四天王寺ロダンの青春
日南田 ウヲ
はじまりの跫音
第1話 ロダンの邂逅
(1)
蝉が鳴いているのが聞こえる。
――いや、
蝉は本当に鳴いているのだろうか?
マンゴージュースが置かれたファミレスのテーブル。そこに投げ出した頬からひんやりとした感覚が伝わると、もじゃもじゃに伸びたアフロヘアに手を伸ばしてボリボリと音を鳴らして頭を掻いた。
鼓膜奥に聞こえるセミの鳴き声。
それはここ数日連続して鳴き続ける蝉の声が貝のように自分の鼓膜奥にこびりついてそれが幻聴として鳴り響くのが聞こえているのではないだろうか。
そう、思いたくなる程、今年の夏は暑く、また蝉の鳴き声が煩かった。
ここに一人の若者がいる。
彼は顔を上げると片方の頬をテーブルにつけた。それと同時にひんやりとした感覚が頬に伝わる。それで僅かな涼をとろうとしているのだ。
だが顔の向きを変えたおかげで街の通りに面した窓から外が見えた。
外を見れば、夏服姿の下校する高校生達の過ぎ行く姿が見え、その高校生達の姿を見つめる眼差しが細くなる。まるで自分の過去と言う時間にフィルターを合わせるカメラのレンズの様に。
若者、――彼の名を四天王寺ロダンと言った。奇なる姓に妙なる名と言いたいところだが本名が在る。この名は彼の役者名である。
彼は大阪天王寺の阿倍野界隈にある小さな劇団『シャボン玉爆弾』の劇団員であり、役者兼脚本を担当している。
今日は新しい劇の為の脚本を書こうと思い、朝からファミレスに入り浸り、やがて昼を過ぎた。昼を過ぎた夏の陽を受けると集中力が切れ、やがてこの体たらくになった。
ちなみに彼の本名は
彼は三年前に芸術系の大学を出て、その際に司書の資格を取ったおかげで大阪一円の図書館の非常勤職員として働きながら、自分の夢である役者を夢見て生きている。
彼の属している劇団は小さい。
昭和の頃からある劇団の様に歴史も無い。卒業後に大学時代の仲間で作った劇団だ。
とてもじゃないがそれで生活できるというものなんかでは無いが、それでもいつかは大きな公演を夢見て活動している仲間達ばかりだ。
そんな劇団で彼は脚本を書いている。
脚本を書くこと自体は嫌いではない。
無論、役者を演じるのが一番好きだが、しかし或る意味、劇の枠を作る脚本と言うのも嫌いではなかった。
自分にとって才能を使い分けるとしてどちらがいいのかは分からないし、勿論、得手不得手と言うのもあるけれど、兎に角、今は秋に向けての劇の脚本を書かなければならない。
その脚本の書き方について最近ロダンは自分に言いきかせていることがある。
最初脚本を書き始めた頃は手ごたえの無い何とも言えない劇の脚本だったが、しかし夏の劇で書いた脚本は出来が良かった。それは自分の体験を踏まえて書いた脚本だったからだろうと思っている。つまり自分に言い聞かせている事と言うのはこれである。
――自分の体験に勝るものは無し
だが、
今はそんな自分の体験を巡らす頭の中に蝉が鳴いている声しか聞こえない。
(…だよなぁ)
ロダンは頭をボリボリと掻いた。
考えてみても演劇になるような特殊な体験は滅多にはない。
確かに夏の劇で書いた脚本は偶然自分がかかわった警察事件をテーマに書いた。
劇は『生首坂』と言うタイトルでミステリー仕立てにした。遠くの場所で起きた首無し死体を運んできた事件、その犯人は誰か?と言うミステリー演劇だ。それはたまたま自分が関係したことが諸端で脚本を書くことが出来た。
だが、今度の秋の劇の脚本として同じように自分の体験から何かを雑巾の様に絞り出して出てくるものがあるかと言えば皆無に近かった。
その皆無に近い心境の中で、ロダンは過ぎ行く高校生達の姿を窓からぼんやりと見つめた。
――高校生時代
まだ記憶に手を伸ばせばあの頃の自分に声が届きそうな、そんな青春時代の自分がまるで歩いていそうな夏。あの頃の自分は今こうしてファミレスで頬をテーブルについて涼をとる様な大人な自分を想像していただろうか。
そう思うと不思議に友達の顔が浮かんでくる。
(…懐かしい、皆今頃どうしているかな)
マンゴージュースの入ったグラスの氷が溶けて落ちる音がした。まるで時間というものがいつまでもそこに在り続けることが出来ないのだという教訓を籠めるように。
高校は芸術学部が在る学校だった。高校生活は普通だったと思う。思うが、それでも仲間は皆夢を持っていた。
――音楽で将来を夢見る友
映像で世界を制覇すると豪語する友
国際ビジネスで活躍するのを夢見る友
本当に上げれば足りない程の多種多様な夢の集まった卵がぶつかり合ってやがて孵化するまでのそんな最後の温もりの時間が高校時代だった。
不意に回想に浸るロダンの口から名が漏れ出た。
「…
言ってから彼は再び顔を上げて頬をテーブルにつけようとして顔を下げようとした。
――その瞬間、彼は勢いよく
言うと彼は急に手元にノートを引き寄せ、ペンを取り勢いよく何かを書き込んで行った。
書き込みながらロダンは思った。
(どうして、僕はあの夏の事を忘れていたんだろう!!)
ロダンは勢いよく書き込んでゆく。
(まさかあの事件を忘れていたなんて…
そんなロダンの窓際の側を制服姿の女子学生達が何事も無く過ぎてゆこうとしたが、誰かに呼ばれたかのように女子学生のひとりが不意に窓越しのロダンへ振り向いた。
ロダンは女子学生に気づくことなく何事も言わぬまま夢中で何事かを書いている。やがて女子学生は不思議そうに首を軽く傾げると、やがて歩き出して行った。
ロダンはもしかするとまだ記憶に手を伸ばせば届くあの頃の自分に声を掛けたのかもしれない。
それが女子学生を振り向かせたのだろうか。
だが彼は知らない。
書き込む彼は夢中だった。その眼差しは青春の頃の輝きに溢れ、そして無我夢中に生きたあの頃の自分をもう一度掘り起こそうと懸命にペンを動かしていたのだった。
それは役者『四天王寺ロダン』ではなく、青春時代を生きた高校生小林古聞を青春の輝きの中に掘り起こそうとして。
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