第39話 イップ・マン、ブルース・リー そして甲賀

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 それを聞くと加藤がキャップ帽を軽く上げた。

「そりゃ、勿論。偽物を掴まされたこちらとしては、――本物を渡してくれよ、というお願いをしたくてさ」

「渡すとでも?」

 真帆が会話に食い込む。

 コバやんもじりっと加藤ににじり寄るように背を曲げる。

「渡してくれなきゃ。俺等の目的が達成できないんでね。ちなみに今誰が持ってるの?九名鎮さん?それとも甲賀君?それとも小林コバ?」

 その言葉にコバやんが僅かに反応するが、加藤は気にすることなくそれぞれを指差し笑った。

「今、此処に持って来ている訳ないよね。だって夏休みだし。じゃぁさ、また学校の補講が開始されたら、その時に頂戴。俺に呉れればその独唱ソロ譜の秘密を少し教えてあげるよ」

「秘密?」

 真帆が言うと、コバやんと甲賀が互いに顔を見合わす。

「そうさ、せめてそれぐらいは独唱譜アレを呉れたら教えてあげるよ。九名鎮きみは別に俺に渡した偽物が在れば十分だろ?あの――にこちゃんマーク入りでさ。あれでも五線譜だ、紙には変りない。十分卒業迄、練習できるよ」

 加藤の言葉を聞いてコバやんは何かざわつきを感じた。それは自分ではない。横に立つ真帆の内面から湧き上がるざわつきと言う風だ。

 まるでそれは夏に吹く熱風のようにコバやんの後ろ毛を吹き飛ばすと、勢いよく声となって加藤に向かって風のように吹いた。

「あんたさ!!」

 加藤が風を受ける。

「そういう意味だけで独唱ソロ譜があるんやないよ!!あれには学校を卒業した音楽科の学生の色んな想いが籠ってんの!!」

 真帆が吼える。

「音楽科の学生は皆、心の中で――もしかしたらこの独唱ソロ譜が自分に来るんじゃないかと思って日々心の中でひた向きに切磋琢磨して励んでるのよ。もし自分に回ってこなかったら、選ばれた人が親友だったら?どういう思いになると思う?それでも青春を一緒に過ごした仲間だから、悔しさを押し殺して選ばれた独唱者ソリストを卒業式に祝って皆旅立つのよ。そんな気高い友情がこれには籠ってんの」

 そして真帆が槍のように言葉を加藤に突き刺す。

「加藤!!何でも自分に都合よく合理的に考えるなっちゅーのっ!!」

 真帆が言い終えるのをコバやんは聞いて身体が総毛立った。まさか、普段冗談しか言わない友人の心の内にこうした熱い思いが籠められているとは。

 身震いとはこのことかもしれない。

 自然、彼は一歩足が加藤に向かった。

 だが、そこで自分を止める手があった。見れば甲賀だった。自分を止める手が震えている。甲賀も身震いしているのだ。

「小林君、ここは僕が行く。ちょっとは仲間の前で恰好つけさせてくれよ」

 甲賀がコバやんを押し下げて、一歩前に出ると加藤と対峙した。

 加藤は真帆の言葉の風を受けても表情が変わることがない。いや変わっているかもしれないが、それはサングラス越しに微塵も見えなかった。

「…加藤」

 甲賀が言う。

「なんだ?」

 応じる加藤。

「ここでお前を逃がし学校で二人が手荒い目に遭って独唱ソロ譜が獲られたら元も子もない」

「だから?」

「お前は今僕が此処で倒し、そしてお前の素顔を見てやる。そう、お前の正体を」

 言うと甲賀が軽くジャンプした。まるでこれから何かをするぞとでも言わんばかりに。

「へぇ。何?実力行使?こんなところで何かしたらあっという間に周囲にバレて警察が来ちゃうよ」

「わかんないさ」

 甲賀がニヤリと笑う。

「ちょっと、拳法の練習をしてたとか言えばね」

 その言葉を言い放つと甲賀は軽く足を開いて腰を落とすと身構え、スニーカの足先を加藤に向けて軽く足をステップして円を描くように迫ってゆく。

 その流れる様な動作を見て真帆が驚いて言う。

「隼人、あんた出来んの?格闘技」

「九名鎮、心配無用。僕はイップ・マンを尊敬して上海に居た頃から日々修行してる」

「マジか!!」

 意外な事に真帆が驚く。

「まぁね」

 ステップを踏んで加藤に迫る甲賀を見ながら真帆がコバやんに訊く。

「誰よ、イップ・マンて?」

「ブルース・リーの師匠だよ」

 コバやんが言って唾をごくりと飲み込む。

「ブルース・リー…」

 真帆が呟いて、コバやんを見た。

「…知らんけどな」

 真帆が言った瞬間、甲賀の足が大きく弧を描いて加藤の腕に振り下ろされた。








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