第2章 皇帝と妃

第20話 公然

 その後二日間、綵妃は夢に現れなかった。


 珱煌と話した日の夜、梓春はしばらく眠れずにいた。しかし、緊張が解けた反動と慣れない生活の疲れで、しまいにはすぅすぅと眠ってしまったのだ。


 一度眠ると死に対する恐怖は和らぐもので、「まぁなんとかなるか」と持ち前の楽観的視点が顔を出す。綵妃は一向に夢に現れないのだし、この身体に戻ってくる気配もない。一生このままなんだろうか。 

 まだまだやりたい事は沢山あるし、生前上に登り詰めてやるという野望もあった。城下の菓子も食べたいし、劇も見たい。まだ実務で剣を振るったこともないし、書物だって。


「全部、今からやればいいか」


 綵妃には悪いが、第二の人生だとでも思えば楽しそうだ。今上の後宮は平和であるから、梓春が思い描いていた煌びやかな生活を送れるかもしれない。


 この二日間はぼうっと綵月宮の中で包子を食べ、庭の花を眺め、侍女二人と雑談をして暇を潰していた。

 その間、綵月宮に訪れたのは、梓春の診察に来た填油のみである。珱煌や妃の訪問はない。


 填油は脈を測り、「問題なし」との判断を下して帰っていった。さらに、もう外に出ても良いと言われたのだが、特に何をする気にもなれずにずっと宮の中で過ごしている。


「うーん、体がなまってしまうな……」


 卓に腕を乗せてだらんと凭れ掛かって考える。いまは太陽がちょうどてっぺんに来ており、昼真っ盛りである。


 二日過ごしてみて分かったことがある。妃は特にする事がなく暇を持て余しているということだ。

 本来、妃の役目は皇帝の傍に侍ることであるが、今上である珱煌がそれを必要としていないので、妃の出番がないのだ。


 他の妃は何をしているのか芹欄に尋ねると、大体刺繍や写経などをして暇をつぶしているという。他の宮の様子を見た事がないから、実際の様子は分からないらしいが。


「捜査は進んでいるんだろうか?」


 やはり、自分を殺した刺客の行方が気になる。それに加えて、綵妃に毒を盛った下手人についても。毒の件は表面上では解決済みと打たれているから、刑司は動いていないだろうな。


「自分のことだし、自分で聞きに行こう!」


 梓春は閃いたというようにポンッと手を打つ。そして、立ち上がり早足で房室を出ていく。


 まだ日暮れ前で空が明るい。梓春がすたすたと歩くのに連動して、ふわりと長い袖と裾がゆれる。今日の装いは桃色と若草色の襦裙で、透かした羽織を掛けている。


「芹欄、ちょっと出かけるわね」

「えっ!? 急にどうしたのですか?」


 箒で庭の清掃をしていた芹欄に声をかける。すると、「私がついていきますっ」と、箒を落として驚いた様子で駆け寄ってきた。


「一人で大丈夫よ。貴女は綵月宮に残って」

「駄目です、綵妃様をひとりにさせるわけにはいきません」

「いま夜芽は居ないでしょ? 綵月宮を空けていいのかしら」

「いやそれも良くないですけど……しかし……って、綵妃様!?」


 ブツブツと葛藤している芹欄を置いてそそくさと門を走って出る。後ろから「綵妃様ー!」と芹欄の呼び声が耳をつくが、聞こえないふりをした。


***


「刑司は……」


 綵月宮から離れた梓春は、脳内に後宮の地図を浮かべて、宮内に配置された刑司の宮を探す。


 道を歩くと女官や宦官に出会う度に畏まった拱手礼を次々に浴びる。今日は妃の証である月を象った煌びやかな胸飾りを身に付けているから、誰から見ても綵妃と分かるようになっていた。

 その態度に恐れ多いというか、気恥しいというか何とも言えない気分だ。

 しかし、まあ、悪くはない。まるで自分が偉くなったみたいだ。


「さ、綵妃様っ!」


 きょろきょろと見回しながら歩いていると、突然後ろから名を呼ばれる。声のする方へ顔を向けると、一人の女官が梓春に対して礼を執り、顔を伏せている。


「誰だか分からないけど……とりあえず顔を上げて、」

「ありがとうございますっ!」


 女官は、その言葉を待っていたというようにバッと顔を上げた。芹欄や夜芽に似た形の装いであり、素朴な顔立ちである。


「それで、私に何か用?」

「えっと、綵妃様……私の事を覚えていませんか……?」


 はて、綵妃の知り合いだろうか。梓春には見覚えがないし、綵妃と以前関わりがあったとしてもそれは梓春には知る由がない。


「ごめんなさい、あまり覚えてなくて」

「そうですか……少し前まで綵月宮に仕えていた流流ルールーといいます……!」

「え、綵月宮に?」


 流流は大袈裟に恭しく振る舞う。上目遣いの何か含みのある目付きが苦手だ。少し前まで綵月宮に居たということは、綵妃が長くないと知って逃げていった侍従のひとりなのだろう。

 腰に翠色の紐飾りを付けているから、今は璉萃宮に仕えているだろうと検討をつける。


「そうだったのね。それで、どうしたの?」


 その璉萃宮の女官が今更呼び止めてまで何かあるのだろうか、と不思議に思って尋ねると、


「ええっと、……綵妃様、昨日はその、おめでとうございます。それで、ですね……」


 流流は決まりが悪そうに視線を動かしながら話した。そしてまた頭を深く下げる。何がおめでとうなのか、肝心なことが何も分からない。


「私共もまた綵月宮に戻らせて頂こうかな、などと思いまして……」

「そう」


 流流は微妙に声を震わせつつ、ちらりと目線を斜め後ろにやった。梓春がそちらを見ると、別の女官が少し離れた位置で梓春に向かって拱手している。


 ははあ、そういうことか。梓春は流流が暗に示している要求を悟る。

 先が無いと確定して見捨てたはずの妃が、なんの天変地異か、後宮内で出世の筆頭となってしまった。この女官はその大船に乗るために安全地帯に戻りたいということだ。

 ここでいう筆頭とは、皇后候補の筆頭である。二日前の晩に皇帝が綵月宮を訪れたという噂話がもう広がっているのだろう。


 流流は不安ながらも期待を宿した目で梓春を見つめる。

 綵月宮に戻りたいが直接訪れるのは後ろめたいから、綵妃がこうして外に出てくる機会をうかがっていたのだろう。

 ここで、元の優しい綵妃であれば「戻ってきていいわよ」と頷いたかもしれないが、梓春はそう甘くない。


「ありがとう。でも大丈夫。綵月には葵藿きかくだけで充分よ。それ以外は要らないわ」

「しっ、失礼しました!」


 梓春が涼やかに微笑むと、流流は顔を赤くして早足に去っていった。


 奥の方を見遣ると、そこに控えていた別の女官も慌てて走っていく。梓春はそれを冷たい視線を送り、「ふぅ……」とひと息ついた。


 流流の気持ちも分からなくは無いが、くるくると何度も掌を返すような人物を考える傍に置くのは危険だ。綵妃の侍従が元々何人居たのかは知らないが、毒の件もそのうちの薄情な者の仕業かもしれない。

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