばかり。私を好きと言ってくれる彼女の涙を見て嬉しくなるなんて、あってはならないと。


「良かった」

「へ?」


 思考が薄暗く染まりかけた時、緊張感の抜けた芙蓉の返事が聞こえて、間抜けな声が出てしまった。


「……私のこと、考えてくれてたんだね」

「う、うん」

「良かったぁ……」

「えと……なにが?」

「だって……あの日の私……流石にみっともなかったかなぁって……嬉しすぎて……喜びすぎて……引かれちゃったかも……って……思ってたから……」


 もじもじと。表情は見えなくても、髪の隙間から真っ赤になっている耳のせいで、彼女が相当照れながら言っているのがわかる。

 あまりにもいじらしくて、思わず強く、抱きしめ返した。


「澄河ちゃん、私は――」


 私の腕と胸に挟まれた芙蓉は少し苦しそうに、上目遣いでこちらを見つめながら言う。


「――私は、もっと……壊されたかったよ?」

「っ」

「跡形も残らないくらい、ぐちゃぐちゃにされたい。澄河ちゃんの爪痕だけが残ってくれてたらそれでいいの」


 あぁ、この瞳だ。この声音だ。

 私を容易く変えてしまう。湧き上がってくる。

 沸々と、熱くて、拭えない、ぞんざいに扱いたくなる、非道な私が、心臓から溢れ出てくる。

 誰よりも何よりも大切にしたいのに、線引きが曖昧になる。


「五年越しに叶った恋なんだよ? 澄河ちゃんが……まだまだ、全然足りないよ」


 確か芙蓉と初めて言葉を交わしたのも――五年前の――図書室だった。

 怖い。あの頃の自分とは全く違う、知らない自分が、芙蓉を前にすると現れる。

 自分自身と全く同じ姿形をした他人が、恐ろしくてたまらない。


 なのに、そんな未知に飲み込まれてしまうこの時間が、心地良くて、逃れられない。


「どうなっちゃうかわかんないよ?」

「いいよ。澄河ちゃんと一緒なら」


 そういえば忘れていた。私は最近、なにかにつけて『ご褒美をあげるから』と彼女に我慢を強要してばかりだった。

 何がご褒美になるかはわからない。

 だけど私から与えられたもの全てが、痛みや苦しみすらも、彼女にとって価値あるものだとするなら。

 私は容赦することなく、この衝動に身を任せよう。


×


 彼女を抱擁から解放し、周囲をぐるりと、ゆっくり歩いて回った。芙蓉。華奢で可憐で、強気で押しに弱くて、真面目で小悪魔な、私の友達。私の幼馴染。私の恋人。私の、私の、私の。


「芙蓉、私の犬になりたいって言ってたよね。私の犬になって飼われたかった。って」

「言ったよ。今でもずっと思ってる」

「嬉しいな。こんなに可愛いワンちゃん、どう可愛がってあげればいいんだろうね」


 嬉しい? 変だよ。私また変なこと言ってる。でもしょうがないじゃん、本心なんだもん。

 自然と腕が動き、手の甲で彼女の顎を撫でる。途端に芙蓉は大きく息を吸って、瞳に興奮の色が混ざる。


「芙蓉、」


 結局彼女の背面に立って、頚椎くびを眺めながら、ろくに思考もしないでただ見たい景色を見るためだけに命ずる。


「おすわり」


 私の言を聞くや否や、芙蓉はすぐさま、その場でちょこんと正座をしてみせた。数ある座り方の中でそれをチョイスするとは。わかってるなぁ。


 けれど、あんまりに素直すぎて、迅速過ぎて、ちょっと物足りない。


「伏せ」


 続く理不尽にもあっさり従う芙蓉は、正座のまま前かがみになり、肘から下をべったりと地面に付け、なおも瞳だけで私を見上げて次の指示を待っている。


「いい子だね」


 頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細めて「ふへへ」と微笑む。


「……」


 さて、どうしようかな。

 この無防備極まりない彼女をどうしてあげようかな。


「芙蓉は、私の彼女でしょ」

「そうだよ。私だけが、澄河ちゃんだけの彼女だよ」


 私は芙蓉と違って、自分の恋人を自分だけのものにしたいなんて思わない。私は私だけの彼女を……全世界に見せびらかしたい。


「証拠がほしいなぁ。目に見える証が」

「どんなことでもするよ」

「じゃあ……じっとしてて」


 彼女のシャツをスカートから抜き出し、インナーを捲り上げ、白く暖かい背中をほんの一部だけ外気に晒す。


「っ……!」


 そこへ私が唇を落とすと、感電でもしたみたいに大きく跳ねた芙蓉。ようやく、見たい姿の一片が見えた。


「澄河、ちゃん」

「嫌なら言ってね」

「嫌なわけ……な、い! もっと……刻んで……」


 懇願に従うまでもなく、やめるつもりなんて微塵もない。

 そういった知識に詳しいわけではないけれど、それくらいなら漠然と知っていた。

 口先一つで痕を残す方法くらいは、知っていた。


「んっ……」

「痛い?」

「……痛い。でも、だから、嬉しい」

「ならもっとだね」


 甘く噛んで、柔く舐めて、きつく吸って、一心不乱に、ただ、繰り返す。

 無意識だろうか、逃れようとする芙蓉に両腕でしがみつきながら続ける。

 軽音楽部の演奏が遠くから聞こえてくる。それを彼女の嬌声が塗り潰す。


「……綺麗だよ、芙蓉」


 酸欠になりそうになってようやく顔を離し、ややボヤける視界のまま俯瞰で眺める。


「えへへ……うれしいっ。うれしいなぁ……しゅ、すみ、か……ちゃん……だいすき」


 足腰も腕も脱力している芙蓉の体は床に崩れ、いつの間にか背中のシャツが捲れている範囲は大きく広がっていて、そこには——雪原に散った桜の花びらのように——無数のしるしが刻まれていた。

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