第5話 学園に伝わるソロ譜

(5)




 彼女は思いっきり校舎の廊下を走っている。

 その手に何かを握りしめて。


 階段も何段飛ばして駆け降りたか分からない。

 それ程彼女は躍動している。

 絡まりそうになりそうな足の歩幅を広げて駆けて向かう先は先程自分が音楽室から覗いていた三階の渡り廊下。

 その先に居る仲間にこの事を伝えたくて今は懸命だ。


 それは何故か?

(あのカマガエルの特訓に食らいついた甲斐が有った!!)

 飛び跳ねるように揺れる黒髪の下で思わずニヒヒと笑みが漏れる。


 彼女には悪いが少し音楽教師の鎌田がカマガエルとあだ名のされている所以を書く。

 鎌田は現在も教職の傍ら活躍するテノール歌手である。

 故に彼の声は艶っぽく、ややもすれば…ここだけの話だがオカマっぽくもある。

 それだけではない。恰幅が良く、その為か体系は腹が出て、それがどこか傍目に見てアマガエルの親分みたいに見えるのだ。

 つまり鎌田は「オカマ」足す「カエル」で「カマカエル」、ついでに名前も「鎌田かまだ」だから抜群のネーミングで「カマガエル」と言われているのだ。

 そのカマガエルの指導を入学一年から真帆は受けている。

 鎌田は厳しい教師だった。声楽科志望の彼女にとっては避けることのできない教師、いや、敵だった。その鎌田の厳しい指導を受けて二年が過ぎ、彼が真帆に放つように言った一言。

 それは…


 ――今年の卒業式の校歌の独唱ソロ、昨日の職員会議であんたに決まったからね。


 真帆の心が逸る。

(――カマガエルのしごきに耐えて頑張った甲斐があった)

 彼女は手にしている物を胸に抱きかかえた。

(卒業式での校歌の独唱ソロなんて、それだけでもN大に合格したぐらいの価値がある)


 ――卒業式での校歌の独唱ソロ


 この一事が彼女をこうも興奮させ、また躍動させている原因だった。

 それがどういう意味を持つというのか。意味を知る彼女は胸に抱きかかえた物を強く握りしめた。

 真帆が胸に抱きかかえている物のことは音楽科の学生ならば皆知っている。そしてそれが手渡される意味も。


 では小さな群青の天鵞絨ビロード生地のファイルに収まっている物とは何か。

 それは堀川学園に戦後から伝わる独唱ソロ譜だった。

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