第15話 月夜の会合〈一〉

 もう宮内も暮色に包まれて、肌寒い春風が庭の花々を揺らしていた。


 何もすることがない梓春は、だらんと卓に身体を預けている。卓には花や葉の形を象った桂花糕グイホアガオが乗っていた。

 梓春は鮮やかな文皿に盛り付けられたそれを一つ摘み、口に含む。ほんのり甘くて美味だ。


「綵妃様、刺繍を始めてはいかがですか?」

「芹欄、今はそれどころじゃないのよ……」


 梓春は桂花糕を飲み込み、むに、と腕に頬を乗せたまま呟く。綵月宮では基本的に芹欄が綵妃の身の回りの世話を、夜芽が宮の支給物や庭などの管理をしているようだった。


 一日とはいえ、常に一緒にいるのだから、段々と芹欄の人柄が分かってきた気がする。


 芹欄は過保護で優しく、一見ポンコツかと思えば仕事ができる侍女だ。そして何かと梓春に勧めてくる。写経はどうだ、琴はどうだ、と。

 きっと、綵妃が元気に動けるようになったことが嬉しいのだろう。今までろくにできなかった物事を経験して欲しいのだと思う。


 ここで疑問なのは、「綵妃は何故選抜されたのだろう」ということだ。


 こう言ってはなんだが、身体の弱い妃を迎えても利は無いはずだ。苑家も有数の名家ではあるが、他にも権門はあるだろうに。これはまた謎が深まったな。

 梓春は桂花糕グイガオハオを食べながらぼうっと考える。あまりにも美味なので手が止まらない。


「あ、芹欄。言い忘れてたんだけど、そろそろ或る方が綵月宮にやって来るの」


 それにしても、あの男はまだだろうか。来ると言っていたのだが。


「ええっ!? 今から? 何方ですか!? 綵妃様のお知り合いですか!?」


 芹欄は身を乗り出して息荒く尋ねる。興奮した目が少し怖い。


「まぁ知り合いというかなんというか……」


 そうこうしているうちに、入口の方から夜芽がドタドタと忙しなく駆けてきた。


「今度は何だ?」

「もうっ夜芽ったら……」


 夜芽は真っ青な顔と興奮した顔を交互に繰り返し、震えた指で入口の方を指して叫ぶ。


「さ、綵妃様! 大変です! し、しし主上が此方へお越しにっ!!」

「へ?」

「は?」


 今、夜芽はなんと言った? 梓春は目をぱちくりさせて首を傾げる。


「夜芽、もう一度言って?」

「あの、主上が、綵月宮に…………!!」


 は、主上が、綵月宮に……?


「主上が!?!?!?」


 予想外過ぎる言葉に手に持っていた桂花糕をポロッと床に落としてしまう。梓春はそれに構うどころではなく、頭が空っぽになっていた。

 隣の芹欄も、口をあんぐりと開けて固まってしまっている。夜芽はオロオロと居てもたってもいられない様子で歩き回っていた。


「さ、綵妃様っ!」


 未だに信じられないというような顔をした芹欄に急かされて、梓春は房室を飛び出す。カッカッカッと駆ける足音が響く。

 一体何が起こってるんだ。一年間何処にも渡りのなかった鳳輦がどうして今日、綵月宮に。


「はぁ……はぁ……」


 庭の石畳まで来ると、綵月門の前に見事な鳳輦が停まっているのが見えた。

 そのすぐ傍に昨日顔を合わせた雨宸ウシンがじっと控えている。


「夢、じゃないよな……」


 雨宸は皇帝の側近だ。赤と金で彩られた荘厳な鳳輦。その横には静かに顔を伏せて控える近衛兵がいる。

 彼ら──雨宸を除く近衛兵は先日の昼間とは違い、その顔に黒い面布を付けていた。恐らくは、これから降り立つ鳳輦の主の姿を見てしまわないために。


「いたっ!」


 梓春は綵月宮で目覚めた時と同じように自身の頬をつねるが、鈍い痛みが返ってくるだけであった。


 ただ呆然と立ち尽くす梓春をよそに、男は簾を腕で持ち上げ、颯爽と鳳輦から降り立つ。

 高い位置で結われた銀色の髪が、夜風にきらきらと靡いている。身に纏う衣装は夜闇にも負けず、上質な絹だと分かった。その顔には金で縁取られた紅の面布が付けられている。


 何か、予感がする。

 男はコツコツと梓春の元へ歩いてくる。そして、スラリと伸びた手で梓春にだけ見えるように布面を捲った。


「……っ!?」


 満を持して現れた紫の両の瞳とバチッと稲妻が走ったように視線が合った。

 男は梓春が目を見開くのを確認すると、一瞬ニヤリと口角を上げて『あいにきた』と、口を動かした。


「……っ!?」


 梓春は思わず叫びそうになるが、息を詰めて何とか堪える。そして皇帝に対する反射で地面に片膝を着き、深く頭を下げる。

 凡そ妃が執る礼ではないが、仕方がない。皇帝を前にした時に何をすればいいのかということは、皇帝に仕える衛兵である梓春の脳に深く刷り込まれていたのだ。

 芹欄と夜芽は既に主上が鳳輦を降りた瞬間から地面に深く叩頭している。


 梓春の肩口からさらりと桃色の髪が垂れる。ドクドクと心臓が早鐘を打ち、一気に身体が熱を持ってきた。


 まさか、珱煌が皇帝だったなんて……!

 予感はしていた。珱煌は只者では無いと分かっていたのだが、昨夜の梓春の脳はそれ以上の思考を停止してしまっていた。


 梓春は処理しきれない心情のまま、石畳を見つめる。お目にかかりたいという念願がこんなところで叶うなんて。俺はこの御方に仕えていたのか。


「綵妃、おもてを上げよ。驚いたろう? だが、そんなに畏まるな」

 

 頭上から馴染みのある低音が降ってきて、梓春はバッと顔をもたげる。

 面布のせいで表情は分からないが、声色からして男は笑みを浮かべてこちらを見つめているだろう。輝く月光に照らされるその姿は、間違いなく珱煌だった。


「珱煌、殿……あ、いえ、主上……」

「ははっ、"珱煌"でいい」


 珱煌は意地悪に笑い、梓春の手を取ってその場に立ち上がらせた。梓春を驚かせようと意気込んでいたのか、大層ご満悦な様子である。

 一方の梓春は、されるがままに、心ここに在らずといった状態だった。


 我が国の皇帝。感激と畏怖の念を覚えるうちに、昨夜の無礼が徐々に蘇ってくる。


『時間が無い! 珱煌は俺と椅子の陰に隠れてろ! ほらっ!』


 体温は高まっているのに、顔がさーっと青く染まっていくのを感じる。


 俺は皇帝になんてことを! この阿呆め!

 様子のおかしい梓春を不思議に思ったのか、珱煌が「どうしたのか?」と覗き込んでくるが、梓春は視線を合わせることができない。

 しかし、皇帝をこのまま外に立たせるわけにはいかないという冷静な思考が働く。


「し、主上、まずは中にお入りください」

「ああ、そうだな」


 珱煌は頷き、しなやかな動作で房室の中まで歩いていく。梓春もその斜め後ろに控えて着いていく。

 顔を上げた芹欄と夜芽からの視線が痛い。それはもうチクチクと刺さりまくっている。


 皇帝の顔を拝めるとは。それも、こんなに近くで。梓春は酩酊に浸かったような心持ちで、目前にある尊大な背中を見詰めた。

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