第16話 月夜の会合〈二〉

 珱煌が椅子に腰掛け、梓春に手招きをするので、梓春は恐縮しながらそうっと隣に腰掛けた。


 芹欄が無言のまま礼をして、西湖龍井せいころんじんを注いだ茶器を卓に置き、ささっと立ち去る。昼餉の際に芹欄が「この茶葉も下賜品なのですよ」と教えてくれていた。


 珱煌は寛いだ様子で蓋碗を手に取り、茶を飲む。そして、「美味い」と微笑みを零して舌鼓を打っている。

 そんな気軽な感じでいいのか、珱煌は茶が好きなのだろうか、などと気になる事が色々あるが、まずは。


「昨夜は大変な無礼を働いてしまい、何とお詫びしたら……」


 梓春はおずおずと口を開く。緊張がほとばしり、表情も口調も固くなる。


「気にするな。詫びどころか私が礼を言いたいくらいだ。乳母も、臣下も私のことを壊れ物のように接してくる。それがとても窮屈で仕方がないんだ」

「窮屈?」

「ああ。けれど、昨夜の君は随分と親しげに接してくれた。それは私が"皇帝"だと知らなかったからなのかもしれないが、私が嬉しかったことには変わりない」


 珱煌は下を向いて碗の縁を親指でなぞり、昨夜のことを思い返しているようだった。


 梓春は何と返したら良いか分からず、「とんでもないお言葉です」なんて、ふわふわとした返答をしてしまった。


 果てしない無礼だが、喜んでくれたならば良かったのではないか、と、梓春の楽観的な思考回路が働き、張り詰めていた緊張の糸が少し緩まる。

 こんな奇怪な事態にでも遭遇しない限り、梓春のような下級官吏が皇帝と一体一で話をする場など臨めなかっただろう。


「主上は今までどの妃の宮にもお渡りになっていないそうですが、そのような状況で簡単に綵月宮に来てしまって良かったのでしょうか……?」

「……やはり、まずいか?」

「えっ?」


 珱煌は神妙な面持ちで上目に梓春を窺う。そして、肘掛けに頬杖を付いて「ううむ……」と何やら唸っている。梓春は自身の口角が引き攣るのが分かった。


 さてはこの人、なんにも考えてないな。きっと「よし、綵月宮に行こう」という軽いノリでやって来たに違いない。昨日の約束もサラリと交わされたし、案外抜けているのだろうか。


 仮に填油でんゆの言う噂が本当なら、どうやって皇太后の壁を乗り越えたのだろう。鳳輦に乗って多数の侍従を連れて来たのだから、お忍びではあるまい。


「皇太后様はお許しになられたのですか?」

「皇太后?」

「あ、いや……その、主上が妃の元を訪れないのは皇太后様がお許しにならないから、という噂をお聞きしまして……」


 梓春は尻すぼみになりつつ、疑問を口に出した。不敬かもしれないと、僅かに冷や汗が出てくる。

 膝に置いた手の甲を眺めて返事を待っていると、「ははっ」と意外にも軽快な笑い声が飛んでくる。


「確かにそれは本当のことだ。義母上ははうえが許さないから足を運べないんだ。加えて、妃のみならず、朝廷にも素顔を見せることを禁止されている」


 珱煌は自嘲的な笑みをたたえた。梓春がどうしてと尋ねる前に物悲しい温度を宿した呟きが耳に刺さる。


「義母上は私の事を嫌っている。何せ血が繋がっていないんだからな。それに私も彼女の事は…………いや、なんでもない」

「え?」


 珱煌は険しい表情で何かを言いかけて、結局やめてしまった。なにかこう、嫌悪が混ざっていたような気もする。二人の関係が悪いのは間違いない。

 それに、血の繋がっていないということも初耳だった。珱煌は皇太后の実の子ではなかったのか。珱煌の言葉の続きも引っかかる。けれど、それは軽々しく口にしてはいけないような重圧を感じた。


「実の母は私が生まれた時に亡くなった。故に顔も知らない。霖妃りんひ、聞いたことくらいはあるだろう?」

「霖、妃……」


 霖妃は前帝の五妃のうちの一人だった。梓春が出仕した時には既に去っていたから、彼女のことはよく分からない。まさか第二皇子の生母だったなんて。


「当時の皇后……現皇太后はそんな私を疎ましく思ったんだろう、私を離宮に住まわすことにした」


 珱煌は静かに目を伏せる。彼にとって実の母も父も居ない離宮での日々はどのようなものだったのだろう。


「失礼を承知でお聞きしますが……主上が皇太子となられたのはどのような経緯が?」


 色々と気になることが多々ある。そのうちのひとつを、梓春は我慢できずに口に出していた。


「ああ、本来ならば嫡子である第三皇子の方が皇太子となるはずだったと言いたいのであろう?」

「!? いや、そんなことは」

「構わない。私も帝位争いなどとは無縁だと思って過ごしてきたんだから」


 慌てて弁明しようとする梓春をよそに珱煌は楽しげに笑っている。


「ある日突然、父上に『おまえを迎えに来た』と言われ、後宮に連れられた。それまでに何度も父上は離宮に来てくれて優しくしてくれたから、私は特に疑問も持つことなく着いて行ったんだ」


 珱煌は「離宮での生活は退屈だし……」と存外子供っぽい理由を続ける。


「それでは、前帝は何故主上を?」

「それがよく分からないんだ。私は後宮に着いた途端、皇太子におかれ、父上が病であることを知った。そして、悲しむ間もないうちに父上が亡くなり、私は今ここに立っているというわけだ。不思議な話だな」

「ふ、不思議だ……」


 あっけらかんと言ってのける珱煌を前に、梓春は心のうちで頭を抱える。あまりにも謎が多すぎる。主上が皇帝である理由を彼自身も知らないなんて。


「皇太后様は反対しなかったんでしょうか?」

「いや、かなり苦言を呈していたぞ。私なんて蛇のような目付きで睨まれたんだから。……しかし、父上が折れないと分かったのだろう。地位のためか仕方なく私の嫡母として皇太后の座にいるわけだ」


 蛇のようなとは随分ないいようだ。しかしまぁ、皇太后は気が強いと聞く。何度か姿を目にしたこともあるが、あれは確かに気丈だ。


「当時は『第二皇子が生きていたなんて』という反応ばかりだった。だから即位した当初は、私の存在を知らない者から本当は"星詠選帝ほしよみせんてい"なのではないかと噂されてな」

「え、星詠選帝?」


 星詠選帝。この国では、何らかの理由で皇太子が決まらない場合、占星術師が占術を使って星を詠み、次の皇帝を選定する取り決めがある。皇族から選ばれることもあれば、全く関係の無い者が選ばれることもあった。

 白銀の髪に紫の瞳。確かにそうだ。前帝は黒髪に灰色の瞳であった。


「まぁ、実際全然似ていないようだ」


 珱煌は眉を下げて悲しげに笑う。そんな顔をしないでくれ。ズキ、と心が痛む。


「……主上、貴方の目に宿す力強さは前帝と重なります。心無い言葉は気にしなくていいと思います。そして、貴方が誰であろうと星詠選帝だろうと関係ない。……私が忠誠を誓うのは紛れもない貴方ですよ」


 つい、語気が強くなってしまった。皇帝に対して進言するなど、どうかしているかもしれない。けれど、目の前にいるのはただの青年のような気がして、どうも弟に重なって見えてしまう。元気づけてあげたいのだ。


 梓春の言葉を受けた珱煌は一度目を大きく見開き、そして柔らかく微笑んだ。まるで花がほころぶように。


「貴女は不思議だ。今まで私が見てきたどの女子おなごとも異なる」

「……そうですか?」


 まぁ女子じゃないからな、と返すこともできず梓春は黙ったままでいる。

 ……熱く語ってしまった。宮中に出仕したのは金のため。しかし、皇帝は命を懸けて御護りすると誓うあるじでもあるのだ。

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