第8話 奇跡
「奇跡とは?」
思いがけない言葉に、梓春は身を乗り出して尋ねる。
「はい、僭越ながらお答え申し上げます。ご存知の通り、綵妃様は恐ろしい劇毒に冒され、先般私が診た時には既に風前の灯火でございました」
填油はそこまで言ってから、もう一度自身の見識を確かめるかのように瞼を閉じて瞬刻の間沈黙し、深く息を吸ってから言葉を紡ぐ。
「……しかし、なんということでしょう。今は大変丈夫なお身体です。それは毒が癒えた程度の話ではなく、それ以前の病身の面影がない程に健やかであらせられる」
「お、おお……!」
つまりは、今の梓春の身体である綵妃は限りなく健康体であるという事だ。数日前まで病弱で更には毒に罹ったというのに、そんな事が有り得るのか?
填油の言葉を聞いた芹欄と夜芽は「まぁ!」と、驚喜にこれ以上ないくらいに目を見開き、互いの手を取り合って小躍りしている。
「綵妃様っ! これで自由に外に出られますよ!」
「先生、今の話は本当なのですね……! 嘘だったら許しませんからっ」
侍女二人が各々口を開く中、梓春は立ち上がって、填油に詰め寄る。
「あの、少し待って。先生、今は健康だと言うけれど、今朝起きた時にはまだ熱があって、酷い頭痛もしていたのよ」
そうなのだ。梓春が目覚めた時から芹欄と話している間までは、全身が火照って気だるく、ズキズキと鈍痛に襲われていた。
今はそれがすっかり消え失せて、鉛のようだった身体も羽のように軽い。
「綵妃様、それは病が癒える徴候なのではないでしょうか。私としても未知の事態ですので、断言することはできませんが……」
「徴候?」
「はい。それに、ハッキリと申し上げましょう。今の綵妃の御身は頑健そのものでございます。この診断が誤りだとすれば、医界から退く覚悟です」
地位の高い典薬がそこまで言うとは。今度は梓春が目を見張る番だった。それは、妃相手だから等という事の大小には関係なく、恐らくは医者としての尊厳の問題なのだろう。
梓春が填油の医者魂に心打たれている中、ふいに夜芽が「あ、」と間抜けた声を漏らす。
「先生! 最初にお伝えするのを忘れていたのですが、綵妃様は今きおく「夜芽! 少しこちらに、芹欄も!」は、はい……?」
梓春は夜芽が言わんとしている事を理解して、慌てて言葉を遮る。
記憶喪失というのは半分正解で半分間違いだ。填油は素晴らしい医者だから、若しかしたら記憶喪失では無いということが分かってしまうかもしれない。梓春のウソがバレる訳にはいかないのだ。
幸いなことに、どんなに優れた医者であっても魂の入れ替わりを見抜くことはできないらしい。ならばこのまま綵月宮の門を出てもらわねば。
梓春は填油から少し離れた窓辺に移動して、芹欄と夜芽をちょいちょいと手招きした。
そして、填油に聞かれないように小声で二人に言い聞かせる。
「二人ともいい? 私の記憶が無いということは絶対に先生に話してはだめ」
「ですが……」
「私のことが心配なのであれば尚更のこと。私はこれ以上先生に迷惑をおかけしたくないわ」
まだ何か言おうとしている二人を視線で睨めつけ、立てた人差し指を唇に当てる。
「いいわね?」
二人は納得しない表情をしつつも、観念したのかコクリと頷いた。
「あのう、綵妃様。どうかされましたか……?」
此方の様子を不審そうに眺めていた填油が恐る恐ると言った様子で問いかける。
「いえ、なんでもありませんよ」
「はぁ……」
不思議そうに首を傾げていたが、どうやらそれ以上詮索する気は内容だった。流石医部の重鎮だ、場の空気を汲み取ることができている。
梓春は何も無かったかのように話を続ける。
「それでは、この身体で外出してもいいのね?」
「はい。ですが、私には現状の変化を推し量ることはできず、またいつ嵩じるか分かりませんので呉々もお気をつけください」
「分かりました」
填油は自身の薬箱から、お香代わりの
「あれから主上は此方へお越しに?」
「いえ、特には」
帰り際に填油は梓春に尋ねた。芹欄たちの話では綵妃が倒れた後も一度も見舞いには来ていないはずだ。
「そうですか……」
「主上はどのような御仁なのかしら」
「それが、私も主上にお目通りが叶ったことが無く、良く存じ上げないのです。しかし、主上が妃嬪の宮にお渡りにならないのは、なんでも、『皇太后様がお許しにならないからだ』という噂を聞いたことがあります」
「えっ、皇太后様が?」
「はい。……ですが、所詮は真偽不明の風評に過ぎませんからくれぐれも信に受けませぬように」
此処で皇太后の名前が出てくるとは。それは本当なのだろうか、それともただの噂なのだろうか。梓春の旺盛な好奇心を掻き立てるには充分の情報だった。
「あと、綵妃様。念の為に、今日と明日は綵月宮から出ずに安静にしていてくださいね。絶対にですよ! 衛兵に記録されていれば直ぐに分かりますから」
填油の言い付けを聞いた侍女二人はうんうんと激しく頷く。
それに対して、梓春は表向きの笑顔で「もちろんですよ」と了承の意を示した。填油、すまない。その約束は守れない。
「それでは、これで」
填油は最後に「どうか、ご自愛専一にお過ごしください」と、深く拱手礼を執り、薬司へと帰って行った。
梓春は椅子に凭れて息をつく。違和感なく綵妃に見えるように振る舞うのは、緊張の糸が張り詰めて中々に堪える。
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