第5話 沁みるスープ

 ドラコニア公爵家で、行儀見習いとして最初の仕事をこなして戻ってきたマリベルを見て、チャールズはおおいに喜び「まさか本当に成し遂げられるとは」と口にした。

 はなから無理な仕事だったと言いたげな台詞に、釈然としない部分もあるマリベル。しかし応接室の一室へ招かれたところで、改めて執事には労わられることに。


「恐ろしい思いをなさったでしょう。ですがドラコニア家にお出でくださるご令嬢には、多少の嵐には慣れていただかねばなりません」


 『多少』が適切かは疑問が残るが、確かにドラコニア公爵領は、嵐……特に雷雨が多い地域で有名だ。

 だが、マリベルは離れの部屋からあふれ出す真っ黒な霧と、今にも凄まじい放電をしようと燻る雷を思い出す。

 さすがに嵐が室内にも吹き荒れると分かれば、普通の貴族令嬢は逃げ出してしまうだろう。宿の主が見せた慣れた対応への事情を察するマリベル。


「まあ本当のところは、城に到着なさったご令嬢など、久しぶりのことです。それだけで合格とも言えます」

「え……? それじゃあ、公爵様をお起こしするのって……」


 それは嬉しそうにチャールズが続けた言葉が、あまりに予想外のことで驚くマリベル。

 だがそんなマリベルの後ろから、落ち着いた、でも通りのよい女性の声が響く。


「チャールズ、あんたの悪いところは、洒落にならない冗談を次から次へと生み出すその口だな」


 マリベルが振り返ると、そこには若い長身のメイドが両腕を組んで立ち、彼女の代わりとばかりにチャールズを叱り飛ばしたのだった。


「はっはっは、クリステルさんの口の悪さには負けますよ」

「笑い事かよ、何も知らないお嬢さんにあの雷雨の中を歩かせるなんて、可哀想だろう」


 その女性は、メイド頭のクリステル・クーテロといった。細身で中性的な顔立ちは、青みがかかった灰色の短い髪のせいもあって、舞台役者のような美丈夫だ。目元もキリリとして、ハキハキと喋る男性口調が印象的だった。

 

「マリベル、あんたのことはそう呼んでもいい?」

「も、もちろんです、クリステル様」

「ああ、私は平民だから様なんてつけないで。彼にもだ」


 クリステルがチャールズの方へくいと顎を向ける。

 驚くマリベルに、チャールズ自身もにこやかに微笑み、頷く。


「私のことはチャールズと、名前で呼んでくださいね。もちろん私だけでなく、クライド様の専属は、名前で呼び合う習慣になっています」


 そう言われてマリベルは、先ほど別れ際の公爵の言葉を思い出す。


「それは、公爵様のご意向ですか?」

「ほう、クライド様からそう言われましたか」


 チャールズが大げさに驚いた様子を見せたので、マリベルはただ名前を告げられたことだけを伝える。


「それだけでも大したものです。いやいや雷雨吹き荒れる中、あの離れを訪れる人が現れただけでなくあのクライド様が……今日は嵐が来るかもしれませんね。ああ、嵐は去ったばかりですが。はっはっは」


 嵐といえば、マリベルが離れから戻ろうと回廊に出た時には、既にすっかりと雷雨は見る影もなくなっていた。空は雲一つなく、藍色の空が白みはじめて、その美しさにマリベルは目を奪われたくらいだ。


「おいお二人さん、忙しいんだからお喋りはそのくらいにして、新人のお嬢さんに朝食を食べさせてやってくれよ。いつまで経っても取りに来ないから、心配するだろう?」


 応接室に、茶色い短髪の、がっしりとした体格の男性が入ってきた。

 大きなカートにいくつかのお皿を乗せて運び入れ、マリベルの前のテーブルに、それらを並べていった。そして完璧にテーブルセッティングを終えると、彼はマリベルに向き直る。


「ようこそお嬢さん。俺はオルコットっていうんだ、クライド様専属の料理人をしている。あんたは?」

「あ、はい。私は今日から行儀見習いとしてお世話になる、マリベル・コールフィールドです、よろしくお願いします」


 マリベルが自己紹介をすると、オルコットは人の良さそうな笑顔を向けて、マリベルを歓迎する。背が高く、白い調理人服の袖から出る筋肉質な太い腕と厚みがある肩を持つ彼が、護衛兵などではなく料理人と聞いて、マリベルは驚く。だが先ほど見せたカトラリーを並べる丁寧な指先、綺麗にナプキンを折りたたみ、椅子を引いてマリベルを促すその流れるような仕草は、とても自然だった。


「腹が減ったろう、さあ食ってくれ。時間があるうちに食べておかないと、今日は食べ損ねかねないからな」

「ありがとうございます……でも、今日はなにかあるのですか?」

「なんだ、まだ説明してもらってなかったのか。今日は、引っ越し日なんだよ」

「引っ越し……?」


 思ってもみなかった言葉を耳にして驚くマリベルに、チャールズが「そのまま食べながら聞いてください」と、食事をとるよう促す。

 マリベルは三人に見守られながら、スプーンを手にしてスープに口をつけた。


「……美味しい」


 夏とはいえ早朝から雨に濡れたこともあり、冷えていた身体に温かいスープは身に染みる。それだけでなく、摺ってなめらかに濾された芋がとろみを帯びて、ほどよい塩加減で食欲をそそる。なんてことはないよくあるポタージュなのに、マリベルの身体の芯に、足りなかった何かが満ちていくような気さえする。さっきまで空腹を感じていなかったのに、食欲を刺激されたマリベルは、思わず伸びた手でパンをちぎり、空腹を満たしていく。

 そんな様子を料理人のオルコットだけでなく、メイド頭のクリステルも微笑ましく見守っていた中、チャールズが今日の予定を話しはじめる。


「引っ越しの件ですが、本日中にここリンデン・ブルーム城を引き払い、ドラコニア城へ移動する予定です。クライド様は、領内の四つある城を、定期的に巡回しております。リンデンには二ヶ月滞在しましたので、青葉の月が変わる前、つまり本日中には次の滞在地レイク・ドラコニアに向かいます」

「そ、そんな大変な日に来てしまったのですね。私が遅くなってしまったから、ご迷惑を」


 今出された食事も、ここを引き払うために片付けるはずだった厨房を、使わせてしまったかもしれないのだ。


「気にする必要はありませんよ、マリベルさん。むしろ丁度良いタイミングでした、何しろ荷物をまとめる必要がないのですから」


 チャールズは、部屋の隅に置かれているマリベルの大きな鞄を見て、微笑む。


「それでしたら、私にも何かお手伝いをさせてください。掃除でも荷物運びでも何でもいたします」

「いや、ご令嬢に荷物運びはさせられないでしょう」


 横からオルコットが口を出して、笑う。だがマリベルは、真剣だった。


「これでも、力には自信があります、オルコットさん。こちらにお世話になるからには、全力で頑張りたいです。だってこんなに美味しいご飯をご馳走になるのですから」

「料理人殺しだなあ、マリベル。それに俺のことは呼び捨てでいいから」


 頬を染めるマリベルとオルコットとのやり取りを、小さく笑って見ていたクリステルが、割って入る。


「マリベルの申し出は有り難いが、今回はもう準備がほとんど終わっているんだ。所詮、移動は六人だからね。そんなことより、もっと大事なことがあるだろう?」

「……大事なこと、ですか?」


 大事なことと、それ以上に六人の移動という言葉に、マリベルはひっかかる。だがクリステルは当然、そんな疑問に気づかず話しを進める。


「ああ、契約書にサインしてくれ。行儀見習いといっても、立派な雇用だから、取り決めはきっちりしないと。私たちと一緒に、働いてくれるんだろう?」

「はい、もちろんそのつもりで、参りました」


 嬉しい言葉をもらい、マリベルは嬉しくなる。

 だが反面、不安もよぎる。これまでだって頑張ってきたつもりだが、マリベルは幾度も行儀見習いをクビになってきたのだから。


「でも……私に出来ることがあればいいのですが」


 役に立てなかったら、どうしよう。

 マリベルは魔法が苦手だ。雨に濡れても、自分はおろか床に滴る水を乾かすことさえ、チャールズがやってくれたように魔法で解決することができない。

 それくらいの魔法を仕えない人間は、居ないこともない。そのために魔道具が世の中には溢れているし、それらを使えば何とかなる。水を乾かせなくとも、水を出せる者がいるように、風は吹かせられるが、火を出せない者だっている。つまり属性によって、得手不得手があるものだ。その不得手が少なく、多くの手数を持つ者が好まれるというだけで。

 だがマリベルの苦手は、次元が違う。

 世の中にあるほぼ全ての属性に、素質がなかった。

 火を熾すために全精力を傾けねばならないし、ほんのそよ風を吹かせようとするだけで、その日はもう何も成す気力が無くなるほどに疲れ果てる。水は湿気を帯びさせるだけで喉を潤すこともできず、物を動かすのなら自分の手足以上の助けは望めない。

 人の価値が魔法の力で決まる世の中で、貴族家の令嬢が魔法を使えないことは、大きな痛手以外なにものでもない。


「あなたにはあるじゃないですか、誰にも真似ができない才能が」


 チャールズの言葉に、マリベルは俯いていた顔を上げる。

 丸い眼鏡の奥で、穏やかに細められる目には、嘲りや憐憫などひとつもなかった。


「契約書を、書き換えましょうかね。マリベルさんにしか担うことができない仕事は、この家ではとても重要なものですから」

「……それって、もしかして」


 今朝のように、公爵様を起こすことだろうか。

 まさかと、困惑しているマリベルの前で、チャールズは胸ポケットから折りたたまれた羊皮紙を取り出す。恐らく、マリベルがサインをする予定だった契約書なのだろう。

 それを広げた上にチャールズが手をかざすと、びっしりと書き込まれた最初の数行の文字が羊皮紙からふわりと浮き上がる。

 マリベルの名前、それから行儀見習い、雑務といった単語が中に浮いているのが、マリベルからも見てとれる。だがそれらの中に浮いた文字が、突如炎を上げて燃えていく。


「さて、どういう文言がいいでしょうかねえ」


 どうやら契約書まで魔法で書かれるらしいと分かり、マリベルは目を白黒させたのだった。

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