第8話 転移魔法の失敗
ドラコニア公爵家に設置された大きな転移魔法陣は、まずはマリベルとクライドを残して、使用人たち四人をドラコニア城へと送った。
既にマリベルの鞄を含めたすべての荷物は、あらかじめ送り届けられている。
残るは、当主クライドとマリベルのみ。
二人きり誰もいないリンデン・ブルーム城はしんと静まりかえっている。その中で、クライドは黙々と魔法陣に不具合がないかゆっくりと歩きながら見ている。十人が横に並んでいても充分に有効範囲となりそうなくらい、大きな魔法陣だ。幼い頃に使用した転移魔法陣は、国が設置し役所が管理しているものだったが、それよりも個人所有のものが大きいのだ。さすが公爵家は違う。
その魔法陣の外縁を歩くクライドを見守りながら、マリベルは準備が終わるのを待つ。
結局、マリベルの馬車で移動するという主張は、有耶無耶になってしまった。本当に自分が魔法陣を使用しても大丈夫なのかと不安は晴れないが、魔法の仕組みにすら疎いマリベルに、押し通せるほどの根拠もないし、鞄が送られてしまった後では、馬車に乗るためのお金も手元にないことになる。諦めるほかなかった。
そうして、さほど時間がかかることなく、魔法陣の準備は整ったようだ。
転移魔法陣の中央へマリベルは呼び寄せられると、先ほどと同じように手を差し出された。
ドラコニア公爵家の若き当主クライドは、無表情であるからこそその完璧な美貌が人を寄せ付けない雰囲気がある。その容貌に気後れしてしまうマリベルは、俯きながら手を重ねる。
「よ、よろしく、お願いいたします」
今日はこれで何度目だろう、こうして公爵に触れるのは。マリベルは心の中でそう自問する。
気後れの理由は、女性でありながら完全に美で負けている羞恥だけからくるのではない。彼は貴族の中でも特別に位が高い公爵。末端の子爵令嬢であるマリベルにとっては、普段ならば雲の上の人。それに加えて、彼は三年前に皇子とともに魔境を統べる王を倒した、英傑の一人である魔法使い。
こうして手を繋いでいるのは畏れ多いことだが、こうすることでクライドに迷惑をかけずに済むのだと、過去の失敗を思い起こしてマリベルは自分を納得させる。
だからどうか、失敗しませんように。
マリベルが覚悟を決めると。
「二十、数える間に終わる」
低く、落ち着いた声が降ってくる。
そしてマリベルが顔を上げたのと同時に、再び紫の光に視界が覆われるのだった。
マリベルは身体が浮き、身を固くする。だが右手には、温かい体温。それがまるで命綱のように感じられ、マリベルを奮い立たせる。
視界には、溢れる光とクライドのみ。マリベルはひとつ、ふたつと、心の中で数を数えて早く転移が終わることを祈ったが、その数が十を超えた頃だった。パリンと何かが弾ける。
それも一つではない。
マリベルが不思議に思って驚いてクライドを見上げると、彼もまた目を見開き、繋ぐ手を見下ろしていた。
マリベルもまたつられるように視線を落とすと、彼の腕に幾重にも嵌められていた腕輪が、次々と割れて落ちていくのが見えた。
「クライド様……?」
マリベルが見上げると、クライドの目が新緑から赤へと変わっている。
『転移が解呪されるようなら、すぐに新しい転移魔法を展開する。それがドラコニア城に着くまで……例え百回でも』
転移前に聞いたクライドの言葉が、脳裏に蘇る。
もしかして転移魔法陣に異常が出て、クライドが魔法を上掛けしているのではないだろうか。それでも転移が維持できずに、彼の魔法を助ける法具が破壊されているのでは。
その証拠に、次々と弾けて飛散する装飾品の石が、断末魔のごとく発火して灰になっていく。
その間にも、目の前のクライドは視線を泳がせながら、小さな声で呪文を繰り返している。
このままでは、過去の二の舞になる。
マリベルは咄嗟に、クライドの手を振り払った。
「……な、に?」
クライドが、はっきりと困惑の表情を浮かべて、マリベルを見た。
初めて、人形ではない彼を見て、マリベルは薄く笑みを浮かべる。初めて見た彼の人間らしい顔が、やっぱり美しかったから。
できたなら、笑みを見たかった。
そんな思いが浮かんだのと同時に、マリベルの足元にぽっかりと昏い穴が開く。
まるでマリベルだけを拒むように、彼女が触れる場所から転移が中和され、引きずりこまれるように穴へ落ちていく。
「……手を!」
マリベルに、クライドが手を伸ばす。
けれどもそれが届くよりも早く、マリベルは重力に囚われ光の中から放り出されていた。
下へ、下へ。
マリベルの身体は、空から真っ逆さまに落ちていく。
目の前に広がるのは青い空。そこに一筋の紫に光る流星を見ながら、マリベルは安堵する。
きっとあの軌跡は、クライドを運ぶ転移魔法なのだと。
そうしてマリベルは独り、深く生い茂る黒い森へと落ちていくのだった。
魔物たちが棲む魔境とドラコニア公爵領の境には、神霊が棲む山々が横たわり、アンブロワーズ神聖帝国を魔物から守っている。そんな伝説が、帝国の起源でもある。
そして境界山脈の裾野には、ドラコニア領のレイク・ドラコニアとその湖畔に広がる『黒の森』と呼ばれる不思議な森が存在していた。
『黒の森』にはときおり神霊が降りてくると言われ、立ち入りを禁じられているのだ。森は人の手が入らぬために深く、険しく、道もない。ひとたび入り込めば、二度と出て来られない。
ドラコニア公爵家は代々、魔物からの侵略と、守護神霊、二つの意味から帝国を守る大事な存在として在った。
「……ん、ん」
マリベルは、痛みと寒さで、目を覚ます。
大きな樹の苔むした根元、柔らかい草の中にマリベルは横たわっていた。
「……ここ、どこ?」
上半身を起こして見上げる樹上には、生い茂る葉の僅かな隙間から茜色の空が見える。
転移魔法から放り出され、ちょうど茂る枝葉がクッションになってくれたせいで、擦り傷だけで着地できたらしい。服は葉っぱまみれで、所々穴が開いていた。お尻の下には、大樹に寄り添って生えていたのだろう大きな宿り木の株がぺしゃんこになっていた。
「あなたが私を受け止めてくれたのね……ごめんなさい」
だが無事に済んだとはいえ、それもいつまでのことか分からない。マリベルが居る場所は、木々が生い茂る深い森の奥のようだった。どこまで目を凝らしても、樹の幹と枝葉しか見えない。上を見上げても、背の高い樹の枝でわずかに空が見えるのみ。これでは助けを呼ぶためにどこへ移動すればいいのか、マリベルには分からなかった。
それにしばらく気を失っていたようで、日が傾き始めている。夏とはいえ森の奥で一夜を過ごすには、マリベルの服装では心許ない。
それでも、じっとしていていられず立ち上がって葉を払う。
「うん、怪我はなさそう。運が良かったわ」
不安を拭うように、マリベルは務めて声に出す。
「さあ、どちらに向かえばいいかしら……沢を見つけるのが一番なのだけれど」
マリベルの実家は聖都の端、田舎の部類だ。森に池に親しんで成長した。だが今居るほどの深い森は初めてのこと。慎重に周囲に耳を澄ませ、微かに聞こえる水音を聞く。
「とりあえず、水だけでも確保しなくちゃ」
意を決して、マリベルは歩き出した。
沢があれば、水の流れを伝って歩こう。ドラコニア城に向かっている途中ではぐれたのだから、水が流れ着く先にレイク・ドラコニアがあるかもしれない。そう考えたのだった。
大きな樹の根をまたぎ、滑る苔に足をとられながら、マリベルは懸命に歩いた。
途中、何度か狼の咆哮を聞いた気がして震えたが、どうにか小さな沢を見つけることができた。そこで少しだけ口を潤し、下流に向かって再び歩き出す。
「大丈夫、きっと何とかなるわ」
呪文のように唱えるこの言葉は、これまで何度もマリベルが口にしてきたものだった。
マリベルのこれまでの人生は、決して平坦ではなかった。
魔法がほとんど使えないマリベルは、貴族令嬢としては無能という烙印を押されても仕方がない存在だ。家同士の婚姻で血を保ち、家格を維持する貴族家にとって、魔法は血に等しい。そんなマリベルでも、両親は厭うことなく妹と同じように育ててくれた。行儀見習いには出ずに家にいてもいいと言ってくれていたのだが、マリベルは家族のために無理を押して出たのだった。
両親のため、妹のため。家の対面を保つために、マリベルは貴族家で懸命に働いた。魔法具が使えないのならば、足を使って井戸から水を運び、手を使って冷たい水で雑巾をしぼり、下女がするような仕事を引き受けた。
幸いにして、それでも受け入れてくれる貴族家はあった。花嫁候補としての行儀見習いはできなくとも、マリベルの誠実な人柄を気に入ってくれて、侍女として雇ってくれるという話まで出たのだ。
けれども……
「ここにも、リコリスが咲いているのね」
沢を伝って下った先に、小さなため池が出来ていた。その水辺に、ほんのりと光るリコリスが風に揺れている。
マリベルは、その花の前に膝をつき、手を伸ばす。
五つの小さな花弁が、深く昏い森の中で彷徨うマリベルには、ただ一つの希望の光のように思えた。
けれどもリコリスは危険な毒の花。
望まれぬ場所で花を咲かせ、忌み嫌われる。マリベルは、役立たずなだけではなく、触れる者に害をなす自分のようだと感じるのだった。
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