第4話 綵月宮にて〈一〉

***


「思い出したぞ……!」


 桃色に飾られた部屋。甘ったるいお香の匂い。梓春は姿見の前で綵妃の容貌を纏う自分を見つめ、昨日の行動を反芻したとき、黒装束の刺客に襲われたことを思い出す。


 気絶してしまった後、梓春はどうなったのか。何故襲われたのか。そもそも何故綵妃の身体と入れ替わっているのか。


 我が親友夏月よ、心配するな。少なくとも俺の魂は此処で脈打っている。

 しかし今、梓春の魂が綵妃の身体にあるということは、梓春の身体の中にはもしかして。


 次から次へと湧いてくる疑問や素っ頓狂な妄想が頭の中をぐるぐると駆け巡る。くそう。たとえ思い出せたところで、こんな具合じゃ根本的な問題は何も解決できない。


「綵妃様…? 大丈夫ですか…?」


 突っ立ったまま動かなくなった主人を心配したのだろう。背後から侍女らしき娘がおずおずと声を掛ける。綵妃と同じ、亜麻色の瞳が印象的な娘だ。


 すまない。全然大丈夫ではないし、私は君のことを何も知らない。しかし、ここで「私は梓春というただの門兵であり、綵妃ではない」等と訴えたところで、物の怪に取り憑かれて気が狂ったと誤解されるだけだ。精神を病んだとして薬司やくしにしらされ、綵妃の名誉を損なってしまう。


 もし仮に誰かが信じてくれたとして、妃嬪の寝室を覗いてしまった梓春はどんな罰が下ることか。

 どうやら、元の身体に戻るまで綵妃のふりをするのが最善のようだ。それがいつなのか分からないし、我ながら楽観的だなと思うが梓春はそういう性質なのだ。

 何とかなると思いながら生きてきたのだから、仕方がない。


「ええと……君、今日は何日だ?」

「今日は三月四日ですけれど……その、綵妃様は丸二日間眠っておられました」


 梓春はとりあえず、声を優しくすることを心がける。

 綵妃がどのような話し方をするのかは知らないが、柔和な妃を想像してそれを演じてみる。口調は姉を真似れば何とかなるだろう。多分。


 "四日"ということは、彼女の言うとおり、今日は綵妃の毒殺未遂があってから二日後ということになる。梓春自身の肉体は何処へ行ってしまったのだろうか。皆目見当もつかない。


「綵妃様、もしかして、わたしのことも忘れてしまったのですか……?」

「え?」


 娘はまたしても、ぐすりと涙ぐむ。


「うう……綵妃様がわたしを"君"なんて他人行儀に呼ぶなんて……!!」


 嘆く娘を前に梓春は考える。これはチャンスなのではないか。どうやら娘は"綵妃は毒の影響で記憶喪失になってしまった"と勘違いをしている。このまま上手くやれば、綵妃の身辺事情に疎くとも誤魔化せるのでは。

 梓春は、これは妙案だと手を打ち、言葉を続ける。


「その、毒の影響で記憶が混乱していて……君の名前も思い出せなくて」

「そんなぁ…っ!!」


 娘はわっと顔を掌で覆い、またぐすぐすと泣き出してしまう。泣き味噌だな、なんて思う一方、後ろめたさで胸がズキリと痛む。

 それにしても、こうもあっさりと信じてしまうとは。目覚めて最初に出会ったのが素直な娘で良かった。梓春は、ほっと息をつく。


「……わたしは芹欄キンランです。本当にお忘れですか……?」

「いや、その……」


 潤んだ瞳に罪悪感を覚えるが、どうしようもない。未だ怠さの拭えない身体を寝台に凭れ掛け、その傍で芹欄の素性について話して貰った。


 芹欄は幼い頃から綵妃の側仕えとして育ち、そのまま三年前に綵妃が入内したと同時に玲瓏殿に入ったという。

 常に病気がちな綵妃の世話を担い、昏睡状態であったこの二日間も傍に付きっきりで看病してくれていたようだ。

 先程床に落とした器には、綵妃に当てる手拭いを持ってきてくれたのだろう。


 はて、他の侍女や女房は居ないのだろうか。後宮の妃嬪ともなれば両手で数える以上の側仕えを従えているはず。


「芹欄、他の侍従はどうしたの?」

「それが……」

 

 芹欄は目を逸らして、気まずそうに言い淀む。梓春はある程度の察しがついたが、なるだけ優しい雰囲気になるように心掛けて、次の言葉を促すように芹欄を見つめる。


「それが、わたしと夜芽イェメイ以外は皆、『綵妃様は夜を越えられるかどうか……』と宣告を受けた途端、他の妃に取り入ろうと出ていきました」

「なるほど」


 芹欄は「なんと恩知らずな……!」と眉を吊り上げて、綵宮から出ていった者たちに対する怒りを顕にする。

 梓春も薄情なヤツらだなと思うと同時に、得てして玲瓏殿とはそのようなものだとも思う。


 侍従は主人の地位により、その生活・待遇・俸給、加えて他の主人に仕える侍従からの風当たりが激しく変化する。

 綵妃が長くないと知れば、一刻も早く新しい傘を探さねばと行動に移すことは、当然と言えば当然であった。しかし、そのような忠誠心の薄い輩とは相容れないと梓春は思う。


「それじゃあ、ふたりしか残っていないという訳か。夜芽という侍女は今何処に?」

「夜芽は、薬司の典薬てんやくにどうにかして綵妃様を治していただけないかと、直談判しに行きました」


 綵月宮に薬官が留まって居らず、侍女が迎えに行かねばならぬという状況から見るに、綵妃は本当に死に近づいていたのだと推測する。

 梓春は芹欄に夜芽を呼び戻すよう伝えようとするが、その時、此処に置いてとても重要な確認事項を思い出した。


「芹欄、綵……ではなくて、お……私は毒を盛られたの、よね?」


 梓春はたどたどしく言葉を紡ぐ。我ながら一人称も口調も違和感が半端ない。


「はい」


 梓春が"毒"という単語を口に出した途端、芹欄の表情から色が抜け落ちる。瞳孔も暗くなり、憤りに小さな唇を震わせた。やはり、毒に倒れたというのは本当だったのか。


「それで、誰の仕業か判明したの?」

「いいえ……ですが、大体の見当は付きますよ」


 芹欄は首を緩く振ったあと、少し考え込んでから意見を述べ始めた。

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