第2話 玲瓏殿

 梓春の目の前に映るのは美しい妃。


「どうしてこんなことに……」


 梓春は鏡の前で自身の記憶を辿る。

 梓春が綵妃と入れ替わったこの状況には、昨夜の事件が関わっているに違いない。


***


 昨日、梓春はいつものように門兵として勤務していた。


「退屈だ、生まれ変わりたい……」


 梓春は「はぁ、」と苦々しいため息を零す。

 この果てしなく広い玲瓏殿れいろうでんに仕えて早五年。十五歳の時に宮中に出仕し、以降は碧門へきもん門兵もんぺいとして御役目を果たしてきた。


 官職を与えられたのはいいものの、まだまだ下っ端で、今日も一日中立っているだけ。

 庶出でありながら、皇族近くの門を任されるというのは大抜擢ではあるが、如何せん退屈なのだ。


 内向きで身体よりも頭を使うことが好きだった梓春は、文官になりたいという願望を抱えていたが、そんな願いは儚く散っていった。


 庶民が宮中に仕えるためには衛府えふが一番望み高いのである。

 ボロ小屋の古びた書物を漁るのが好きな梓春は元来力技など不向きな性であったが、武官としての御役目を全うできるように、一生懸命鍛錬を積み重ねてきた。


 結局のところ、その決意も虚しく梓春の剣技を振るう場は中々与えられないのだが。


 玲瓏殿の警備は非常に頑丈であるため、外部からの侵入は滅多にない。奥に配置された門兵の役目は、主に門を通る人やモノの検問と宮殿内のいざこざである。検問はある程度規定に沿って行うが、深入りできない。

 そして、騒動への対処は将監がほとんど解決してしまうので、梓春まで仕事がまわってくることはほとんどなかった。

 また、下級官吏であるから俸給も少ないため娯楽など滅多になく、ひどく退屈な日常から抜け出したくなる。


 梓春はちらりと、碧門の奥を覗く。

 この後宮おくで、日々贅沢な暮らしができる妃にでも生まれ変わってみたいものだ。彼女たちは日々煌びやかな衣を纏い、観劇や管弦、読物だって自由にできる。大好きな点心だって食べ放題だ。


「何言ってんだバカ、そんなこと言ってないで真面目に仕事をしたらどうだ」

「仕事っていったってなぁ」


 隣に立っている同僚・夏月カゲツがじろりと窘めてくる。彼はつい三月ほど前に、梓春と同じ後宮門兵として配属された男だ。これまでの経歴について尋ねても、毎度「秘密だ」と言って、何も教えてくれない。


 梓春と同い歳である彼は聡明で、特徴的な涼しげな紫目と上品な雰囲気を纏っている。なんというか、生まれ持った気高さが梓春とは大きく異なるように感じるのだ。


 何故このような男が、こんな所で門番として働いているのか不思議でならない。


 文官の方が似合うだろうな。

 梓春は書物や牙笏げしゃくを手に持つ夏月を想像してみる。やはりしっくりくるな、と頷くが、段々と「フン」と澄ました夏月の顔が頭を占めて、無性に腹が立ってくる。


 夏月が入ってきた当初、梓春は張り切って先輩面をしていたが、その兵向きではない性質が見事に一致したもので、間もなく打ち解けた。今ではすっかり、親友のような間柄である。

 それはもう、一応の先輩である梓春に対して「バカ」と言ってくるほどに。


「……昨夜の綵妃の件を知らないのか? 不謹慎な発言をお偉方に聞かれたら、お前の首が飛ぶぞ」


 夏月は眉根を寄せて言う。


「綵妃……?」


 綵妃といえば有数の名家のご令嬢であるが、病弱で入内した当初から綵月宮に籠りっきりであるという。

 梓春の管轄は妃達の宮と近く、日々お出掛けになる妃の馬車を目にするが、綵妃の乗ったものは一度も見たことがなかった。


 梓春は遅番であったため、今朝の騒動は知らなかったが、「不謹慎」ということは彼女の身に何かあったのだろう。


「病か」

「いいや、毒だそうだ。幸い命は取り留めたが、一向に意識が戻らぬらしい」

「毒?」


 陰謀渦巻く宮中において、毒に限らず様々な手法で妃や高官を狙う事件は少なくない。大抵は私利私欲のため、都合の悪い相手を消そうとする同じ立場の人間の仕業である。


「なるほど、これは難しい事件だな。別の妃か侍女か、はたまた……」


 梓春は考える姿勢を取って、ふむと頷く。

 すると、夏月は呆れた様子で「おい」と肘をぶつけてきた。相変わらず真面目な男だ。

 この間は管轄の上兵に「夏月の方が随分と年上みたいだな」と笑われたが、本当に夏月は大人びている。


「それにしても後宮とは恐ろしいものだ。今の御世になってからは初めてだが、何年か前にも同じような事件があったというではないか」


 「妃になりたい」などという先程の願いは撤回しよう。そう、願うなら文官の方がいい。

 過去に見聞きした後宮のあれこれを思い出し、女の諍いは恐ろしいとつくづく思う。それは地位のためか、寵愛ちょうあいのためか。


 しかし、現在の妃たちには悪い噂など無く、いまの御世は平和だと思っていたのだが。


「おい!」


 後宮に想いを馳せていると、突然夏月が小声で叫び、梓春の思考を遮るようにして、肩を叩く。


 その瞬間、バァンッと重たい鐘の音が響き、梓春はハッと顔を上げる。皇帝の還幸かんこうを伝達させるため、近衛兵が銅鑼を鳴らしたのだ。

 仰々しい鳳輦ほうれんが門へと向かってくる。四方に簾が降ろされ、中の様子を窺うことはできない。その両側には将軍と近衛兵が控えている。


 梓春と夏月はすぐに脇へ退き、拱手礼きょうしゅれいを執る。

 そして梓春は、一瞬見えた近衛兵の中に、五年前同じ時期に衛府に入った長清チョウセイという男を見つけた。

 長清とは二年ほど同じ管轄で過ごしたが、彼が何処か別の所に異動になったきり、会うことは無かった。

 

 なるほど、長清は出世していたのか。


 一行はゆっくりと門を通り、鳳輦ほうれんは寝殿へと曲がり、後宮の奥へ進んで行った。


「お早いご帰還だな」


 一行の後尾が見えなくなってから、礼をやめ、夏月に話しかける。

 皇帝が玲瓏殿を出たのは昨日の夕刻であり、現在は日暮れ前である。時刻にして、ほとんど一日しか外に滞在していない。


「今回は近場であったし、それに綵妃の件が伝わったのだろう」

「何をしに行っていたんだ?」

「さあな。花見だと聞いたが」


 のんきな、と思うが事実平和なのである。

 周囲の国々とは平和協定を結び数百年、戦争など起こらないし、温厚な気質の民たちも滅多に反乱を起こしたりしない。


 さらに、宮廷には有能な占星術師とやらがいるようで、災害に関しても未然に対処もしくは迅速な後処理を行うため、世間の不満も小さく抑えることができている。


 今の世は宮中のしきたりも随分と寛容になったもので、皇帝に限らず妃も自由に宮殿の出入りができ、街へ下りることもできる。各種の儀礼も簡略化されて宮殿には開放の風が吹いていた。

 現在皇帝には皇后がおらず、行幸はひとりの場合が多い。


「なぁ、夏月。おまえは主上のお姿を拝見したことはあるか?」


 現帝は第二皇子だった。前帝が亡くなられるひと月前まで、後宮から離れて乳母と山奥の離宮で暮らしていたらしい。

 しかし、突然都に呼び戻されると直ぐに空席だった皇太子に指名され、今に至る。


 都から離されていた理由も、皇太子となった理由も梓春には分からない。

 皇子は現帝を含めて三人いた。政権争いは激しいと聞くが、他の妃と他の皇子は何とも思わなかったのだろうか。


 現帝は即位してからこの一年間、一度も大衆の面前に姿を現したことはなかった。結局、梓春も顔も知らないまま一年仕えている。

 少なくとも、皇太后や側近、妃には素顔を見せるのだろうけれど。


 行幸の際も鳳輦に乗って地方へ赴き、降りもせずにそのまま帰ってくるのだという。今回は花見だというが、簾越しに見る花の何が面白いのだか梓春にはわからない。


「いや……だが、若くて美しいという噂は耳にしたぞ」


 夏月は少し間を開けた後、顎に手を当てて答える。梓春も若いという話は聞いていたが、美しいというのは初めて聞いた。ますます、その容姿が気になってくる。


 それにしても、夏月は随分宮殿の事情に詳しい。新人であるのに、内外の物事において梓春よりもよっぽど精通している。


「お前のその情報は、一体どこから仕入れてくるんだ?」

「秘密だ」


 夏月はフフン、と鼻を鳴らしてみせる。まったく、秘密の多い男だ。

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