第6話 綵月宮にて〈三〉

「綵妃様〜っ!」

「綵妃様!」


 ドタバタとした足音と同時に、入口の方から芹欄ともうひとり別の娘の声が聞こえて、ぐっと身体を起こす。


「ほんとだぁぁ………綵妃さまっ……いぎてる……」


 芹欄に手を引かれてやって来た娘は、綵妃を前にした瞬間、緊張の糸が切れたように絨毯の上に蹲り、先程の芹欄と同じように鼻をすすって涙をぽろぽろと零した。


夜芽イェメイ、あんまり泣かないの。綵妃様が困ってるでしょう?」

「うう……綵妃様……!」


 芹欄はしゃがんで、夜芽に手巾を手渡し、その背を優しく撫でる。

 君もさっき号泣していたじゃないか。梓春は思わず心の内でツッコミを入れる。同時に綵妃がどれほど愛されて、心配されていたのかを実感した。綵妃がこの光景を見たらきっと嬉しいに違いない。


 梓春は娘の前まで行き、「泣かないで」となるだけ柔らかく声をかける。

 こういったことには慣れないな。梓春は年下の娘に対する対応が分からない。むさ苦しい男達に囲まれた生活が身に染み付いているし、女子を相手にした事などないのだから。


 梓春はそうっと目の前にある丸い頭に手を乗せて優しく撫でてみる。安心してくれるだろうか。

 すると、夜芽は大きな瞳をぱちくりとさせて、さらに泣き出してしまった。芹欄がその背を撫でて慰めている。梓春は手持ち無沙汰になってしまった。


 綵月宮というのは、いつもこうなのか? 凛とした後宮の想像と異なる絵面に、築き上げた幻想がやや崩れたような心持ちがする。


 "イェメイ"ということは、綵月宮から去らなかった残りの侍女というのがこの娘なのだろう。

 芹欄と似た桃色の衣装を纏い、左右の髪をおさげにしている。黄色い小花の髪留め鮮やかだ。背丈は芹欄と同じくらいだが、年齢は少し幼いだろうか。


「ふぅ………」


 梓春は、なんとか落ち着いた夜芽と芹欄を椅子に座らせて、自分も向かいに腰掛ける。椅子までふかふかなんて。その座り心地に、自然と頬が緩んでしまう。

 二人は最初、「とんでもないです!」と梓春と共に座るのを拒んでいたが、此方の方が居た堪れないのでなんとか説得した。

 なにせ、通常であれば梓春のような門兵よりも夜芽と芹欄の方が位が高いのだ。


「夜芽も、私が幼い頃から一緒に?」


 梓春は夜芽に尋ねる。記憶が混乱しているということは芹欄から聞いていたようで、芹欄は僅かに眉を下げるだけで、とくに驚く様子はなかった。


「い、いえ。わたしは此処に来てからのお付き合いです。宮中に出仕したばかりで何も分からず途方に暮れていたわたしに、綵妃様は優しく接してくださりました」

「そうだったのね」


 なるほど。綵妃は心優しい妃のようだ。


「実はふたりのこと以外に、宮中でのこともあまり思い出せなくて……」

「綵妃様……いいんです。ゆっくり思い出していけば」

「そうですとも、今は安静が第一です!」


 恐る恐るといった様子で言葉を紡いだ梓春に、芹欄と夜芽は卓上に身を乗り出して励ましてくれる。それに対して梓春は、感激した風に「ありがとう」と微笑んで見せた。


 我ながら演技派だな。春梓は心のうちで得意気になる。新たな才能かもしれない。時間が経過するにつれて梓春の中にある架空の綵妃の解像度が成長していっている。


「それで、私は今までどのような交友関係だったの?……主上とはなにか?」


 梓春が状況把握のために気になっていた点を尋ねると、芹欄と夜芽は互いに顔を見合わせた後、芹欄が先に口を開く。


「……綵妃様はお身体があまり丈夫ではありませんから、入内されてからずっと綵月宮で過ごしておられました。華妃様はお見舞いに来られましたが、親交を深めるほどお話をする余裕もなく……」

「主上のお通りもまだ……」

「そう、なのね」


 聞いていた通り、孤立しているのか。綵妃の人柄が良いにも関わらず、他の侍従が出ていったことも納得できる。

 妃との繋がりも無く、帝の寵愛も頼めないのであれば、いつまで経っても上にあがることは叶わないのだから。


「主上ったらあんまりですよね。一度くらい逢いに来てくだされば良いのに。昨夜だって……」

「仕方ないわよ、まだお若いんだから。それに、他の宮にだって鳳輦が渡ったことは一度も無いんだし」


 それは驚いた。帝がうら若いという話は兼ねてより耳にしていたが、まだ何処にも"お渡り"がないとは。寵愛が傾いていないというならば、何故綵妃は狙われたのだろう。ますます理由が分からない。


「それでは、毒を盛ったのは妃ではないのでは?」


 梓春が首を傾げると、二人は「確かに」と頷いてみせる。


***


「そんなことになってたのね……」


 二人から聞いた事件の経緯はこうだ。

 いつも通り調子の優れない綵妃は寝台から起き上がることもできず、その場で食事を摂るつもりだった。

 当時、綵妃の傍に付いていたのは芭浬ハリという年増の下女で、膳司ぜんしから運ばれた料理をそのまま綵妃の口許へ差し出したという。


 何の疑問も抱かずに口にした綵妃は、その直後、尋常ではない様子で苦しみ出し、もがいた末にばたんと倒れてしまった。

 食事を見守っていた芭浬は突然のことに仰天して、慌てて薬司へ駆け込んだ。

 この騒ぎをうけた刑司は場を検問した後、芭浬と綵妃の御膳を担当した膳司の尚膳しょうぜんを部署へと連行していった。

 芭浬と尚膳はどちらも尋問の最中、包み隠すことなく成り行きを話したが、容疑については終始涙を流しながら否認していたという。


 しかし、状況的に考えれば芭浬か尚膳が毒を仕込んだ可能性が高く、毒見を怠ったのも事実だ。

 結果として、二人は板打ちの罰を受け、身売りされた。証拠不十分のためか、極刑にまでは至らなかったという。


 結局、芭浬の宿舎や行李からも、膳司からも毒に関連するものは見つかっていないそうだ。

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