第7話 脈診

***


 芹欄と夜芽は「わたしがお傍に居たならば、こんなことには……」と項垂れる。


「無事だったんだから、そんなことはいいのよ」


 梓春はそんなふたりを明るい声色で励ます。綵妃はきっとこんな感じだろう。そして、話を聞いて出た結論を続ける。


「普通に考えれば、芭浬か尚膳が犯人なのでは……?」

「いいえ、芭浬にそんな大それたことをする度胸はありません。尚膳にだって怨みを買うような事をした覚えはありませんし……」

「一介の官吏が綵妃様にそのようなことをするとは思えないのです。絶対裏に何者かがいます」


 二人がそこまで言うのであれば、そうなのだろうと腕を組む。

 毒見を行わなかった芭浬と尚膳には非があるのは確実だが、毒を仕込んだかは分からない。

過日の事案をとってしても、下吏の起こした事件は位の高い人物が裏で糸を引いていたというのがお決まりだ。


「かといって、妃との関係も薄いのであればそこに理由は生まれないはず」


 芹欄は妃であると決め付けていたが、梓春は今の妃達の悪評を聞いたことがなかった。門の外からは真の内情は見えないにせよ、こうやって事件の詳細を聞いても、妃の仕業であるとするにはあまりに弱い。


「他の妃にとって綵妃様を貶める動機はないですけど……」

「妃じゃないとなれば、一体誰が犯人なんでしょうか」


 三人寄れば文殊の知恵などというが、素人三人が寄って頭を悩ませたところで明確な解答を導ける訳もなく。

 第一、被害者本人は記憶喪失で、侍女二人も現場に居合わせた訳では無い。そう、被害者、被害者……。


「あっ!」


 梓春はバンッと卓上に掌を打ち付け、勢いよく立ち上がる。


「いたた……」


 卓に膝をぶつけてしまってじんとした痺れが全身を伝う。すると、芹欄と夜芽は目を丸くさせて、「どうしましたか?」と問いかけてくる。


「うっ……」


 そう、梓春も別件の被害者なのであった。鳩尾あたりに鈍い幻痛が走る。そして、痛みと共に襲われた日のことが鮮明に蘇ってきた。

 入れ替わり解決のための最優先は、梓春の身体を見つけること。けれど……。


「芹欄か夜芽どちらでも構わない、昨日から今日にかけて衛府の方で何か騒ぎは無かったか?」


 梓春は柔らかい口調を取り繕うのも忘れて、早口で捲し立てる。


「いえ、特に何も聞きませんでしたが……」


 芹欄も立ち上がり、戸惑った様子のまま答える。隣の夜芽はオロオロとするばかりだ。


「そうか……」


 そりゃそうだ。いち下級門兵如きが行方不明になったところで、後宮の奥まで伝わるような大騒ぎになる筈がない。


 ぽたぽたと抉れた腹から滴り落ちる赤い血の情景が目の前に甦ってくる。梓春が刺された現場には血痕が遺っているだろう。もしかしたら、不審に思った刑部が事件として捜索を始めているかもしれない。


 あの傷はかなり深く、致命傷を突かれていた。肉体としては……そう、死んでしまっているはずだ。既に無惨な亡骸が発見されているかもしれない。先程はその身体に綵妃の魂が入っていると考えたが、その可能性は低い気がする。


 本当に一体どうなっているんだ。

 無言で考え込んでいると、向かいから「綵妃様……?」と此方を呼ぶ声に顔を上げると、如何にも不安そうに眉尻を下げた芹欄と目が合う。


 二人に宿舎まで様子を見に行ってもらうか……? いいや、殆ど見ず知らずの女子達に任せることはできない。他の誰でもない"梓春"のことを調べるのだから、自分の足で行った方がいい。


「少し出ていく!」

「「えっ」」


 梓春に残っていた冷静がくつを探して視線をさ迷わせる。全然、見当たらない。止むを得ないし、このままでいいだろうか。

 元の梓春ならば構わないが、肌理の細かいこの羽二重肌に砂利で傷を付けるのは躊躇してしまう。

 梓春が逡巡の末に駆け出した瞬間、後ろから「お待ちくださいっ!」と裾を引っ張られる。


「夜芽、」

「何処に行かれるのですか。まだ外は肌寒く、いま出られたらお身体に障ります……! 用ならわたし共にお申し付けください」


 夜芽はおさげを揺らして、梓春の腕をぎゅっと掴んだ後、跪いて拱手礼を執る。

 それは、梓春を引き止めたい必死の現れであった。殊勝な姿勢は、綵妃の身体を労わってのことだろう。


「……綵妃様。貴方がお目覚めになられたことは既に鳩を飛ばしております。芽を呼び戻す際に薬司にも伝えましたので、間もなく典薬が此方にお越しになるかと」

 

 対して、芹欄は先程までと打って変わって冷静に言葉を紡ぎ、同じく膝を着いて頭を下げた。

 梓春はその光景にはっと息を飲む。妃とはどのような立場にあるのかを思い知らされたのだ。


 加えて、この芹欄という娘は一見気楽な雰囲気だが、予想外にちゃんとしている。

 梓春が目覚めた際に啼泣していたのもウソでは無いだろうが、どちらかと言えば、この冷静で揺るがない眼差しの方が本性なのだろう。


 流石、綵妃の側仕えなだけはある。梓春の為に人が動いているとなれば、此処から離れることは出来ない。案外自分は責任感が強いのだ。


 梓春よ、少し頭を冷やそうじゃないか。梓春は小さな手の甲を額に当てて目を瞑る。


「……わかった。典薬が来るまでは此処を動かないわ。……芹欄、夜芽、ありがとう」


 跪座した二人の手を引っ張って、立ち上がらせる。二人は梓春の言葉に安心したようで、それ以上は何も言わなかった。


***


「これは、なんという……」


 暫く待っていると初老の典薬が薬箱を抱えて駆け込んできた。

 名は填油デンユ。二日前に「もう長くない」という宣告をした綵妃の主治医である。


 宮内に入り、平然と立っている綵妃──梓春を目にした填油は、信じられないといった様子で、あんぐりと口を開けたまま硬直した。

 自身の頬を叩いて何とか気を持ち直した填油は綵妃に対して拱手礼を執る。


「綵妃様、まさか本当にお目覚めになられたとは……」

「ちょっと填油先生、その言葉はどういう意味ですか。不敬ではなくて?」


 夜芽が眉をひそめて填油に突っかかると、填油は「も、申し訳ありません」と縮こまる。

 しかし、填油の態度にも無理は無い。自分が寿命を告げた患者が起き上がっているのだ。見るからに歴も長いだろうし、腕にも相当な自信があるはず、この光景が信じられないとしても、それは当たり前のことだろう。


 填油は梓春を椅子に座らせて、肘掛に置いた梓春の手首に指をそっと当てて脈を診る。とこに座してじっと目を瞑り、指の方に頭を傾けている。

 この空気、何だかこっちまで息が詰まる。芹欄と夜芽は梓春の傍に立って、脈診の様子を息を飲んで見守っている。

 暫くして填油が指を離し、面を上げた。


「こ、れは奇跡だ……!」


 そして、自慢の顎髭を撫でながら、感嘆の声を漏らす。填油の目は綵月宮に来てから丸くなりっぱなしだった。

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