第25話 枯渇
マリベルを引き渡すよう告げる皇太子に対して、クライドは彼女を懐に抱き込んだまま動こうとしなかった。
焦れた皇太子がにじり寄ろうとするのを受けて、どうするつもりなのだろうとマリベルが様子を覗っていると、クライドは小さな声で呪文を唱えながら魔法陣を展開した。
二人がいる寝台の下、床一面に光る神代文字が浮き上がる。そこに込められた膨大な魔力のせいか、小さな稲妻がバチバチと音をたて、生き物のように跳ねながら古代文字が描かれて、寝台を囲うように円となって完結していく。
その様子を見て焦る皇太子。
「クライド、よせ! どうしてそこまで拒絶する?!」
「己の妻を守ることの何がおかしい。ジルの魔法はマリベルには危険すぎる、もしまた次に心臓が止まったら、今度は助からないかもしれない。だから絶対に、マリベルには触らせない」
クライドが眠っている間に吹き荒れる嵐のように、黒い暗雲までもがたちこめ、皇太子を威嚇するように雷を孕む。
「いったいどういうつもりだ、クライド……その傷を放置する方も不味いって言っているんだぞ」
「今、ようやく目を覚まして、命の危機は脱した」
「脱してねえって言っている! いいかクライド、魔物の解毒はできても、傷が閉じないままでいたらあっという間に腕が腐り落ちる。そんな症状は戦場でいくらでも見てきただろうが。俺だってその女に用がある、死なせるつもりなら治療なんぞするものか、世話を焼かせるな!」
皇太子が舌打ちをしている間に魔法陣を完成させたクライドは、電撃の檻のようなものの中で、マリベルを護り庇う。その姿は、皇太子にマリベルを少しでも触れさせたら、まるでマリベルが死んでしまうかとでも言いたげだった。
最初は何を争っているのか分からなかった当のマリベルだったが、混乱しつつも次第に状況が理解できてきた。
信じられないことだが、皇太子がマリベルに治癒魔法を施そうとしてくれているにも拘わらず、クライドが拒絶している。
その理由が、治療魔法を受けたら再びマリベルが魔力枯渇により、心臓が止まってしまうことを危惧してのことだという。
だが現在は、クライドの魔力を補給してマリベルは意識を取り戻した。危険は脱したもののマリベルの内に残る魔力は、怪我を回復させるまでには足りないことはマリベル本人とて自覚があった。魔力の枯渇は命にかかわる。
マリベルはこれまで治癒魔法を施されたことがない。風邪になれば症状がよくなるまで寝ているしかないし、怪我も自然治癒を待つしかない。それは普通の帝国民とて似たようなものだ。なぜなら、ほんの少し傷口を塞ぐ程度でも、治癒魔法は膨大な魔力が必要とし、それを使いこなせる魔法使いが少ないせい。
恐らく治癒魔法に、マリベルは耐えられない。
「心配いらない、何か方法がある。きっと、だから少しの間、痛みを我慢して」
クライドが、哀しい目をマリベルに向ける。
彼は、自分を失いたくないと思ってくれているのだと分かり、マリベルはこんな時なのに嬉しいと感じる。そして同時に、ここまで自分を心配してくれる彼に、真実を話さず憂いさせていいのかと自問する。
「チャールズ、医師の手配は?」
「今、オルコットが迎えに行っています」
その言葉と同時に、部屋にはクリステルとルイーゼが入ってくる。そして二人はマリベルたちがいる寝台と皇太子の間に、怯むことなく立ち塞がった。
「お前たちまで……正気か? いくら公的には公爵夫人とはいえ、その女の酷い評判くらいは耳にしたことがあるだろう、庇う価値なんてないだろうが」
酷い評判というのを、まさか皇太子にまで届いていたとは思わず、マリベルは身を捩る。
「その女の様々な悪行について、詳しい調査を望む声を聞いている。怪我を理由に見逃すわけにはいかない」
「ジル……彼女の心臓が一度は止まったのを、きみも確認したはずだ。それなのに……命より噂の解明を優先するというのか、見損なった」
クライドが描いた魔法陣が、バチバチと音をたてて放電する。まるでクライドの怒りを感じたかのように。
「俺が確認したのは、ほんの少しの間だ。駆けつけたお前が奪ったせいで、心臓が止まったかどうかの確証はない。お前を欺し、同情を買うつもりで細工を……」
バチンと、稲妻が鞭のようにしなり、皇太子を襲う。
それだけでなく、側で皇太子を制するようにしていたチャールズ、寝台を守るように立っていた侍女二人までもが、蜃気楼のごとく練られた魔力を身に纏う。
「ただ少しの間、お待ちくださいというのが、どうしてご理解いただけないのでしょうね、粗暴がすぎて頭の方に不具合でも起きましたか、殿下?」
拳を合わせてボキボキと指を鳴らすチャールズが、やんごとなき相手にとんでもない軽口を叩いていて、マリベルは言葉を失う。
そして侍女たちも負けじと続ける。
「そうですわね、少しその単純な頭を冷やした方がよいようですわ」
「いいや……燃やした方がよくないか?」
ルイーゼとクリステルの二人を見比べて、皇太子が小さく嘆息する。
「お前ら、後悔することになるぞ?」
皇太子が右手を前に掲げる。
「アスクレピオン」
掲げた掌から光が溢れ、魔物を薙ぎ払った大剣が現れる。
マリベルに、迷っている暇はなかった。
自分のせいで、彼らに迷惑をかけるくらいならば、ここを去ることになってもかまわない。そう決意して、マリベルはクラウドの胸を押し返した。
「待ってください、皆さん」
マリベルの懸命な叫びが、緊張の糸を緩めた。
驚いた様子でマリベルに視線を向けたクライドと、振り向くチャールズたち。
「治療を、受けます……だから争わないでください」
「マリベル、無茶だ。君はいま目が覚めたばかりで、死にかけていたのだぞ?」
初めて見るクライドの表情に、マリベルの方も驚きつつも、懸命に笑顔を浮かべて首を横に振る。
「大丈夫です、魔力が足りないのを補えばきっと何とかなります。花を探して……リコリスの咲く場所へ、私を連れて行ってください」
肩の痛みに引き攣りそうになるのを堪えながら、マリベルは告げる。
「噂は、真実なのです、クライド様と違って……だからお願いします、私をリコリスの元に」
どちらにせよ、枯渇した魔力をリコリスで補わねば、いずれまた鼓動は止まるだろう。マリベルには後が無い。ここで治癒魔法を受けずとも、マリベルの魔力は常に生命維持で手一杯なのだから。
クライドが、マリベルの頬を手で撫でる。
「マリベル……リコリスは毒花だ」
「はい、でも私にとっては、救いの花です」
「……チャールズ」
マリベルから視線を外すことなく、クライドが執事の名を呼ぶ。すると忠実な彼は主の意図をすぐさま察し答えた。
「アッパー・カーン城の断崖の下、波打ち際にいくつか咲いたはずです」
執事が返答したのだが、それでもクライドはしばし考えあぐねているようだった。
マリベルはそんなクライドに、再び訴えかける。
「大丈夫です、レイク・ドラコニアの森に落ちた時も……花を口にして、火を熾したんです」
じっとマリベルを見つめる赤い瞳が細められ、その瞳の内にあった赤が色あせていく。
そして意を決したようにクライドは、マリベルをシーツに包みそっと抱き上げる。同時に展開していた魔法陣から光が失われていた。
「ジル、きみのためではなく、マリベルを信じて僕は行動する」
皇太子は舌打ちしながら、手にしていた大剣を再び掌の中へ握り込むようにして消した。
マリベルを抱え上げたクライドは、寝台を降りて歩き出す。
「痛みが耐えられなくなる前に、言ってマリベル」
「はい……大丈夫です」
「大丈夫なんかじゃないよ、きみは重症を負っている」
そう言われてはじめて、マリベルは自分の言葉の選択の誤りに気づく。当然のように気を遣ってくれる人には、どう答えていただろう。祖父の顔を思い出しながら、マリベルは言葉を選ぶ。
「ありがとうございます、我慢できなくなったら、ちゃんと言います」
それを受けてクライドは、マリベルを見下ろしながら小さく頷き、歩き出した。
マリベルを抱えるクライドを先導するかのように、チャールズが扉を開け、侍女の二人が皇太子を牽制するかのように後ろに付き従った。
アッパー・カーン城の階段を降りて、中庭を通る。魔人が暴れた庭は花が散り、植え込みが所々押し倒され、無残な姿になっていた。その景色を横目に、港とは反対方向の通路を進む。小さな通用口から城の土台となっている崖を削って作られた階段を降りると、海に出た。
足場の悪い磯を少し歩くと、小さな砂浜がある。その浜から崖の根元、それから岩壁の隙間にも、リコリスがいくつか咲いていた。
「クライド様、手が届くところまで、連れて行ってください」
マリベルがそう願い出ると、クライドは腕に抱き上げたまま目線の高さに咲くリコリスの元まで、彼女を運ぶ。
海風と潮を被った岩肌はゴツゴツと荒く、その岩の隙間から頼りなげにリコリスが一株生えていて、黄色い可憐な花が揺れていた。
「この花でいいか?」
「はい、今はクライド様の魔力が入っていますので、この花なら馴染みが良いと思います」
マリベルがリコリスへと手を伸ばす。
「本気なのか?」
その声に手を止めて振り向く。最後について来ていた皇太子が、マリベルの行動を訝しむ。
「クライドの言う通りならば、お前の妻は命をかけてせっかく毒を中和したのだろう、それをまた……」
マリベルと共に振り返ったクライドが、皇太子の言葉に返答を返すのではなく、マリベルを見下ろす。
「大丈夫です、私は……生きたい、です。だから信じてください」
自分をじっと見下ろす緑の瞳に、マリベルは微笑みを返す。少しも変化しないクライドの表情に、少し前の自分ならば色々な疑念を抱いたにちがいない。だが今はもう、彼が動じないのならそれは自分への肯定であると、分かる。
マリベルは再びリコリスへと手を伸ばし、黙って見守るクライドとチャールズ、そして心許した侍女たちの前で、その小さな花を根元から摘み取る。
触れるだけでも危険とされるリコリスの釣り鐘状の花を掌に載せ、躊躇なく口へ。
「おい、やめろ、どうして止めない?」
皇太子の声が聞こえたが、マリベルはかまわず呑み込む。
リコリスが触れる場所が、熱く火照る。触れた唇、舌を通って喉から熱が伝わる。痺れるような何かが、食堂を通って、腹へと行き、そこから四肢へと伝わる。まるでマリベルの身体が、乾いた砂漠になったかのように、小さな水滴を吸っていく。
「……マリベル?」
覗うようなクライドの声に、いつの間にか伏せていた瞼を開ける。
「はい、クライド様」
「大丈夫?」
「はい、身体に熱が戻ってきたようです」
マリベルが言うと、それまで黙って着いてきていたクリステルとルイーゼが眉を寄せながら覗き込む。
「本当に、何ともありません?」
「痛いところは? もっと喋ってみろマリベル」
ルイーゼがマリベルの手を取り脈を測り、クリステルは真剣な面持ちだ。マリベルはそんな二人にも微笑んで見せる。
「魔力を補充しただけなので、痛みはそのままですよクリステル、ルイーゼ」
それを聞いて、ルイーゼが珍しく深いため息を漏らし、クリステルは顔を歪ませる。それだけで、二人がどれほどマリベルを心配し、そしてこの状況に安堵してくれているのかを悟る。
「クライド様、お願いです」
「なに?」
「もう少し、花を貰って良いですか? まだ治療を受けるには、足りなさそうで……」
「ん、わかった」
すぐにクライドは、少し離れた場所に咲くリコリスの元へとマリベルを連れていく。先ほどよりも少し赤に近い花を手に取り、マリベルは口に入れる。
そうしていくつか追加で口にするたびに、マリベルの頬には血色が戻っていくのだった。
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