第10話 その名は珱煌〈一〉
「さてと、」
夜も深け、部屋の窓に映る宵闇には三日月が昇っていた。
侍女達は去り、綵月宮には梓春だけ。今梓春の肉体の調査をするためには、今が抜け出す絶好のチャンスだった。
医者である填油も健康体であると言っていたのだし、外に出て綵妃の身体を損なうことはないだろう。
梓春の装いは、今朝から身につけていた菫色の深衣と、雨宸が訪れた際に羽織った上衣である。上衣はまろやかな象牙色の布地に小花柄が施されていた。
長い髪は昼間に芹欄が後ろでふたつに結ってくれていて、薄紅色の組紐が非常に映えている。
梓春は垂れた横髪をすうっと撫でる。未だに、この美しい女性が今の自分の身なりであるとは信じられず、気恥しい心持ちがする。
「……よし、」
梓春は部屋から出て、忍び足で綵月宮の門まで向かう。そうっと門の扉を開き、辺りを見回して周囲に誰も居ないことを確かめる。
侍従が去ってしまった綵月宮には今、門番が居ない。代わりに夜芽が名乗りを上げたが、「絶対に自室に戻って寝なさい」と、堅く言いつけた。言いつけたのに、だ。
「夜芽……!」
門の前に夜芽が凭れ掛かって座っているのを見つける。かく、かく、と頭が揺れるところを見るに微睡みの最中だろう。
あれほど言ったのに、過保護な侍女だ。まあ、警備面ではその方が安心できるが。
梓春は夜芽を起こさないように、狭い隙間から抜け出してゆっくりと門を閉める。幸い、夜芽が起きる様子は無く、ほっと胸を撫で下ろす。
梓春は前後を確認して、梓春の管轄だった碧門の方向へ駆ける。できるだけ、足音を立てないように。
下級ではあれど立派な後宮門兵であるから、後宮内の地図はちゃんと頭に入っている。
綵月宮はかなり奥に配置されており、碧門に行くには庭園と帝の住まう
「流石に警備が固いな……」
鶺鴒宮の近くまで走り、物陰に身を潜める。
梓春は柱の影から顔を出して様子を窺うと、門前に二人、少し離れた場所に更に二人立っているのが見えた。綵月宮の夜芽とは違って、ちゃんと目を開けている。
「裏にまわるか」
別に中に侵入しようなんてことは思っていない。ただ、通りたいだけだ。しかし、妃がこんな夜更けに侍女も付けず出歩いているとなると、それはそれで問題だろう。
梓春はそうっと鶺鴒宮の裏に回り込んで、庭園の中を通っていくことにする。遠回りになるが、そちらの方がリスクは少ない。
「はぁ……はぁっ…………」
この身体、体力が無さすぎる……!
梓春の鍛えられた肉体であればこの程度で息切れする筈は無い。梓春は木の幹に手を置き、胸にもう片方の手を当てて「ふぅ……」と深呼吸をする。
仕方ない、少し休んでいこう。
梓春は近くの木陰に置かれた涼み台に腰掛ける。夜風が素肌を擽ってとても心地よい。色とりどりの花々が咲きほこる情景は、まさしく後宮の絢爛たる姿の象徴とも見える。
そういえば、門兵になってからというものの、こんな風に自然の中に身を預けて暇を楽しむことなどなかった。ちょうど三日月が梓春の正面で耀いている。
梓春が涼み台で休んでいると、カサカサと木々の擦れる音が聞こえてくる。梓春は襲われた二日前の夜を思い出して、ビクッと肩を揺らした。
誰かいる……! 見つかってしまう!
梓春が身を隠す間も無く、叢から男が飛び出してきた。梓春は思わず「へっ!?」と間抜けな声を出してしまう。人に見つかったのだから、本来ならば逃げるべきだ。しかしそれができない。
梓春の目の前に現れた青年は、月明かりに照らされて、たいそう美しく見える。
光に透ける白銀の髪と、まだあどけなさが残る顔立ち。紫の瞳がじっと此方を見つめている。背丈はまだ伸び代がありそうだが、それはまさしく洗練された美であった。歳の頃は、梓春よりいくつか下のように見える。
しかし何故だろう、全身を纏う清らかな情調はピリピリと威圧感さえ感じさせる。
それに、どこかで見覚えが……。
どうやら驚いたのは向こうも同じようで、唖然とした表情をしていた。恐らく此処に梓春が居ることは想定外だったに違いない。
そして、梓春に向かってやや焦り気味に「誰だ?」と尋ねてくるあたり、今まで綵妃の姿を見たことがないのだろう。
「ああ……ええと、偶然通りかかった者で……あの、貴方こそ誰でしょうか?」
突然のことに柔和に取り繕うのを忘れていたが、もう遅い。まあ綵妃との面識がないようだからなんとかなるだろう。
男は衛府のように刀を帯刀している訳ではなかった。どこかの宮の宦官だろうか?かなり薄着で、深衣に薄手の羽織を身に着けて…………あれ?
もしかして、俺と同じ? 梓春は「はて、」と首を傾げる。この麗人も何処かから抜け出してきたのだろうか。
これは命拾いをしたかもしれない。此方の素性がバレたくないのと同じように、この男も深夜に此処にいることは他人にバレたくないはず。秘密保持の利害は一致するだろう。
「私は
「ええと、その……」
珱煌、聞いたことの無い名だ。珱煌は硝子のように端正な容姿に比べて、口を開くと予想外に柔らかく気安い男だった。
「まぁよい」
珱煌は口許に手を当て、何かを考えているようだった。そのひとつの素振りさえ優美である。
「貴方こそ何故こんなところに?」
「私は……」
珱煌は後ろめたいことがあるのか、じりと一歩後ずさり、気まずそうに視線を逸らす。その様子を見て、梓春は静かに鼻を鳴らした。
ははあ、この男もやましいことがあるのだ。
一旦自分のことは棚に上げて、腕組みをして言葉を待つ。どれどれ、俺が話を聞いてやろうじゃないか。
「……貴女は綵妃を知っているか? 私は彼女の様子を見に行こうと思ったんだ。しかし、私の宮には見張りがいるから、こうしてこっそりと抜け出してきた訳だ」
「えっ、綵妃……!?」
予想外の答えが返ってきて、梓春は眼を白黒させる。
綵妃だと。ということはこの男の目的は今の俺!?
こういう時、梓春にはどういう顔をしたらいいか分からなかった。「貴方が探している人物は目の前にいるのですよ」と教えてやる訳にもいかない。
「そう、綵月宮に。けど、道中衛兵に見つかりそうになって……追尾を躱すために走っていたらこんなところまで迷い込んでしまった」
「それで、お……私に出会ったと」
「ああ。叢の間を抜けたら人が居て驚いたぞ。衛兵かと思って一瞬焦ったが、女人だったから少し安心した」
「なるほど……」
珱煌は深く息を吐き出す。そういうことか。この男が何故綵月宮に行こうと思ったのかは分からないが、とりあえず今の状況は掴むことができた。
「あのう、ひとつ聞きたいんですが、貴方は"梓春"という男を知ってますか?」
梓春は尋ねる。もしかしたら、珱煌はなにか情報を持っているかもしれない。
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