第3話 梓春暗殺

 夜明け前になり、梓春は宿舎へ帰路に着く。あたりは真っ暗で、月の微かな光と間隔に配置された提燈の光が道の頼りである。

 皇帝の帰還以外はたいした通りも無く、やはりいつも通りの一日であった。梓春は欠伸を堪えながら時が過ぎるのを待っていた。


 普段、担当時刻が両者同じであったなら夏月と共に帰るのだが、彼は早上がりだったようで、今日は梓春よりも先に宿舎へと帰って行った。

 

「これは困ったな……」


 梓春は悩ましげに顎先を撫でる。先刻から誰かにつけられている。素人なのか、梓春にさえ気配が丸分かりであった。


 しかし、此奴の狙いが何なのか全くもって心当たりがない。今日も昨日も、一昨日も、門番として見張りの御役目をこなしていただけ。

 暇な時には、夏月や他の同僚とたわいもない話に花を咲かせていたのだが、まさかそれが職務怠慢だと思われたせいではあるまい。


 梓春は「はぁ」と小さく溜め息を零す。どうしたものか。このまま宿舎に戻るのはなんだか後味が良くない。


 まてよ。さては、最近噂の霊ではないだろうな。近頃、衛府の間で「最近の玲瓏殿には凶悪な霊が出る」という風説が流行っていたことを思い出す。


「いいや、まさかな」


 俺は陰陽師でも霊媒師でもないから、霊の対処方法など分からないぞ。まぁ、霊など信じていないが……。


 梓春が悶々としていると、背後からカサカサと枝葉を掻き分ける音が聞こえてくる。それに混じって微かに足音も耳に入ってくる。明らかに近づいてきている。


 梓春は歩みを止めて、正面を向いたまま視線だけ後ろに注意を置く。黒い影がどんどん此方に向かって伸びてくる。


 ふふん、俺は夜目が利くほうだ。

 そっと刀の柄に手を添えると、鞘からカチャリとこい口を切る音が鳴った。勤務外での抜刀は違反だが、命の危機ならば致し方がない。

 ぐぐっと足に力を入れて、柄に手をかけたまま「誰だっ!」と後ろを振り向く。


 そこには、梓春よりも幾分か背の低い男が身をかがめ、短刀を手にして立っていた。全身に黒い装束を纏い、顔は目許以外黒布で覆われている。

 特別ガタイが良いわけでも、身のこなしが洗練されているわけでもない。むしろ、見たところ貧弱であるし、武術や暗殺を心得ているような感じもしない。


 コイツ、全然強くなさそうだが……?

 梓春は拍子抜けし、気を緩める。短刀を持つ腕は震え、梓春が勢いよく振り向いた瞬間、その場に固まって動かなくなった。


「なあ、俺があんたになんかしたか?」

「は、はやくっ!」


 梓春が声をかけるが、話が通じないのか男は意味不明に叫ぶ。おかしい。彼の視線は梓春に向いておらず、むしろ梓春の背後に――。


「ぅぐっ……!!」

 

 突然激しい痛みに襲われる。腹から突き出た刃の先が月光に照らされて赤く光っている。切っ先周辺の布は血で滲んでいた。


 しまった、もうひとりいたのか!

 梓春を刺した背後の男は梓春の肩を抑え、手にしている刀をその身体から引き抜く。辺りに鮮血が飛び散った。梓春はせめて、と自身の刀を抜いて男を力いっぱい切りつける。


「チッ、油断したか……」


 咄嗟の抜刀に対処し切れなかった男は、梓春の刀に右腕を切られて仰け反った。男が押さえた傷口には血が滲んでいる。


 追撃しようとしたが、梓春はもう立っていられなくなり、呻いてそのままバタンッと地面に倒れ込む。「はっ……はっ……」と、くぐもった荒い呼吸が漏れ出る。


「だ、れだ……」


 梓春は激痛を逃そうと歯を食いしばり、背後に頭を動かす。男は眉を顰めているようだったが、やはり目許以外は覆われていて、この男が何者なのかは分からない。


 影でよく見えないが、一瞬、彼の眼が此方を射抜くように鋭く光った気がした。暗闇に差す月明かりと重なって見えるその蒼く冷たい瞳が、梓春を突き刺す。どうやら、梓春をつけていた男は囮だったのだろう。こっちの男は素人なんかじゃない、確実に手慣れている。


 手練の武人が、何故梓春を狙うというのか。最悪だ、なんてツイてないんだ。理不尽と腹の痛みとで怒りと涙が溢れ出しそうになる。


 こんなとこで死んでたまるか!

 梓春は片方の手で腹を押えて、意識を保とうともう一方の拳をぐっと握りしめる。しかし、出血多量のせいか、徐々に脳が思考できなくなってきた。


「おい愚図ぐず、この男で間違いないな」


 低く温度を宿さない無関心な声。梓春を刺した手練の男だ。男は振り返って言った。

 

「あ、ああ。今日碧門で最後まで残ってたのは此奴だ、間違いねぇ。でもよ……こ、殺しちゃ不味いんじゃ……」


 先程まで梓春をつけていた素人の男が、及び腰で慌てて言う。


「生きていようが死んでようが変わらん。はぁ……さっさと此奴を縛れ」


 手練の男は淡々とした様子で言い、刀を振って切っ先に着いた血を落とし、鞘に収める。


「―――――――――」


 そして男は、もうほとんど動かない梓春に向かって何事かを言い放った。

 段々と遠のいていく意識の中でその言葉を聞き取ることはできなかったが、蒼く鋭い瞳だけは強く焼き付いて残った。

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