第21話 往来にて〈一〉

「刑司はこの先に……えっ?」


 キョロキョロと辺りを見回して道を確認しながら進んでいくと、突然物陰から誰かにぐいっと腕を引っ張られる。そして、ぽすっと全身を何者かに受け止められた。


「しゅ、主上!?」


 梓春が慌てて後ろを見上げると、珱煌がこちらを見つめて口角をあげている。そして、口元に細い指を当てて「しいっ」と息を漏らした。梓春は慌てて、両手で口を塞ぐ。


「一体どうなされたのですか、主上がこんなところに……」


 梓春がかしこまった態度で距離を取り、小声で尋ねると、珱煌は何故かムッとして口を尖らせる。


「気軽に、と言っただろう。もっと友のように接しろ」


 珱煌も梓春と同じく小声で話したが、それは拗ねた声色であった。梓春は「ああ、そんなこと言ってたな」と二日前の会話を思い出す。


「ええと、じゃあ、一体どうしたんですか?それに、その格好は……?」


 梓春は肩の力を抜き、もう一度軽い態度で尋ねる。珱煌直々の願いなのだから、不敬だと責められたとしてもそれは理不尽だ、理不尽。


 珱煌は「それでよい」と満足気な顔で頷く。

その格好は煌びやかな皇帝らしい衣装ではなく、そこらにいる宦官と同じ侍従の服を着ていた。長い銀髪は三つ編みにして肩口から流しており、変装のためか布の頭飾を巻いている。


「フフン、散歩していたんだ」

「へ?」


 ええ、それだけ? 滅多に顔を出さない皇帝がわざわざ宮の外に出ているので、何か重大な案件があったのだろうかと思いきや、遊歩とは。

 梓春の訝しげな視線とは裏腹に、何も問題ないというような涼し気な珱煌の顔には、まだあどけなさが残っているようにも思える。


「実をいうと……たまにこうして変装をして出歩いているのだが、面白いことに誰も私がこの国の主であることに気が付かない。ただの官吏だと思っているみたいだ」


 珱煌はいたずらを告白するようにひそめて言い、くつくつと楽しげに笑った。

 一方の梓春は、背筋が冷えるばかりである。一体何してんだうちの主上は、などと呆れてしまいそうだ。


 たまに出歩いているということは、現帝の姿を見た事があるのは極小数という話は誤りで、実は皇帝と知らずに目にした人も多いのではないだろうか。


「はぁ……危険すぎます。そういうのは控えた方がいいかと」

「そうはいっても退屈なんだから仕方ないだろう?」

「いやしかし……」


 辺りを見る限り、側仕えも近衛兵も付けてない。本当にお忍びなのだろう。

 珱煌は梓春の苦々しい表情を見て笑う。


「ははっ、こうやって皆の様子を観察するのがおもしろくてな」


 珱煌は「ほら見てみろ」と奥の塀際に立つ若い衛兵を指さす。


 しばらく見ていると、その若い衛兵はふぁぁとひとつ盛大な欠伸を漏らした。うつらうつらと頭を揺らしている。彼も、自分の様子をまさか皇帝が見られているとは思うまい。


 ちらりと珱煌の方を見ると、とさも愉快げな表情を浮かべていた。首が痛い。綵妃の背丈じゃ、頭ひとつ分以上差がある。んん、なんだか負けた気がして悔しいな……。

 ぐぐっとつま先立ちになって背伸びしてみるが目線が少し近くなるだけだった。梓春はがっくりと肩を落とす。


「それで、どうして私を呼び止めたんですか?」

「ん? ああ、たまたま目に入ったからな」

「ええ……?」


 先程から珱煌に振り回されっぱなしだ。この男が何を考えているのかよく分からない。ずっと涼しい顔をしているのにも、なんだか腹が立ってきた。

 そんな梓春に構わず、珱煌は「そうだ」と手を叩いた。


「せっかく会ったのだから、茶でもどうだ?鶺鴒宮に案内しよう」

「えっ、鶺鴒宮……!?」

「そうだ」


 珱煌は東の方角を指した。どの殿舎よりも大きなお殿が建っている。

 そんな気軽に皇帝の居住に立ち入ってもいいのか? そんな心配が脳裏を掠めるが、あまりに気軽な様子の珱煌に、拍子抜けする思いだ。


「あの、主上……私は今から刑司に行こうと思ってたんですけど」

「刑司?」

「ええ。何か進展はないかな、と」


 元より刑司に行くために外に出てきたのだ。茶よりもそちらの方が気になる。


「それなら私が話してやろう。あの件に関わることは全て私の耳に届くようにしている。まぁ、たいした進展は無いがな」


 珱煌は「どうだ?」と梓春をうかがう。こうなっては断る理由もないし、皇帝の誘いを断れるはずもなく。


「……では、よろこんで」

「それじゃあ、着くまでは綵妃の侍従のふりをしていよう」

「は!?」


 また突拍子もないことを聞いた気がする。珱煌は混乱する梓春の背中をぐいっと押し出す。


「えっ!」


 梓春は勢いよく往来に飛び出してしまい、例のあくび衛兵と目が合ってしまった。衛兵は不思議そうな顔で一礼する。


 目線を後ろにやり、小声で「ちょっと……!」と投げかけると、「いいから鶺鴒宮へ行け」と、少し笑いを含んだ声が帰ってきた。


「どうしよう……」


 仕方なしに、コツコツと姿勢を正して往来を進んでいく。珱煌は梓春の斜め後ろを、それはもう侍従らしく歩いている。

 皇帝を後ろに控えさせるなんて、天罰が当たるかもしれない。いや、天罰が先にやってきたのかもな。


「はぁ……」


 珱煌に悟られないように小さく息を吐き出す。

 そして、梓春はどんな顔をしたらいいかわからず、気難しい表情のまま進んでいると、その先に群青の襦裙を纏った姫が唐傘を差して立っているのが目に入った。

 その傍で侍女が扇いでいる。艶やかな黒髪に月を象った胸飾りが遠目でも輝いて見える。


「丹紅?」


 じっと見てしまったせいか、華妃はこちらに顔を動かし、唐傘から覗く紅い瞳と視線が合ってしまった。


「……あれは妃だな。綵妃、私のことは伏せていろ」


 梓春が尋ねる前に後ろから、小さな声が聞こえた。梓春は控えめに頷く。妃同士挨拶しないわけにもいかないだろう。

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