第75話 春風〈二〉

「綵妃、花を見に行かないか?」


 ゆっくりと歓談を楽しんだ後、珱煌が立ち上がって梓春を誘った。梓春も散歩がしたいと思っていたところである。


「花ですか?」

「誕生祭の宴で見た大桜だ。どうだ?」

「ぜひ、お供します」


 玲瓏殿にある大桜。誕生祭に見たあの桜の木だ。あの時は珱煌の身の心配ばかりで、桜を愛でるどころではなかった。


 珱煌に連れられ、綵月宮を抜け出す。途中、長清に見付かったが、手を振って見送られた。

 夜中の玲瓏殿を歩いていると、庭園で珱煌と出会った時を思い出す。


「夜の散歩って、なんだか背徳感がありますよね」

「ふふ、そうかもしれないな。こんな夜遅くに桜を見に行くのは初めてだ」


 護衛も連れず出歩く皇帝と妃の姿に、碧門の衛兵は驚く。しかし、珱煌がしいっと口元に人差し指を立てると、衛兵はこくこくと頷いてささっと通してくれた。

 少し前まで梓春は衛兵側で、夜中の玲瓏殿にも慣れたものなのに、なぜか今は目新しく感じる。


 やがて、二人は大桜の根元に着いた。

 この間は珱煌を先頭に、梓春は少し離れたところで眺めていたから、こんなに近づくのは初めてである。


「月明かりと相まってとても綺麗な桜ですね」

「そうだな。夜に観賞するのもまた趣深い」


 夜風に揺れる花弁は妖艶で幻想的ある。桜の簾に包まれた夢幻のような心地がした。

 穏やかな沈黙の後、梓春は口を開く。ずっと話すべきが迷っていたことだ。


「主上」

「どうした」


 桜を見上げていた珱煌は、すっと梓春の方を見る。桜の色を反射する銀髪が靡き、優しい表情が梓春に向けられた。


「今から話すことは、主上を裏切ることになるかもしれません」

「……なにか言い難いことか? 私はなにを言われても構わない。話してみろ」


 珱煌は不思議そうに首を傾げて、それから梓春を促した。今だ。話すのは今しかない。

 

「実は……私は、綵妃ではなくて梓春なんです」


 梓春は珱煌の瞳を見つめて、視線を逸らさないように、思い切って秘密を告白した。どくどくと、緊張に脈が速くなっている。

 騙していたと怒られるだろうか。顔も見たくないと言われるだろうか。


 珱煌はおもむろに目を見開き、そして「梓春?」とだけ聞き返す。


「はい……綵妃の身体と入れ替わってしまったというか、なんというか……中身は、俐尹に襲われた門兵の梓春なんです。こんなこと突然言われても困りますよね……」


 梓春はできるだけゆっくりと話した。尻すぼみになってしまったが、これでも勇気を振り絞ったのだ。

 訳の分からない文言だから、珱煌がぽかんとするのも当然である。頼む、気狂いだと思わないでくれ……!


「はははっ! そうだったのか……! 早く言ってくれればよかったのに」


 軽蔑されるかもしれないという梓春の予想とは裏腹に、珱煌は声を上げて笑う。今度は、梓春が呆気に取られる番であった。


「先程から神妙な面持ちでいたが、そういうことか。貴方は……梓春なんだな」


 珱煌はひとりで納得したように、うんうんと頷く。

 え、今の話で信じてくれたのか? どこからどう見ても綵妃でしかないのに。梓春は死んだって話だったのに。


「し、信じてくれるんですか!?」

「うん? 嘘じゃないんだろう?」


 梓春は混乱して珱煌に詰め寄る。しかし、珱煌は平然とした様子でいる。

 この真っ直ぐな眼差し。梓春をからかっている訳ではない。本心から梓春が言った素っ頓狂な事柄を信じてくれているのだ。


「怒らないんですか……?」

「ははっ、質問ばかりだな。なぜ怒る?」

「あの晩に会った綵妃は、梓春なんだろう?」

「は、はい」

「ならよい。それなら、私の中では初めから貴方が綵妃だ。それは変わらない」


 珱煌は微笑んで、梓春の肩に手を添える。梓春はようやく、張り詰めていた全身の力が抜けるのを感じた。


 そして、次に感じたのは珱煌に対する心配である。抜けているところがあるとは思っていたが、想像以上に騙されやすいんじゃないだろうか。俺が気を付けなければ……。


「しかし、驚いたぞ。私以外にも知っている者が?」

「はい。蕓妃と玲煌様が」

「……占師はまだしも、なぜ私より先に兄上が知っているんだ?」

「それはその、門兵時代の友人だったので」

「ああ……なるほど」


 夏月が潜入調査していたことを思い出したのか、珱煌は合点がいった様子である。


「では、本当の綵妃はどこへ?」

「蕓妃が言うには、最初に毒を盛られた時に死んでしまって、今は魂もこの世にはいないと……」


 結局、梓春が綵妃の夢を見るのは一度きりであった。あの夢も幻覚なのかもしれない。

 珱煌は「そうか」とだけ頷いた。綵妃と珱煌には一度も関わりがなかったと聞いていたが、珱煌が綵妃に対して何を思っているのか、梓春には分からない。


 珱煌は過去の記憶を手繰り寄せるように、大桜の隙間に輝く月を見上げる。


「初対面で私を庇ってくれたとき、妃とはこのように勇敢なのかと思ったが……そうか、そうだったのか」


 それは梓春に宛てる台詞ではなく、呟きだった。梓春はなんと返したらいいか分からずに、珱煌の視線を追って、月影を見つめる。


「これから二人の時は梓春と呼んでも?」

「は、はい。お好きなように」

「梓春、うん、なんだかしっくりくる気がする」


 珱煌は梓春の名を呼び、満足気に頷く。

 皇帝サマに名前を呼ばれるとは……。

 梓春はなんだか照れくさくて、「そうですか」とだけ返す。


「そういえば、主上は花が好きなんですか? 先月も花見に行っていたと聞きました」


 そして、梓春は動揺を隠すように、別の話題を持ち上げる。これも気になっていたことだ。


 梓春が皇帝の還幸に場に居合わせたのは、ちょうど俐尹に襲われた日だった。夏月に御幸の目的を尋ねると花見だというので、のんきだなと思った記憶がある。

 

「ああ、あれか。遊んでいたわけではないぞ。皇太后の件で近くの領主を尋ねていたのだ。まあ、花が好きだというのも、その帰りに花を見たのも真だが……」


 なるほど。あの時も珱煌は皇太后の裏について調べていたわけだ。夏月も知っていたのだろうに、『皇帝に会ったことはありません』というような涼しい顔をしていた。


「そうなんですね。俺の故郷にも綺麗な花や木があるんです」


 花が好きと聞いて、梓春は故郷を思い出す。

 梓春の故郷である栗楊は玲瓏殿から離れた田舎の方で、建築物が少なくて自然豊かだ。そこには美しく鮮やかな花々がたくさん咲いており、子供の頃は山で遊ぶのが楽しみだった。


「梓春、家族に会いたいか? 今度、私と共に故郷を訪ねよう」

「いいんですか……?」

「もちろんだ。気にかかるのだろう?」

「ありがとうございます……! お礼に、俺の故郷の花をお見せします。きっと気に入るはずですよ」

「それは楽しみだ」


 梓春は深く頭を下げる。綵妃となった今、李家に出向くことなどできないと思っていた。

 加えて、玲瓏殿が梓春の親族の生活費を工面してくれているのだ。珱煌にはますます頭が上がらない。これからは綵妃として俸禄を貰えるはずだから、それを仕送りに充てよう。


「梓春、この前大臣が言っていた言い伝えを試してみないか」


 珱煌はそう言って、にやりと笑う。


「花弁を吹くと幸運が訪れるという、あの?」

「ああ」


 大臣が言っていた伝説は、『桜の花弁が綺麗な弧を描き、ひらひらと空を舞う。そのひとひらを手のひらの上に乗せて、ふっと息を吹きかけると幸運が訪れる』というものだった。


 これは彼の作り話かもしれないが、梓春もそんな言い伝えを聞いたことがある気がする。

 ああ、結局あの大臣も皇帝暗殺未遂に一枚噛んでいたから追放されたんだっけ。

 梓春は頭を横に振って、どんどん飛躍していく思考を引き戻す。せっかく幻想的なのに、そんなことを考えるのは野暮だ。


「ほら」


 珱煌は手のひらを上にして、大桜に向かって腕を伸ばす。梓春もそれに倣った。


「主上にとっての幸運はなんですか?」

「国の安寧と……ふふ、あとは秘密だ。梓春は?」

「じゃあ……俺も秘密で」


 梓春がそう言うと、珱煌は僅かに眉を上げる。そして、「わかった」と微笑して頷いた。


 梓春が綵妃と入れ替わってから、まだたったのひと月半だ。実際に珱煌と話した回数も、まだ両手で足りるほど。

 けれど、そのような日月よりも濃い絆を感じる。この人の統べる国の行く末を見たい。この人を支えていきたい。

 戴冠をこの目で見た時に、いや、月夜の綵月宮で会ったあの日にはもう、このような感情が芽生えていたのかもしれない。


「来た!」

「おおっ……!」


 ふわっと風が吹き抜けて、大桜の花弁を散らす。梓春はそのひとひらが手に乗るように、目いっぱい天に手を伸ばして待つ。

 すると、ひらひらと舞う桃色の花弁が、梓春の白い手のひらに、ちょこんと座った。


「主上」


 咄嗟に珱煌を見上げると、彼も同様に花弁を捕まえたようで、梓春の方を向いて「いくぞ」と微笑む。

 

 梓春は頷き、手のひらを寄せてふうっと息を吹く。たしか、"桜の息吹"だ。すると、梓春の手のひらと珱煌の手のひらから、桜がひとひらずつ舞い落ちていく。


 これは、まじないの効果がありそうだな。

 珱煌も同じことを思ったのか、梓春の隣で感嘆の息を漏らした。


 梓春は桜の花弁を見つめて考える。

 自分にとっての幸運とは、名の通り"幸せ"であることだ。冬莱にも言ったように、今の梓春の目標は「幸せになる」である。

 第一の生は悲運にも短いものであったが、第二の生はうんと長く続いてほしい。今度こそ、早死はしないぞ。


 長生きの次は、そうだな……。来年もこうして珱煌と大桜の前で願掛けをする、というのも幸せのひとつかもしれない。

 珱煌は花が好きだから、梓春と一緒に来てくれるだろう。

 一生分の幸運を一度に手に入れようとは思わない。一年分のささやかな幸せでいいんだ。


 梓春はそんな未来図を胸に、春風に揺らめく大桜を見つめた。




(了)


─────────────────────


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

本編は、これにて完結です。


改めまして、応援ありがとうございました!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る