第4話 雷雲の主

 開いた扉の奥から吹き出してきたのは、これでもかと濃縮されたような黒一色の霧だった。

 思わず目を瞑ってしまったマリベルの耳に、風切り音に混じって、ゴロゴロと不穏な音が届く。

 驚いて真っ暗な部屋の奥に目をこらすと、見覚えのある閃光がくすぶっていた。


「……雷? まさか部屋の中で?」


 マリベルはハッとする。

 中には、公爵様が寝ているはずだ。何が起こっているのか分からないけれども、このまま黒い霧の中に居たら、危険なのでは。

 考えるよりも先に、マリベルは足を踏み入れていた。

 右腕を風よけに、舞い散る髪を左手で抑えながら、嵐のような風の中を進む。

 一歩、一歩と進む足元を、炭のようなねっとりとした霧が避けていく。それだけではない。なぜかマリベルが触れた床、そこだけがぽっかりと穴があいたように、床材が姿を見せる。

 数歩進んだところで、マリベルはふと異変に気づいた。

 風を受けているはずの腕、髪が、ほんのりと発光していたのだ。

 足を止め、両手を広げて見下ろすマリベル。

 そして顔を上げると、発光するマリベルの周辺だけが取り残された状態で、それ以外は相変わらず黒い霧が勢いよく吹き荒れ、開いた扉を抜けて壁を叩きながら螺旋階段へと流れていく。その勢いは恐ろしく、見ているだけで恐怖が募るほど。


「……どうして、私は無事なのかしら」


 いつしか髪を乱していた風さえも、マリベルに触れることすらなくなった。

 そうしてからようやく、この黒い霧も、立ちこめる雷の気配も、魔法だったのだと思い当たるマリベル。

 真っ暗な闇の中、ゆっくりと黒い霧が溢れる中心に向かって、再び歩き始める。それでもマリベルには、霧は触れることはなく避けていく。マリベルが恐る恐る腕を伸ばすと、指先まで淡く光り、まるでマリベル自身が、魔法灯のカンテラになってしまったかのよう。

 リンデン・ブルーム城を覆っていた雷雲のごとく、小さな稲妻が霧間を走るのを見ながら、マリベルは息を吸いながら意を決する。


「お……おはようございます、公爵様!」


 その瞬間、無限に溢れるばかりだと思っていた黒い霧が、ぴたりと止まる。

 そして伸ばした指先が何かに触れると、まとわりつくように漂っていた黒い霧が、文字通り霧散したのだった。

 驚くマリベルが引いた手を、逃がさないと言わんばかりに掴まれた。


「……誰、きみ?」


 マリベルの腕を掴んでいたのは、長い黒髪を下ろした、信じられないほど美しい男性だった。

 視界を阻んでいた黒い霧が晴れると、その部屋は確かに寝室だった。白い壁には魔法灯が灯り、真っ暗だった部屋はほんのりと薄明かりで照らされる。

 マリベルが立っていたのは、そんな大きな寝室の中央、立派な寝台の前。しかも寝台の周囲には、たくさんの魔法具がぶら下がっていた。そしてマリベルが立つ床には、一面の魔法陣。そしてマリベルを掴む腕にも、重そうな魔法具らしきブレスレットが、じゃらじゃらと幾重にもはめられていた。


「あ、あの……公爵様をお起こしに参りました……」


 目の前の男性が目を細めたことで、マリベルは言葉をのむ。

 ドラコニア公爵といえば、数々の噂でその容姿が知られている。

 魔人を思い起こすような黒い髪。赤く光る瞳、ぞっとするかのような美貌と繰り出される魔法は人のみならず魔物すらも魅了する。そのせいで魔公爵と恐れられるようになった人物だ。

 だがそう聞いていたはずのドラコニア公爵は、確かに長い黒髪の美丈夫ではあったが、その瞳は春の森を思わせるかのような緑色をしていて、真っ直ぐマリベルに向けている。噂通り圧倒されるほど美しいその顔に圧倒されはすれども、魔物と対峙したような恐ろしさはない。

 なぜなら、目の前の男性が掴む手は決して強くはなく、それでいて表情は恐ろしいどころか、何の感情も読み取れない。まるで美しい彫像を前にしているかのような気持ちになるマリベル。


「……ああ、すまない」


 困惑する様子に気づいたのか、すぐに手を離された。そんな所も、噂とはほど遠い気がして、マリベルはどう反応したらいいのか分からなかった。

 だがそれら意外性はあるが、彼が公爵その人であることは間違いない。マリベルは乱れたスカートを整えて端をつまみ、丁寧に膝を折って挨拶をする。


「マリベル・コールフィールドと申します、召喚状をいただき、行儀見習いとして参りました」

「……そう。到着早々、チャールズが無茶を言ったのか」


 低く落ち着いた声で、小さく呟く公爵。

 些細な仕草すら、一枚の絵画のように見える。そんな人など初めて見たマリベルは、自分の風で乱れた髪とあれた肌が恥ずかしくなってしまう。

 そっと手で髪をなでつけながら、マリベルは事情を説明する。


「いえ、扉を勝手に開けて入ってしまったのは私です、チャールズ様からは部屋の外からお起こしするよう言われていたのに」

「扉を? きみが?」

「はい、この鍵をお預かりして……」


 鍵をポケットから取り出したマリベルに、公爵が「そっちじゃない」と告げると。

 マリベルは改めて自分のしでかした事に気づき、顔を赤らめる。いくら侍女として働かせてもらおうと思っていたとはいえ、許可も無く寝室に入り込んだのだ。令嬢としてはあるまじき行為である。


「もっ、申し訳ありません、ノックをしようと思って触れたら、開いてしまって……でもだからといって入ってしまうのは間違いでした。今、チャールズ様をお呼びしてきます」


 慌てて振り返ろうとしたマリベルの手を、再び公爵が掴んで止めた。

 驚くマリベルの様子をしばらく見つめてから、公爵はそっと腕を解放する。

 マリベルの方はその意味がさっぱり掴めず、彼が怒っているのか呆れているのかも、察することができなかった。ただ公爵は、じっとマリベルを掴んでいた己の掌を、見下ろしている。

 だが止められたのは事実、立ち去るのは間違いだと気づき、マリベルは公爵の出方を待つ。


「きみは、この部屋に入って、何ともなかったのか」


 その言葉に、マリベルの心臓がどくんと飛びあがる。

 魔法の嵐のなか、自分がほんのり光っていたのは、言ったらどうなるのだろう。やっぱり追い出されてしまうのだろうかと、不安がよぎる。

 マリベルを見上げる公爵の顔には、これまでマリベルが当たり前のように受けてきた嘲りや、呆れ、拒絶のような色が一切見当たらない。だからといって、マリベルが本当のことを告げたなら、公爵もまた自分を役立たずと追い出すだろうかと怖くなる。

 言葉に詰まり、俯いてしまうマリベルの頭に、温かい何かが乗る。

 驚いて顔を上げると、立ち上がった公爵が、マリベルの頭を撫でていた。


「凄いな、きみ」


 そう呟くと、マリベルの横を通り過ぎ、歩き出す。


「あの、公爵さま?」


 後を追うマリベルに、彼は背を向けたまま言う。


「チャールズでさえ僕が寝ている部屋には、入れない」

「も、申し訳……」


 執事でさえ入室を拒否している部屋に入ったのかと、マリベルは改めて謝罪を口にしようとしたのだが、相手の公爵がそっと指を立てて口の前に差し出した。

 驚いて言葉を失っているマリベルの前で、公爵は右手を挙げて、空を一切りする。するとカタカタと壁に亀裂が入っていく。まるでパズルのように幾何学模様に分割し、壁一面に模様が浮き上がっていく。


「この部屋は、魔法封じのしかけがある、そういう意味。気づかない?」


 振り返ってそう問うてきた公爵に、マリベルはただ頷くことしかできなかった。

 少しだけ考える素振りをした公爵は、「うん」と何かを納得したような様子を見せて、自らの腕に幾重にもつけた魔法封じの法具を外していった。


「普通の人なら、魔力を失って一分で動けなくなる。場合によっては、心臓が止まる」

「え……?」


 マリベルは驚いて自らの胸に手を当てる。

 そんな姿を見て、公爵が目を細めた。

 笑われた、のだろうか? マリベルは胸に当てていた手を外し、頬を染める。


「あ、あの。公爵様がお目覚めになられましたので、チャールズ様へご報告に。し、失礼します」


 勢いよく頭を下げ、逃げるように踵を返す。

 足早に螺旋階段へ向かうマリベル。その背後から、相変わらず落ち着いた声がかかる。


「僕の名は、クライド」


 もちろん存じ上げています。マリベルが振り返ると、ドラコニア公爵クライドは、微かに明るくなった窓の光を背に、佇んでいた。

 彼の表情は、逆光で見えなかった。

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