第9話 霍山黄芽
***
「綵妃様、今日はお疲れでしょう。
芹欄がお盆に清廉な
全てボロ倉庫の書物からの知恵ではあるが、最低限の作法を身に付けていてよかった。高貴な方は碗を掴んでぐびぐび飲んだりしないのだ。碗の中の茶葉を口に入れないように、蓋で押さえながら飲む。
「お、美味しい……!」
なんてこった。今まで飲んだどの茶よりも美味だ。梓春は思わず掌を口許に当てる。
まろやかな甘さが口内に優しく広がって、暖かい羽衣に包まれているような風味であった。茶を飲むと心安らぐというのは、まさしく、この瞬間が当てはまる。
「それにしても今日は、本当に色々あったなぁ……」
目覚めたら、世界が一変していた。自分が綵妃の身体に入れ替わっていること。芹欄と夜芽という主人想いの侍女二人。病が癒えた奇跡。あとは……。
梓春は茶の湯に浸かっている茶葉をぼうっと眺めて、昼間のことを振り返る。
***
填油が帰ってから暫くして、
雨宸は梓春に、綵妃の身体への労りを簡潔に連ねた帝からの伝言を伝える。梓春はそれに対して、自身の妃であるのに随分とあっさりしているなという感想を抱いた。
そして雨宸は手に持っていた華美な漆箱を「主上からです」と言って、梓春へと手渡した。中には某州の絹地と希少な人参が入っているという。
雨宸は梓春が漆箱を受け取ったのを確認すると、そそくさと退出した。
気難しそうな御仁だったな。ピンと真っ直ぐに伸びた背筋。青みがかった黒髪と同じ色の涼やかな瞳。口許は一文字に結ばれて殆ど表情が動かなかった。
歳は梓春より三、四歳ほど上だろうか。淀みなく整った容姿からは、冷ややかで琉麗な印象を受ける。
途中、雨宸と目が合った刹那、梓春はギクリとした。彼は綵妃では無くて、その奥にいる梓春を見ているように感じたのだ。
運良く視線はすぐに逸らされ、梓春は深く息を吐いたのだった。
その後、梓春は軽く夕餉を済ませ、今に至る。忙しない一日の中、昼餉を逃してしまったから、夕餉までの間、梓春──今は"綵妃の"だが──の腹はぐうううと鳴いていた。
芹欄達はまた毒が入ってやしないだろうかと、入念に
しかし、残すのは勿体なさ過ぎる。そう考えて卓いっぱいの料理を完食した梓春を見た夜芽は、「胃腸まで大きくなられて……」とズレた感動に涙を流した。芹欄はなにやら頷いてその背を撫でる。
当の梓春は、その光景をやや引いた様子で眺めていたのだが。
***
美味かったなあ。
梓春は味を思い出して顔を綻ばせる。宮廷料理とはその素材もさながら、嘸かし腕の立つ料理人を雇っているのだろう。
今頃、宿舎で質素な穀物を貪っている夏月及び同僚達よ。俺だけ贅沢な生活を享受していてすまない。おまえ達のことは忘れていないぞ。
門兵の食事に彩りを増やしてくれても良いのにと思うが、宮中に仕える官吏の数を思えばそれが容易ではないことが分かる。梓春も阿呆ではない。この世の仕組みは理解しているのだ。
「それにしても、このお茶は良い香りだわ」
梓春が尋ねると、芹欄は微笑んで答える。
「勿論ですとも。国内でも希少な黄茶ですから。綵妃様は覚えておられないでしょうが、主上への献上品が各宮へと下賜されたのです」
「ええっ!?」
ということは、梓春が生涯味わうことが叶わないような高級茶葉であるということだ。様々な点で身分の差を思い知らされる。
しかし、何故、この身体から毒まで消え、以前よりも健康になったのだろう。まあ、入れ替わりが起きている時点で、そんなことを考えても仕方ないか。
「……綵妃様、近頃雰囲気がお変わりになられましたね」
「そう……?」
芹欄は湯を注ぎながら呟く。カチャリ、と梓春の前に二杯目の蓋碗が置かれた。
「ええ。なんというか、以前は儚い泡沫のようでしたけれど、今は活力が漲っているというか。きっと健やかになられたおかげです」
芹欄は身体の前で両手を握って、嬉しそうに笑った。梓春はその笑顔に対して、曖昧に「そうね」としか答えることができなかった。
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