第6話 マリベルに出来ないこと

 いったいどうなるのだろうと待つマリベルだったが、そんな応接室にメイド姿の若い女性が新たに一人やってきた。

 その女性は、空白となった契約書を前に悩むチャールズの様子を見て、契約がまだ成されていないことを知り「間に合ったようね」と呟く。

 そしてチャールズから契約書である羊皮紙を奪い取った。


「クライド様から、チャールズに話があるそうよ」

「これから契約書にサインしてもらうところでした、すぐに済ませてから向かいます、返してください」

「いいえ、それよりも先に来て欲しいそうですわ」


 それを受けてチャールズは、仕方が無いといた風情で応接室を出て行った。

 新たにやってきたその若いメイドは、小柄で可愛らしい女性だ。クリームブラウンの長い髪に、澄んだ青い瞳。華やかな目元と白くて陶器のような手入れの行き届いた肌、ぴんと伸びた背筋と優雅な仕草から、どこか立派な貴族家の令嬢のように、マリベルは見た。

 そんな彼女は、小さな箱を手に提げている。


「あなた、食事は終えられまして?」

「あ、はい。ご馳走様でした」


 人形のような綺麗な顔、チャールズやクリステル、それからオルコットのような分かりやすい表情とは真逆で、何を考えているのか悟らせない顔は、さらに令嬢らしさを感じさせる。 慌てて席を立ったマリベルだったが、すっと歩み寄ったそのメイドが肩をそっと押すだけで、再び椅子に腰を下ろすことになってしまう。

 戸惑うマリベルの前に膝をつき、彼女の手を取って見上げる。


「私はルイーゼ・ロットナー。クライド様から、あなたの手当をするよう言いつかりましたの」


 ロットナーという名に、聞き覚えがあるマリベル。あまりにもたくさんの貴族家があるので覚えきれないが、令嬢のたしなみとして伯爵家以上は必ず覚えさせられるのが通例だ。その伯爵家の一覧の、上の方にあったと記憶している。

 そんなことを考えるマリベルを余所に、ルイーゼの細くて綺麗に整えられた爪をした指が、あかぎれとささくれだった指を包み込む。そしてルイーゼは持ってきていた小箱を開けると、中から小瓶を取り出した。

 どうやら花の香油が混ぜられた保湿クリームのようだ。


「酷いひび割れね……確かにこれでは、傷の手当てからした方が良さそう」


 そう言うと、ルイーゼは、箱の中から軟膏らしきものと、傷の手当用の布を取り出して切る。

 そうしている間に、クリステルとオルコットにまで、手を観察されてしまうマリベルだった。


「まるで、下町の洗濯場で働いてきたってくらいの荒れようじゃないか?」

「すっかり切れて……古い傷もあるね。以前いた屋敷で、いったいどんな仕事をさせられていたんだ?」


 オルコットとクリステルは、マリベルの荒れた手を見て眉をしかめる。


「お目汚ししてしまい、申し訳ありません」


 マリベルが恥じて指を握り込みそうになると、手当をしていたルイーゼがその手を引く。


「あなたが謝る必要などありませんわ」


 ルイーゼは丁寧にマリベルの指先に軟膏を塗り込む。そうしてから小さな香炉台を用意し、火を灯す。皿に移した香油をあぶって温め、マリベルの両手にまんべんなく塗る。

 ほんのり温まった香油と、柔らかいルイーゼの手のぬくもりに、マリベルの緊張と不安がゆっくりと解けていくようだった。

 マリベルは、自分が思っていた以上に、気を張り詰めていたのだと自覚する。

 度重なる行儀見習いの失敗、居場所を失う心細さ、将来への不安。それらを招いた自分へのふがいなさ。失望されないように、駄目な自分を見せないように、どう立ち回ればいいのかとか、そんなことばかり考えて心が安まる時など久しくなかった。


「……ありがとうございます」


 絹でできた柔らかい手袋をはめてもらい、マリベルは心から感謝を述べる。だがルイーゼは道具を仕舞いながら立ち上がり、素っ気なくこう告げた。


「お礼を言うのならば、クライド様へお伝えするといいわ。私はクライド様から、あなたの手が傷だらけだから、手当をするよう言われただけですもの」

「あ、あの触れた時に……?」


 マリベルは自分の手を見ながら、離れで腕を掴まれた時のことを思い出す。

 ほんの一瞬のことだったはず。そんな短時間で、マリベルの手が荒れていることに気づき、


「ちょっと待った、クライド様が触れたって……マリベルに?」


 困惑するオルコット。彼はどうやら、マリベルがチャールズによって初仕事を任せられたことは聞いてなかったようだ。


「それが、チャールズのやつ、ここに来た早々のマリベルに、離れまで行かせてクライド様を起こさせたらしいんだよ」

「な、何を言ってるクリステル、そんなわけ……って、マジか?!」


 クリステルの説明を素直に信じないオルコットだったが、小さな声で「本当です」と言ったマリベルの声を拾い、驚き仰け反る。


「何を考えてるんだよチャールズは! 怪我はなかったか、マリベル?」

「いえ、何ともありません……ですが」


 言い淀むマリベルだったが、彼らに嘘や誤魔化しを言うわけにもいかず、頭を下げながら告白する。


「言いつけを忘れて、無断で扉を開き寝室の中に入ってしまいました。本当に申し訳なく……」


 だがマリベルの懺悔は、最後まで続けることは叶わなかった。

 クリステル、オルコットの二人の声によって。


「寝室の中に入ったって、本当か?」

「ちょっと待って、私はてっきり、離れの入口まで行っただけかと……チャールズだってそんなこと一言も」


 二人のあまりの驚きように、マリベルは小さくなるしかない。だがそんな彼女を見かねた様子のルイーゼが、二人に「静かになさって」と口を挟む。

 そして、続ける。


「クライド様からお聞きして耳を疑いましてよ……マリベルは魔力嵐の中を平気で入ったそうですわ」


 その言葉に、クリステルとオルコットは絶句していた。





 その後マリベルは、引っ越し作業の仕上げをするという、クリステルとルイーゼの二人に連れられて、リンデン・ブルーム城の中を軽く案内される。

 オルコットは食べ終わった食器を下げ、食堂周りの片付けをしに行っている。

 クリステルからの説明により、ドラコニア公爵つきの使用人は、たったの四名なのだと知り、マリベルは心底驚いていた。


「クライド様は身の回りのことはほとんどご自分でされるから、メイドといっても周囲を整え必要な品物を準備するだけだ。公務やスケジュール管理、外部との連絡なんかはチャールズが一手に引き受けているし、人数が少ないから料理人もオルコット一人で事足りる。そもそも、クライド様が存在するだけで吹き荒れるあの魔力嵐に耐えられるだけの人材は、そうそう居ないから」


 入った一室で、クリステルが魔法で家具を浮かしながらマリベルに説明する。呪文も魔法具も使わずに、さっと手を払うだけで大きな寝台二つと、四つある大小さまざまなチェスト、それから椅子たちを一片に持ち上げる様に、彼女もまたすこぶる優秀な魔法使いなのだということが分かる。マリベルがそれを見て目を白黒させている間に、もう一人のメイド、ルイーゼが何かを呟く。すると大理石の床に水が広がり、小さな埃一つ逃さず磨くように流れていく。


「ここは私たちが使っていた部屋だよ。さすがに使った分は綺麗にして出て行くけれど、残りの部屋は、公爵家の使用人たちが管理するから放っておいていい」

「……公爵家の?」


 彼らも公爵家の使用人であるはずなのに、何か区別のようなものを感じる。


「そう。次に訪れるレイク・ドラコニアにあるドラコニア城、そっちの準備も他の使用人たちがしている。必要な食料などの物資も用意されているから、私たちは最低限の荷物をもって、行くだけだ」

「わたし、新しく出たばかりの本を注文しましたわ……届いているといいのだけれど」


 のんびりと言うルイーゼに、クリステルは少々呆れ顔だ。


「マリベルも欲しいものがあれば、何でも言ってくれ。居城周辺の街にないものなら届けさせる。どこにでも売っているような物なら、城下町で買うのも自由だ」


 すっかり綺麗になった床に、クリステルは家具を下ろす。そして柱にかかる細工時計を見てから、マリベルを振り返る。


「そろそろ転移魔法陣で荷物を送る時間だ、マリベルの鞄も一緒にまとめるから行こうか……」

「あ、あの……確認させていただきたいのですが、レイク・ドラコニアって、確かリンデンよりも北西ですよね? 魔境山脈にかなり近い……」

「ああ、そうだね。二十里くらい、いやそれ以上だったかな」


 マリベルはそれを聞いて青ざめる。

 その距離ならば、馬車で二日はかかるために、通常ならば魔法陣を使う距離だ。


「どうしましたの、マリベル?」


 不思議そうに見るクリステルと、問いかけるルイーゼに、マリベルは正直に話すことにした。


「私は、転移魔法陣を使えません……ご迷惑をおかけしますが、馬車を手配させてください」


 これがマリベルが行儀見習いをクビになり、貴族家を点々とすることになった理由のひとつだ。

 顔を見合わせる二人のメイドに、マリベルは捲し立てるように説明する。


「理由はよく分からないのですが、私は魔法を使うのが苦手だけではなく、魔道具すらも使えません。それだけでなく、私が使うと魔法具に不具合をもたらしてしまうのです。だから聖都から十日かけて、馬車でまいりました」


 そんな人間は見たことがない。何かの間違いではないのか。そう言われたのも数え切れない。魔法が使えないどころか、貴重な魔法具を破壊する。それが真実であることが証明されれば、次に言われるのは『役立たずどころか、足手まといではないか』という言葉だった。

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