綵月宮は花盛り

祈月 酔

第1章 綵月宮

第1話 プロローグ

 一体どうなってるんだ……。


 梓春シシュンが目覚めると、全く見覚えのない、煌びやかな寝台の天蓋が目の前にあった。朝の肌寒さを感じさせないのは、梓春の首の辺りまで覆われた、肌触りのいい掛布団のおかげである。

 さらに、房室へやにはお香が焚かれているのか、微かに甘い香りが漂っている。


 ここはどこだ?

 顔を横に倒して房室の中を覗き見ると、そこには豪奢な家具が立ち並んでいる。色は淡い桃色が多い。ひと目で上等のものだと分かる卓や棚には、陶磁の茶器や可憐な花生けが飾られ、衝立や絨毯も華麗である。

 格子窓から差し込む陽の光が、房室全体を上品に照らし出していた。


 まるで、女子おなごの房室じゃないか。

 質素な衛兵の宿舎とは全く異なる広い房室。

梓春はそこではたと気がつく。まさか不貞を……と最悪の事態が頭に浮かぶが、それをかき消すように頭を振る。


 いやいやいや、それはないだろう!

 梓春はこの二十年を清廉潔白に生きてきたのだし、天子に身を捧げることを誓ったのだ。まして、そのような物事に興味もない。


 だがしかし、昨夜の自分の行動が思い出せないのも紛れもない事実であった。

 昨日はいつものように門番として見張りをしていたはずだ。その後、ちゃんと宿舎へ戻ったのか。その辺りの記憶がどうも曖昧である。


 まずは、変な誤解を招かないように一刻も早くここを出て、状況を掴まねばならない。

 いいや、身の潔白を確信するまで、逃げてはいけないのではないか。


 梓春にはこの状況での最適解が分からない。責任、追放、処刑……などの最悪な言葉たちが頭の中でぐるぐると回っている。


「うっ……」


 とりあえず、このまま寝ていてはいけないと起き上がろうとするが、身体鉛のように重く、上半身を起こすだけで精一杯であった。

 全身がだるい。熱を出してしまったのだろうか。それに、ズキズキと頭痛がするし、何かヘンな感じが──。


「え?」


 突然パリンッと何かが割れる音がして、反射的にそちらを見る。

 すると、房室の扉の前で若い娘が唖然とした様子でこちらを凝視していた。

 年は十五、六歳だろうか。その足元には粉々に割れてしまった器が散らばり、その中に入っていたのだろう液体が飛び散って、絨毯に染みをつくっていた。


 娘は桃色の衣を纏い、左右の髪をお団子に結っている。切り揃えられた前髪と、小花の髪飾りが可愛らしい。

 身なりからして、女官か、侍女か。よく見てみると衣の刺繍など装飾は簡素であるが、布地はちゃんとしているように見える。


 この部屋の主はこの娘か? いや、娘が持つには豪華すぎる。

 つまりここは、娘の主人の房室ということに。娘は何処かの富貴な御方に仕えているに違いない。

 まさか、この桃色の服と髪飾りは……。


 はて、これは本当にまずいかもしれない。

 梓春の背中をつうっと嫌な汗が伝う。たとえ何もしていなくとも貴人の住居で夜を明かしたと知れれば、どんな罰が待ち受けていることか。梓春は身分の低い下級官吏であるから、恐らく死罪は免れない。


 しかも、この房室の主は――。

 そう考えた途端に、天から吊るされた縄が目の前に浮かび上がってくる。


「ち、違うんだ! これは…………んん?」


 梓春は娘に向かって必死に弁明しようとするが、口から出た声がどうもおかしい。先ほどから、違和感という言葉では処理できないほどの違和感が襲ってくる。


 やっぱり、風邪でも引いたか?

 梓春が喉元を抑えて考え込んでいるうちに、扉の前でぽかんと口を開けて呆然と立ち尽くしていた娘は、わなわなと目許と口許を震わせて「うわぁぁん!」と泣き出してしまう。

 そして、娘はぐずぐずと鼻をすすりながら、散乱した器の破片に目もくれず、一目散にこちらへ駆けてきた。


「よ、よがったぁ……ぐすっ……もうお目覚めにならないかと……」

「え、ええっ?」


 娘は梓春の膝元に縋り付いて、良かった、良かったと繰り返す。「目覚めない」とかいう恐ろしい言葉が聞こえた気がするが、そんなことを気にする余裕すらない。


 一体何が起きているんだ。見知らぬ娘が梓春に縋りついて泣いているという予想もしない展開に頭がクラクラする。

 どうやら、悪事をしてしまったわけでは無さそうだが、まったく状況が掴めない。


「な、なあ……ここはどこなんだ?」


 縋り付く娘に対して疑問を声に出してみるが、先程から感じる強い違和感に顔が引き攣る。明らかに声色が高い。いや、高いというよりもこの声は……。

 梓春にしてはどうにも変な方向に冴えているようで、到底有り得ない仮説が浮かび上がってくる。


 梓春に尋ねられた娘は一瞬「へ?」とキョトンとして、涙を拭いながら言う。


「そんなの、綵月宮さいげつぐうに決まってるじゃないですか。もう、綵妃さいひ様ったらっ」

「ああ、綵月宮か、さい……はは……は?」


 ふふっと安心しきった表情を浮かべる娘を余所に、梓春は真顔になって虚空を見つめる。叫ばなかった俺を誰か褒めて欲しい。むしろ荒唐無稽な話に声も出なかったのか。


 綵月宮に綵妃、そうか、夢か。夢だな。

 脳内会議の結果も待たず直ぐに夢との判断を下して、梓春はぐいっと頬を引っ張ってみるが、明らかに梓春のものとは違う、柔らかい餅のような感触と鈍い痛みが返ってくる。


「嘘だろう!?」


 梓春は思わず頭を抱えた。そこには梓春とは異なる絹のような髪の手触りがあり、くらりと倒れてしまいそうだ。

 そんな梓春の心の叫びが声に出てしまったようで、「綵妃様……?」と娘が心配するのが聞こえる。頭の中がかき混ぜられているような感覚、過去最大級の頭痛がする。


 綵月宮とは後宮にある綵妃の住まう宮。綵妃とは皇帝の五人の妃・五妃ごひのうちの一人である。

 梓春の膝許で泣いているこの娘は、梓春に向かって「様」と呼びかけた。二度も言うのだから、聞き間違いではないだろう。


 梓春の様子に気づいた娘はハッとして、

「綵妃様っ! もしかして、記憶、記憶が無いのでは……!」と、涙目になって慌て出すが、そちらに構っている場合ではない。

 この娘、間抜けかと思えば勘が良い。記憶が無いのは正解だ。正解なのだが。


「その、姿見はあるか?」


 梓春はなんとか根気で重い体を起こして、寝台の近くに置かれた姿見と向かい合う。珠の素足がなめらかな絨毯に触れて、絶妙な心地良さを感じた。


「は、えっ……ええっ!?」


 姿見越しの自分を見て梓春は目を見開き、驚愕の声を漏らす。嫌な予感は的中していた。

 手入れの行き届いた艶やかな長い桃色の髪と、ぷっくりと赤らんだ柔らかそうな丸い頬。亜麻色の大きな瞳に、唇には艶やかな紅が指してある。


 なんて美しい人なのだろう。

 梓春は姿見に映る姿に思わず見蕩れてしまう。いや、美しいというよりは可愛らしいという言葉の方が似合うかもしれない。


 梓春はそうっと垂れた袖を持ち上げる。淡い菫色をした薄手の深衣には細やかな金の刺繍が施されている。その容姿は、薄いボロ布を身に纏ってごつごつと骨張った梓春のものとは似ても似つかない。


 梓春は姿見越しではなく下を向いて、今の自分の姿を確認するが、まさしく鏡に映る通りの容姿をしていた。


「なんで、俺が綵妃に……!?」


 鏡に映るこの人は、まさしく綵妃だ。綵妃の姿を見たことは無いが、娘の言葉からして……俺が綵妃に見えるに違いない。梓春の口から出る声だって、女子の声なのだ。


 絵物語でしか見た事がないような空想的現象が、今自分の身に降り掛かっている。

 到底信じられないが、幾ら瞬きしようが頬をつねろうが、感覚は非常に冴えていて夢ではないようだ。


 姿見の中の綵妃の顔は青白く、口角がぴくぴくと引き攣った表情をしていた。

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